2.5 差し伸べられた手

 その後は公園を離れようと歩を進めたが、何度試しても何故か失敗。いくらルートを変えようと打ち勝てぬ様は、まるでうっかり迷宮に入ってしまった進入者のようだった。


 そして数時間後。俺は遂に、いかなる者も抗えぬ敵――“食欲”に襲われる。


◇◇◇


「ニ゛ャックシュン! ……毛皮装備とはいえ、油断してると風邪をひきそうだ」


 身震いに危機感を覚え、ドーム型の遊具に入り風をしのぐ。無人の公園は絶好の探索チャンスだったのだが、空腹に動く気力など湧かず。そのまま茂みの陰に横たわっていたら、すっかり夜になっていたのだ。


『くそ、胃が痛んでかなわん……。生前がいかに恵まれていたか、よもやこんな場で味わわされるとは。……生きるとは、かくも厳しいものなのだな』


 食料を得ようにも、魚の棲む川も果実のなる木も無い。金も無ければ、他者に救助を要請することも叶わない。そこから導き出される残酷な答えは、火を見るよりも明らかだった。


『……俺は、再び死ぬのか。与えられたチャンスを活かせず、こうも短時間で朽ちるとはな……』


 頭をもたげ、街灯の影を見る。どうやら虫が集っているらしく、力尽きた骸が一つ落ちた。


『……唯一言葉が通じたあの娘は、何者だったのか。出歯亀だと無碍にせず、一度……面と向かって話してみるべき、だった……かもしれん、な』


 目蓋を閉じ、地面に身を預ける。全身の力を抜くと、いよいよ死を悟った。そのまま湿った土の感触に残された意識を吸われていると、遠くから聞き覚えのある声が飛んでくる。


「おーい、どこにいるのー!? 返事してー!」


 ――それは次第に距離を詰め、砂利を鳴らし。遂には光とともに、真正面から届いた。


「――あ! いたいた……ってどうしたの、大丈夫!?」

「貴様は、あの時の出歯亀娘……」

「貴様じゃなくって、琴音。ケガ――は、なさそうだね」


 身体を照らす光に目を細める。彼女の持つ長方形の物体は薄く、ランタンにしては異質だ。


『……この娘はあるいは、神の使いなのかもしれん。だとすれば今の状況も、彼女を蔑ろにした罰なのだろう』


 でなければ、数々の不条理に納得がいかない。されるがまま横たわっていると、娘は笑顔を向けてくる。


「はい、これあげる。お腹空いてるでしょ?」


 光を仕舞い、娘が袋から取り出したもの。それは未だ湯気を立ち昇らせる、芳しく焼けた牛肉だった。本能というものは理性を残酷に打ち砕くもので、口からは自然とよだれが垂れる。


「……良い、のか? 俺はお前に、数々の無礼を働いたのだぞ?」

「そんなの気にしてないよ。それよりほら、冷めないうちに食べちゃって! ちなみに、一応猫だから塩も何もついてないよ」

「食えるだけで充分だ。――では、遠慮なく貰い受ける」


 紙皿に置かれた牛肉は、200g程だろうか。しかし拝む余裕すらなく、両手で押さえ喰らいつく。一方娘は、別の皿にミルクを注いでいた。


「ふふっ、あんまり慌てると喉つまっちゃうよ?」


 ここまで醜態を晒したからには、もはや飲まぬ理由もなく。腹がはち切れんばかりになるまで、飢えと乾きを満たした。


 ――たった一枚の牛肉は、生前並べられたどの料理よりも遥かに美味だった。


◇◇◇


 やがて一式綺麗に平らげると、身体が勝手に毛づくろいを開始する。肉球を舐めて顔を洗い、体制を変えては手入れを続ける。最中毛が舌に何度も絡みついたが、腹を舐める頃には抵抗がなくなっていた。


 琴音に見守られながら獣のルーティンを終え、ようやく俺は頭を下げる。


「……感謝する。お前の助けがなければ、今頃俺は死んでいただろう」

「気にしないで。私、困ってる人――この場合は猫かな。とにかく、助けられそうなのはほっとけないんだ」

「ふっ、変わった奴だ」


 無償の愛。裏切りと画策が跋扈していた前世では、ひと欠片として無かった存在。それを初めて目の当たりにして、俺の心は酷く揺らいだ。


『……生き永らえる為なら、プライドなんぞ捨ててやる』


 決意とともに手を胸に当て、神に懇願するように。更にもう一押しとして、罪悪感を帯びた声を絞り出す。


「先程は、折角の申し出を反故にしてしまって申し訳ない。その……やはり、琴音の家に置いてもらえないだろうか」

「もちろん!」

「……ありがたい。では対価として、俺に出来ることなら何でも協力しよう」

「あははっ、ありがとう。思いついたらお願いするね」


 琴音は笑っているが、猫の身体なりに何か出来ることはあるはず。思案していると、ふと忘れていた話を思い出す。


「あとは……そうだな。友好の証を兼ねて、琴音に名を授けてもらいたい」

「いいの!?」


 瞳を輝かせる琴音。その表情は、さながら欲しい玩具を与えられた子供のようだった。しかし間もなく腕組みをし、次から次へと名を口に出しては首を傾げる。


「タマ……は違うか。子猫じゃないから、キティも変だし――」

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