第37話 氷解と誓い

 ――夢を視た。復讐に追われ忘れていた、妻の誕生を祝った夜を。彼女に触れることが叶わなかった、その時の続きを。


“どうしたの? 急に顔を見せてほしいだなんて”


 テーブルを隔て、向かい合う妻。彼女の目もとは相変わらず暗闇に覆われており、行き場のない視線がイヤリングを掠める。その先では、揺らめくロウソクが待ち構えていた。


『今回は娘達は不在か』


 それどころか、料理もプレゼントも、窓から見える景色もない。夢とはいえ、こうも要領よくさせてくれるとは。誰に感謝することなく前を向き、凝り固まった口を開く。


「唐突に見たくなった。だから、その……だな。お前の顔に、触れても良いか?」

“ええ、もちろん。……ふふっ。改まって言われると、なんだかドキドキしちゃう”


 震える手を伸ばし、彼女の前髪に潜らせる。艶やかな青い髪の向こうでは、どのような表情をしているのか。生前幾度となく重ねた視線が、今ばかりははなはだ恐ろしい。


 慎重に持ち上げ、目を合わせる。輪郭のはっきりした、澄んだローズピンクの瞳。しかして愛嬌のある丸い瞳は、まるで――


「こと……ね?」


 露わになった妻の素顔は、酷く琴音に似ていた。



◇◇◇



 頭を撫でられる感覚に、ゆっくりと目を覚ます。瞬間双眸に映ったのは、俺を見下ろす琴音の姿だった。視線がぶつかると、彼女は気まずそうに笑う。


「……あ、起こしちゃった? ごめんね、もう少し寝てていいよ」


 一体いつからここに居たのか。天を仰ぐと、海より青い空は茜色に染まりかけている。ひとまずベッドから下り、琴音と同じく草地に座る。


「いや、平気だ。それより、何故ここに居る。何処かに用向きがあったのではないか?」

「あ〜……うん。でも、ヨスガの様子が気になってリスケしたんだ」

「そうか。それは先方にも申し訳ないことをした」


 他人行儀な返事で場を凌ぐ。片や胸中は、混乱と喜びがい交ぜになっていた。


 行き先も伝えず出てきたというのに。何故この場だと分かったんだ? 幾つも湧き出る不毛な問いは音と成らず、代わりに口から抜け落ちる。


 一方で琴音は俺の横に座り直し、スカートを巻き込むように膝を抱えた。そうして前を向いたまま、「ここ、空気がキレイで気持ちいいよね」などと前置きを話す。


「……ねえ、ヨスガ。どうして話してくれないの? 私、そんなに頼りない?」

「……それは」

「あ、もしかして「また危ない目に遭わせちゃうかも」って心配してくれてる? でも大丈夫! あの後受け身の練習して、簡単には怪我しないようにしたんだ」

「っ……違う。違うんだ」


 消え入りそうな声。自分で発しておきながら、なんと情けないと顔を俯す。だがこのまま会話を続けてしまえば、いっそがつくだろうか。


「俺は、お前に――琴音に何の気兼ねもなく、今の生を謳歌してほしいんだ」

「今の生を謳歌、かぁ。ヨスガが言うと重みが違うね。でもそれって、なんだか私までみたいじゃん」

「……」

「えっ――」


 潮時か。琴音が困惑しているのに、かける言葉は見つからず。更に盗聴者がいなければ、隠し通せる嘘も仮面も持ち合わせていない。


 さながらスティエラが、“今ここで打ち明けろ”と指し示しているようだった。


『……であれば、いい加減腹を括らねばなるまい』


 どの道、わだかまりを解消する必要はあったのだ。そう自分を納得させ、姿勢を正し琴音と向き合う。


「琴音。お前に全てを聞く覚悟はあるか?」

「……うん。何があったのか、全部知りたい」

「ならば話そう。お前が目覚めた日に起きた、事の一部始終を。あの日俺はレイとともに、早朝から奔走していた。というのも――」


◇◇◇


 淡々と、さりとてつまびらかに語る。


 二階堂が黒幕であり、生前崇拝していた女神であったこと。琴音は一時猫の肉体に魂を入れられ、この家で過ごしていたこと。


 だが小鳥遊兄弟と協力し、彼女の計画を防ぎ。その報奨として、望むがまま願いを叶えてもらったこと。そして――“琴音”の生前が、探していた妻であったことを。


◇◇◇


 最後に、生前や猫だった時の記憶が無い理由を明かすと、琴音は目蓋を閉じる。


「……そっか。色んなことがあったんだね」

「こんな突拍子もない話を信じてくれるのか?」

「もちろん。だって、他でもないヨスガがそう言うんだもん。不思議なことだって、今に始まったことじゃないしね」


 すると琴音はベッドを背に、揺りかごのように前後に揺れる。


「それにしても、私の前世がヨスガの奥さんか~。……っ、なんか急にドキドキしてきちゃった」

「満更でもなさそうだな」

「えへへ。……子どももいて、不器用な旦那さんもいて。国の状態が不安定でも、きっと毎日楽しかったんだろうな」

「――」


 どこか大人びた声色の彼女を一瞥する。その横顔は照れくさそうで、見ていた俺もこそばゆい気分になった。だがそれも長くは続かず、彼女の表情は悲しげに曇る。


「なのに……何も憶えてなくてごめん」

「気に病むな。願ったのは俺だ。だがもし少しでも思い出したいというのであれば、件のノートに目を通すといい。あるいは、レイを交えて3人で読むか? ――……琴音?」


 しかし返事はなく。顔を上げると、琴音の鼻が今にも触れそうな位置にあった。


「こら」

「わぶっ!?」


 両手で頬を押したせいか、琴音は素っ頓狂な声を上げてけ反る。


「な、なんで!? ちょっとくらい試してみてもいいじゃん! もしかしたら記憶が戻るかもしれないのに……!」

「あれは絵物語だからこそ成り立つものだ。今の俺が猫である以上、衛生的にも良くない」

「む〜……」


 素っ気なく離れると、琴音は露骨に不満げな表情を見せる。彼女が試したかったのは、おそらく童話にありがちな“キスシーン”。動物から人間に戻れたり、はたまた死者蘇生が可能だったりするアレである。


 総じて物語を大団円に導くものだが、生憎とこの場では意味を成さない。


「だが――」


 頭をもたげ、琴音の鼻先に触れる。


「“鼻キス”程度なら問題ないだろう」

「あ……あ……」

「帰るぞ。急がねば夕飯に間に合わん」

「ちょ……ちょっと待って! 今行くから置いてかないでー!」


 先に柳を出ようとすると、顔を真っ赤にした琴音が追いかけてくる。その表情は在りし日の妻によく似ていたが、もう面影は重ならなかった。

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