第3話 猫と呼ばれる獣

 欠伸をしながら待機すること数分。急に琴音は手槌を打ったかと思うと、俺の上半身を持ち上げる。


「――いい名前思いついた!」

「何だ」

「ヨスガ! “ヨスガ”っていうのはどう?」

「ふむ……ヨスガ、か。悪くない響きだ。何か由来やモデルはあるのか?」

「うん。でも内緒! こほん――それじゃあ、あらためて。ヨスガ、これからよろしくね!」

「ああ。よろしく頼むぞ琴音」


 名付けられたことにより、いよいよ契約が締結した実感が湧いた。――まるで外交を結んだ時のような、静かなる高揚と緊張。握手を交わすべく手を伸ばすと、肉球を執拗に揉まれた。


◇◇◇


 新城家は、坂道の途中に建っていた。


「結構急だから気を付けてね。私、何度か転んじゃったんだ」

「承知した」


 琴音に続いて階段を上り、鉄柵の門を抜ける。次いで周囲を見渡すと、右手に庭が見えた。中央が畑になっており、柔らかそうな畝がいくつも作られている。


『自給自足もしているのか』


 葉こそ生えていないが、これから種を蒔くに違いない。ひっそりと感心していると、エントランスに辿り着く。すると琴音は木製の床に腰を下ろし、靴を脱ぎ始めた。


「この世界では靴を脱ぐのがマナーなのか?」

「うん。泥とか不衛生だしね」

「成程……この段差はその境目ということだな。しかし俺――猫の場合はどうすべきだろうか」

「ん? ああそっか、このタオルで軽く拭いてあげるね」


 何処から取り出したのか、琴音はタオルで俺の足裏を拭っていく。今日一日で随分泥を踏んだらしく、タオルはあっという間に黒ずんだ。


 その最中雑談をしていると、琴音に似た雰囲気をもつ中年の女性が、スリッパを鳴らし駆け寄って来る。


「お帰りなさい。急に家を飛び出すもんだから心配したわよ――ってあらあら、でかくてかわいい猫ちゃんね! もしかしてこの子のため? でもどこで拾ってきたの?」

「あー、えっと……。この子は、そう――公園で迷子になってて。お腹をすかせてたみたいだから、勝手に冷蔵庫のお肉持っていっちゃった。ごめんなさい」


 咄嗟の嘘がつけないのか、琴音。すると褪せた黒髪の女性は不審そうに近寄り、俺をまじまじと品定めする。


「別にいいけど……この子って野良なのよね? それに耳にカットがついてないし、去勢もまだなんじゃない?」


 何処を見ているんだ何処を。発言も相まって不快極まりないため、琴音の陰に隠れる。しかし女性は気にも留めず、ズケズケと質問を重ねる。


「ちなみにその子は男の子? 女の子? このあとどうするか決めてるの?」

「あー、大丈夫! 全然大丈夫! わたしがひとりでその辺全部どうにかするから!!」

「どうにかって……お金もかかるのよ? ご飯やトイレも、病院にだって行かないといけないのよ? 今まで金魚すら飼ってきたことないのに、きちんとお世話できるの!?」

「いいからほっといて!」


 琴音はろくな返事をせず、廊下を抜け階段を駆け上がる。彼女の背中に何度か静止を求める声がぶつけられたが、速度を緩めることなく自室に退避する。


◇◇◇


 琴音の部屋は生活感が溢れており、お世辞にも綺麗とは言えない状態だった。シングルベッドのシーツは起床時のまま。脱いだナイトウェアはその上に無造作に散らばっている。しかしテーブルは整頓されており、壁には向き合うような形で青年の絵が飾られている。


『なんだあの病弱そうな青年は……琴音の婚約者か?』


 茶髪の優男はぬいぐるみを抱え、微笑みを浮かべている。首を傾げながら凝視していると、前に座られそれとなく視界を遮られた。


「はあ……来て早々騒がしくってごめんね」

「いや、母君の問いについては概ね妥当だ。とりわけ金については、俺も気に掛かっていたからな。……よって、単刀直入に聞こう。琴音は俺を保護するだけの金を持っているのか?」

「ううん、ない」

「――は?」


 あっけらかんと放つ無責任な発言に、俺はただ目を丸くする他なかった。

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