2話 私はコウハイ君の名前を知らない
私はコウハイ君の名前を知らない。
そして、コウハイ君も私の名前を知らないだろう。
半年以上セフレ関係を維持したものの、私たちの間では本当に体のやり取りしかなかった。
いや、口先でのやりとりはもちろんあったけど、どれも感情の核には触れない、表面を擦るような言葉に過ぎなかった。
「いいですよ」
だから、ただちに出たその答えを聞いて。
「……………へ?」
私はつい、ポカンと口を開けてしまったのである。
「ちょうど俺も、家の契約更新するタイミングですから」
「……いいの?」
「なんで引いてるんですか。センパイが誘ったのに」
「二つ返事で頷くとは思わなかったんだもん」
「確かに、それは俺も思わなかったですね」
呆れたように噴き出すコウハイ君を見て、私はどんな反応をすればいいか分からなくなってしまう。
でも、別にいいっか。コウハイ君のことは嫌いじゃないし、体の相性もいいし、ラブホ代も節約できるし。
「マゾなんだ、コウハイ君は」
「えっ、なんでいきなりマゾ?」
「だって、言ったでしょ?心の穴、もっと大きくしてあげるって脅迫までしたのに、すんなりと受け入れちゃうんだから」
「ああ~~でも、マゾはセンパイじゃないですか。さっきもあんなに―――」
「へぇ~~そんなこと言うんだ、コウハイ君。言っとくけどここ、まだラブホだからね?」
「……マゾが言っていい言葉じゃないですよ、それ」
「そうかもね~~まあ、ベッドではいつも君が勝つから」
私はもう一度コウハイ君の胸をつつきながら、言う。
「たまには私も勝たせてよ。それくらいの優しさ、コウハイ君は持ってるんでしょ?」
「……一体、これからどうするつもりですか?センパイ」
「どうもしないよ?一緒に暮らしても別に変ることはないじゃん。ダラダラして、たまにセックスして。ダラダラして、またたまにセックスして」
「ここ、ラブホですよ?」
「あははっ、ラブホだから言えることじゃない。とにかく」
その時になって、ようやくコウハイ君と距離を取って。
私は後ろで手を組んで、少しだけ肩を竦めて見せる。
「これからよろしくね、コウハイ君」
「……よろしくです、センパイ」
そろそろ解散する雰囲気になり始めた。
これから一緒に住むとなると色々なことを調べなきゃいけないから、また忙しくなるだろう。
もういっそう、今から不動産行った方がいいんじゃないかなとまで思い至ったけれど……現実性はあまりなさそう。
だから、今のところは大人しく解散することにした。
狭い家に帰って、お風呂に入って、ベッドでだらしなく横になって、私はぼんやり思う。
私がコウハイ君に言った、その言葉の重みを推し量るために。
『この胸の穴、私ならもっと大きくしてあげられるよ?』
別に、その言葉はウソじゃなかった。
私はたぶんだけど、コウハイ君に執着していると思う。コウハイ君を自分の色に染めたいとも思っているかもしれない。
そんな風にコウハイ君を調教した末には、なにが待っている?
たぶん、なにも待っていないはずだ。刺激とは、快楽とは何かを残すものじゃなく、何かを無くすもの。
だから私は、コウハイ君に会う以前の私には戻れない。
「困ったコウハイ君だな……もう」
センパイを逆に調教してしまうとは、なんて恐ろしいコウハイ。
まあ、そんな彼だから一緒に住む気になったんだけれど、やっぱりやられっぱなしなのは面白くない。
だから咄嗟の思いつきで、私はコウハイ君に電話をかけた。
そして、愛おしいコウハイ君は深夜の3時でも私の電話に出てくれる。
『……次もこんな時間に電話したら、怒りますからね』
「へぇ、今回は怒らないんだ?」
『ふぁ……それほどの優しさは持ってるので。で、なんですか?明日会社じゃないですか、センパイも』
「コウハイ君」
『はい』
「君の名前はなんなの?」
深夜テンションに当てられ、私はサラッと境界線を越えてみせる。
褒められた行為じゃないと分かっていながらも、私はその質問を口にする。
濁っている意識を振り絞っているのか、コウハイ君は沈黙していた。
一緒に住まないかと質問されていた時よりもずっと長い間を取って、取って、取って。
コウハイ君は、意地悪な言葉を返してくる。
『コウハイですよ』
「……あはっ、そっか」
『センパイも、センパイです』
「うん、私は君のセンパイだよ」
『……そういや、大丈夫ですか?センパイも』
「なにが?」
『穴が大きくなるのは、俺だけじゃない気がしますけど』
……………ああ、本当にこのコウハイは。
生意気で、意地悪で、大嫌いだけど、大好きだ。
「そうだね。私の穴も大きくなるかも」
『……センパイ』
「うん?」
『それでも、俺と一緒に住みたいんですか?』
思ってた以上に、私の口は早く動いていた。
「うん。それでも、君と一緒に住みたいよ」
『……変なセンパイですね』
「君のせいだよ、きっと」
苦笑する声が聞えてから、普段より砂糖をたくさんまぶしたような声が聞えてくる。
『おやすみなさい、センパイ』
「……うん。ごめんね、コウハイ君。おやすみ」
『はい、では』
色んな類の感情が押し寄せてくる。
そして、私はこの感情を消化しきれるほど大人じゃない。
まだ子供のままの私は、コウハイ君の声を思い出しながらくすりと笑って、窓の外を眺める。
真冬の夜空は、綺麗な雪で飾られていた。
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