1.5 出歯亀娘との邂逅

 手近な木に触れ、落ちていた葉を舐めてみる。


「触覚も味覚も感じる、だと……。もしやこれは、夢でも死後の世界でもなく……新たなる現実――“転生”なのか!?」


 だとすれば、荒唐無稽なこの状態にも合点がいく。


『だが、こうも感傷に浸らせてくれないとはな』


 それどころか、状況説明もないまま見知らぬ世界に放り出され、絶望すら覚える。金もなければ知識もない。必要な衣食住も、人間に言葉が通じなければ、獲得は困難を極めるだろう。


「くそっ、幸先不安だ……」


 何故神は、こうも試練を与えたがるのか。天を仰いでいると、茂みの向こうから若い女の声が聞こえてきた。


「ん〜? おかしいな……今この辺りから、幸の薄そうなイケオジの声が聞こえた気がするんだけど」


 随分と具体的な独り言は、徐々に距離を詰める。――傍に人はいないが、覗かれたら面倒だ。咄嗟に木の裏に身を潜めようとしたが、それよりも速く頭上から影が落ちた。


「うわっ、大きな猫!」


 どうやら茂みは低く、上から丸見えだったらしい。


『……人間がこれほど巨大に見えるとは』


 幼少期に読んだ、“主人公が巨人と戯れる絵本”を思い出す。するとリボンを首に下げた栗毛の娘は、長い髪を垂らし笑顔を向けてきた。


「ねえキミ、この辺で男の人見なかった?」


 木の実を焼いたような茶色い瞳が、俺を捉える。――正体を悟られるのは避けたい。よって獣らしく、嫌々ながらも顔を伏せ、腕を舐めてみる。ところが娘は、茂みを乗り越え俺の前にしゃがみ込んだ。


『何をするつもりだ……!?』


 ひだ加工されたスカートにシワがつくのも、純白のシャツが汚れるのもお構いなし。娘は満面の笑みを浮かべたかと思うと、今度は俺を両腕で包み込んだ。


「わっ、見た目通りモフモフだ〜! ……あれ? 毛並みは綺麗だけど、首輪はついてない。色んなとこで可愛がってもらってる野良なのかな」


 頭を撫で、手の甲を撫で。俺が無抵抗なのを良いことに、ありとあらゆる箇所をまさぐる娘。ここはどう動くのが正解なのか。だが思案しているうちに尻尾を持ち上げられたため、咄嗟に牙を剥く。


「いい加減止めろ! 年頃の娘が、みだりに男に触れるな!」

「えっ――」


 尻餅をつき、呆ける娘。この時ばかりは雑音は、空気を読んで掻き消えた。しかし娘は間もなく、我に返ったかのように震える口を動かす。


「……ねえ。今の声って、もしかしてキミ?」

「……」


 このまま黙っていれば、娘は首を傾げながらも立ち去るかもしれない。だが、応援を呼ばれる可能性も否定できない。それよりはと観念して、ため息混じりに返事をする。


「……ああ。先程の声は、他でもないこの俺だ」

「えっ――ほんと!? ほんとにキミなの!? ……すごいすごい! 喋る猫ってほんとにいるんだ!」


 あろうことか娘は、物怖じせず前のめりに食いついてきた。肝の据わった娘だと見上げていると、唐突に手を握られる。


「こほん……こんにちは! 私の名前は新城しんじょう琴音ことね! この春から高校生になったばかりの15歳! 好きな物は甘いもの、苦手なものは辛いものです!」

「は?」

「せっかくなら自己紹介したいなって。はい次、あなたの名前は?」

「俺の名は――いや、名乗るようなものは持ち合わせていない。何せ俺は死して獣と化した異形の存在。生前の名は、人の生とともに捨てたのだ」


 半分本心、半分虚偽の返事を投げる。


『相手が少女である以上、可能な限り脅したくない。とはいえ、下手に同情を誘いたくない』


 ――であれば、はなから理解されなければいい。そんな俺なりの気配りが練られていたのだが、娘には伝わらず。彼女は首を傾げると、気の抜けた感想を口にする。


「ふ〜ん? 難しくてよく分かんないけど、結構訳ありなんだね。……そうだ! なら私が名前をつけてあげる! 今なら居場所もセットでプレゼントするよ?」

「断る。それは俺ではない、別の“ねこ”とやらにくれてやることだ」


 手を振りほどき、娘の侵入経路の前に立つ。


「ではさらばだ、出歯亀娘よ」

「あっ、待って! ってか、そんな気持ち悪いアダ名つけるなー!!」


 去り際に批判的な声が聞こえたが、構わず未知の世界へと飛び出した。

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