第19話 猫は追うより受け入れろ

 それからまた時は流れ。湿気から解放されたと思いきや、今度はうだるような暑さに見舞われる。恐ろしいことにテレビによれば、今日の最高気温は38℃らしい。


『人間の平熱より高いではないか。……飼い猫が家から出ない理由が、今ようやく理解できた』


 家は快適だ。温度も湿度も空気も、全てが過ごしやすさで満ちている。そんなオアシスのような部屋で、琴音は頭を抱えていた。テーブルの上に散乱しているのは、ロクに折り目がない教科書と、赤字で余白を埋め尽くされたプリントの数々。


『ふむ……“期末試験”とは何だ? 名前からして、特定期間の学力を計るものに違いはなさそうだが』


 まさか学生をふるいにかけ、成績不良者を炙り出しているのだろうか。隣に座って眺めていると、横から重いため息が聞こえてくる。


「ヤバい……ヤバいよヨスガぁ」

「どうかしたか?」

「……見てこれ」

「これは――」


 琴音は深刻そうな表情で、細長い紙切れを俺に見せる。そこには科目と点数がずらりと横一列に記載されており、軒並み平均点を下回っていた。数学にいたっては、20点しかとれていない。


『……想像以上に酷い』


 唖然としていると、琴音は紙切れを握り締める。


「……うちの高校、赤点取ると補習なんだ。夏休み中に挽回しないと、進路にも響いちゃう」

「学校を追い出されはしないのか?」

「流石にそこまではないよ。けど……」


 将来に影響を及ぼすのは間違いない。そう彼女の瞳が訴えかけていた。


「ならば勉強すれば良いでないか。知識が身についていく感覚は、一度体験したら癖になるぞ」

「それができたら苦労しませんー! はあ……高校こそ青春したかったのに」

「すれば良いではないか」

「いやいやだから――」

「話は最後まで聞け。二階堂の成績はどうなんだ?」


 すると琴音は、盲点だったと言わんばかりに目を丸くする。


「えっ、と――確か、全教科90点以上だった気がする」

「ならば、教えを請わぬ手はないだろう」

「で、でも……迷惑じゃないかな。こっちは何も教えてあげられないし……」

「損得勘定で動いているならば、わざわざキーホルダーなど作って渡さん。違うか?」

「はっ、たしかに! よ、よ〜し……勇気を振り絞って――」


 琴音は鞄を一瞥すると、恐る恐るスマホを手に取った。


◇◇◇


 そこから数日後の土曜日。琴音は二階堂を自宅に呼び、私室で彼女に手を合わせていた。


「二階堂さん、今日はよろしくお願いします!」

「任せて。分からない問題が出てきたら教えて」


 挨拶も程々に、教科書とノートがこぢんまりとしたテーブルを埋め尽くす。一方机には菓子とペットボトルが用意され、長時間の戦いを暗示していた。


 二人が集中する傍ら、レイは俺のベッドで丸くなり、暇そうにあくびをする。そんな彼女らをキャットタワーから見下ろすのは、何とも不思議な感覚だった。


『まるで、俺が居なくなった後の世界を見ているようだ』


 当然のことながら、転生後も死は訪れる。そんな失念していた――いや、目を背け続けていた事実が不意に脳に覆い被さる。今の肉体はもって十数年であり、妻子と運良く相逢えたところで、を押し付けることになってしまうと。


『“妻子を探し、今度こそ家族で人生を謳歌する”。……もしやこれは、俺のエゴなのか?』


 そもそも妻子に転生前の記憶が無かったら。拾われた先で、既に猫生びょうせいを謳歌していたら。……それ以前に、再び家族と過ごすのを良しとしていなかったら。


『……』


 項垂れていると、琴音のうめき声に思考が掻き消される。顔を出すと、ペンを回しながら頬杖をつく彼女の姿があった。すると二階堂は手を止め、琴音のノートを覗く。


「どうかした?」

「因数分解ってどうしたら良いんだっけ?」

「共通因数でくくる」

「きょうつう、いんすう……くくる……?」

「……」

「あ、あはは……」


 まるで初めて習うような素振りに、流石の二階堂も言葉を失っていた。


『……前途多難だな』


 だが二階堂はすぐに平静をまとい、ペン先を琴音のノートに向けた。

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