第9話 今はすこぶる元気なので(2)


 テオドールと婚約してから、セリーヌの日常は一変した。

 

 学園を卒業したのも大きいが、セリーヌの負担が激減したのだ。


 立太子に向け公務をするようになったテオドールが、官僚の仕事の割り振りを改め、効率化を進めたのだ。さらにテオドール自身も机仕事をきちんとこなし、知識量も豊富なのでどんどん改善策が提案され、予算は組み直され、良案だと思われる施策がいくつも誕生した。おかげで当のテオドール本人は忙しそうである。


 セリーヌも少しは手伝っているものの、現役の王妃ならまだしも、未来の王太子妃に任される公務など本来微量なもので、セリーヌはほとんどの時間を婚礼の準備に充てていた。


 一方で、多忙なはずのテオドールは毎日公爵邸に顔を出す。一杯だけお茶をして帰ったり、花束だけセリーヌに渡して帰ったりするのだ。せっかく聖魔法で健康な身体になったというのにこれではまた壊してしまう。


 次第にセリーヌは自分の方が時間があるのだからと、王宮に通うようになっていた。


 アベルの婚約者だった頃も、毎日のように王宮に通っていた。でもあの頃はそれが義務のように思えて、馬車でそっとため息を吐くような生活だったはずだ。

 だが今は、自ら進んで王宮へ通い、そしてその心は、テオドールに会うことを楽しみにふわふわと浮かれている。自分の心の変化に、セリーヌは嬉しくなった。


 今日もセリーヌは王宮に来ている。テオドールの執務室で、彼の帰りを待ちながら書類仕事を少し片付けている。そろそろテオドールが学園から帰ってくる時間だ。

 セリーヌが現れると、テオドールはパァっと嬉しそうに破顔する。あの可愛らしいお顔を今日も見れるかしら、とセリーヌは心を躍らせながらテオドールを待っていた。


 その時、執務室のドアが開いた。想像通り、テオドールの瞳は喜びで輝く。


「セリーヌ! 今日も王宮に来てくださったのですね! あなたに会えて嬉しい」


 口調こそ丁寧だが、最近のテオドールは遠慮がない。今もつかつかとセリーヌの目の前までやってくると、ギュウっと抱きしめてきた。筋力トレーニングをしているせいか、数日前までヒョロヒョロだったはずなのに、段々とがっしりとしてきている。力強い抱擁にセリーヌはクラクラした。距離が近すぎる。


「殿下っ! ち、近いですわ」

「テオとお呼びください。私のセリーヌ」

「テ、テッ、テオ! 護衛の皆さんが見ています!」


 そこでようやく腕の力が緩められたが、今度は顔が近付いてくる。セリーヌは慌てふためいてテオドールの胸板を押すが、びくともしない。


「ダ、ダメですっ! でん、……テオ!」

「よくできました」


 ちゅっと頬にキスを落とされ、セリーヌの顔は真っ赤に染まった。テオドールの方が年下であるはずなのに、セリーヌばかりが翻弄されている気がする。護衛の騎士やセリーヌが連れてきた侍女のマリーは空気と化しており、この甘々な空間に動じていない。


 それどころか、マリーはテオドールの一挙一動を記憶して帰り、それを家族の前で事細かく披露するのだ。家族は照れて真っ赤になるセリーヌと合わせて反応を楽しむのである。アベルとは比べ物にならないほどに愛を伝えられ、甘やかされ、大切に扱われる様子を聞いて、家族は安心しているのだろう。


「あぁセリーヌ、今日も仕事を手伝わせてしまってすみません……。ありがとうございます」

「ほんの少しだけです。今までに比べたら全然──」

「ではお茶にしましょう!」


 テオドールはアベルと比較されたり、アベルと婚約していた頃のことを話すのを嫌がっている気がする。セリーヌにとって「辛い過去」だと思って気遣っているのかもしれない。

 セリーヌとしては、全く好意を抱いていない相手と結婚しなくて済んだのだから、全然傷ついていないし特に気にしなくていいのに……と思いつつ、促されてソファに座る。


 セリーヌの定位置は、テオドールの真横。向かいの席も空いているが、「叶うなら真横に座ってほしい」と懇願されてから、こうして彼に寄り添うように座ってお茶をしている。


「今日のお菓子はトレーニングも兼ねて、私が早朝仕込んだクッキーですよ」

「まぁ! テオ様が?」


 伏せっていた時間が長いテオドールは、ありとあらゆる書物を読み尽くしていた。政治や歴史、諸外国の情勢はもちろん、剣術に馬術、植物や農業、料理のことと幅広い分野の知識を有している。最近はトレーニングと称して、料理や園芸も嗜み始め、セリーヌに食べさせる野菜やハーブを栽培したり、菓子作りにも精を出しているのだった。


「……美味しいですわ!」


 今日のお手製クッキーは、前世のセリーヌも作ったことのない綺麗なアイシングクッキーだった。一つ一つが宝石のようで可愛い。幼い頃から妃教育を受けてきたが、さすがにクッキーの作り方は授業内容になかった。ましてや公爵令嬢が調理室に入ることも許されず、今世は料理の「り」の字も嗜んでいない。なんだか女子力でも負けてしまった気がして、少しだけセリーヌは複雑な心境になった。


「ほら、こちらはセリーヌの好きなハーブを練り込んだんですよ? 口を開けて?」

「え……! テ、テオ?」


 テオドールの長い指がクッキーをセリーヌの口へと運ぶ。その笑顔は有無を言わせぬ圧があり、セリーヌは真っ赤になりながらまたひとつ、極上の甘い甘いクッキーを口に入れられたのだった。


 マリーの目が輝いていたのは言わずもがなである。

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