19.5

その一部始終を見届け、慎重にキャットタワーを下りる。


 目前には、くつろぐ黒猫が一匹。子獅子より小さく、ましてや死ぬ恐れもないはずなのに、胸がざわついて落ち着かない。――しかし本当に、妻子の中の誰かだとしたら。藁にもすがる思いで、強張こわばった口を開く。


「……レイ、俺の言葉が通じるなら返事をしてくれ」

「――」

「聞こえていないのか?」

「……」


 無視をされているのか、あるいは眠ってしまったのか。耳だけがこちらを向いており、その表情は読み取れない。試しに、彼女の肩に前脚を乗せてみる。


「おい、レ――」

「フシャー!!」

「ギニャアアアアア!?」

「ちょっ、ヨスガ大丈夫!?」


 咄嗟に鼻を押さえ距離をとる。手を離すと、肉球には薄く血が付いていた。


「くそっ油断した……! 生前であればこの程度、容易く回避していたというのに!」

「いいから早く手当するよ! ごめん二階堂さん、レイちゃんをお願い!」

「――うん」


 そうして俺は、簡易的な手当を受ける。ひりつく鼻を撫でる、生前散々世話になった脱脂綿と精製水。幸いにも傷は浅かったため、今日一日様子見ということになった。


◇◇◇


「……」

「ほらほらー、ヨスガの好きなおやつだよ〜」

「要らん」

「レイちゃんにあげちゃうよ~?」

「……好きにしろ」


 虫の居所が悪い中、食べる気にもなれずそっぽを向く。キャットタワーに上りふて腐れる様は、我ながら本格的に猫のようだ。暫く心配されるも、やがて琴音の声は遠ざかる。


「レイちゃーん、ピューレ食べる?」

「ニャ」

「わっ、お辞儀した! かしこかわいい……!」

「ニャアニャン」

「もっと欲しいの? 二階堂さん、あげて大丈夫?」

「平気。けどそれで終わりにしてね」

「はーい!」


 小賢しいの間違いではないか。聞き耳をたてていると、足もとから物音が近付いてくる。


「いい加減にしろ琴音、俺は意地でも――」

「ンー」

「……何の用だ」


 ちょっかいを出してきたのは、ネズミの玩具を咥えたレイだった。キャットタワーを上りきり、俺の顔の前に玩具を落とすと、前脚で押してピィピィと鳴らす。


「……遊んで欲しいのか?」

「ニャン」

「貴様は――」


 なんて調子のいい奴なんだ。しかしその面影が娘と重なり、不覚にも溜飲は下がっていく。


「……仕方ない。琴音達に迷惑をかけない範囲でだぞ」

「ニャ」


 これは本当に娘か確かめるためであり、決してほだされた訳ではない。そんな言い分を胸に納め、玩具を咥えた。


◇◇◇


「はあっ、はあ……」

「ニャ?」

「くそっ、まだ遊び足りないのか!」

「ニャン」


 遊び相手を請け負ってから早10分。俺は何故か、レイの尻尾を追いかけていた。俺が肉球に汗を滲ませる最中、涼しい顔で駆け回る彼女。歯を食いしばり躍起になるも、すんでのところでかわされ続ける。


『何故だ、何故こんなことに……!』


◇◇◇


 最初は、ネズミの玩具をレイに転がしては受け取るという単調かつ簡単なものだった。しかし流石に飽きたのか、暫くしてレイは玩具を放り投げ、俺の尾に抱きついたのだ。何事かと振り返ったのだが、どうやらそれが、レイの好奇心に火をつけてしまったらしい。


『……俺のせいなのか? いや――責任の所在はさておき、これは彼女のが観察できる絶好の機会。いささか体力にかげりがあるが、逃す手はない』


 眼前の黒を捉え続けるも、ふと耳に入った雑音に、視線だけ動かす。するとあろうことか、琴音達は菓子をテーブルに広げていた。


「あははっ、ヨスガ頑張れー!」

「はあっ、はあっ――貴様、他人事だと思って……!」


 味方であるはずの彼女は、まるでスポーツ観戦のように、ペットボトル片手にこちらの猛追を眺めている。その傍らで二階堂も、正座をしながら菓子をつまんでいた。


「……レイがあんなにはしゃぐの、初めて見た」

「いつもはもっと大人しいの?」

「うん。まだ仔猫なのに、猫じゃらし見ても全然反応しない。だから今は、よっぽど楽しいんだと思う」

「へぇ〜、それってやっぱり相性いいのかな」

「分からない。けど……そうだったら嬉しい」


 恩愛に満ちた眼差しを受けた気がしたが、構わずベッドに飛び乗る。


「はあっ、はあ――」

「ニャニャン」

「顔色ひとつ変えないとは、舐められたものだな!」


 彼女は余裕に笑みを浮かべているが、知能は俺のほうが上手うわてらしい。巨躯を活かして壁に手をつき、遂にレイを部屋の隅に追い詰めることに成功した。

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