第36話 棄てられた記憶、捨てられぬ追憶

「ああ、いただこう」

「はーい! まだ熱いかもしれないから、レイも気をつけてね」

「ニャ!」


 薄切り肉をキャットフードに絡ませながら、温度を調整していく。一方でレイは交互に食べるという、何とも強引な対処をしていた。



 俺はあの時、エマの肉体の維持が可能な道を模索していた。すると一つの案が見つかり、結果として、妻は琴音として第二の生を歩む道を選んだ。――「母を悲しませたくない」という、彼女らしい理由を遺して。


『意図的に記憶を消したとはいえ、こうも何事も無かったかのように振る舞われると……複雜な気分になるな』


 しかし思い出させる訳にもいかず、キャットフードの咀嚼がてら盗み見る。痩せていた顔はすっかり元通りになっており、つい先日まで入院していたのが嘘のようだ。


『……割り切らなければ。彼女はもう、かねてより愛した妻ではないのだ』


 我ながら、女々しさに嫌気が差す。別人格と認識しておきながら、なおも彼女の面影を探しているのだ。すると琴音は不意に手を止め、パンを片手に顔を上げる。


「ん? 私の顔に何かついてる?」

「……いや。まだ入るのかと思っただけだ」

「ふふーん、成長期だから食べるのが仕事なんです〜」

「食い過ぎて太るなよ」

「うわっ! ねえレイ聞いた今の!?」

「パパ、デリカシーなさすぎニャ」


 呆れるレイの視線が痛い。そう思う反面、この会話で記憶が戻らないか密かに期待してしまった。


◇◇◇


 今日の予定は特に無く。ひとまず俺達は、琴音の部屋に戻ることになった。琴音は音楽を聴きつつ、雑誌を読み。俺はキャットタワーに上り、隠したノートを覗き見る。


『これはやはり、べるべきなのだろうな』


 何時ぞや琴音に記してもらった、俺の生前と国について。あの時はまさか、こんな結末を迎えるとは夢にも思わなかった。


『……“忘れないように”と書いた代物が、よもや仇になるとは』


 何故妻の記憶は消されたのか。それはひとえに、「生前に囚われては、第二の生を謳歌出来ない」と彼女が訴えたからである。いくら記憶を別々のものと認識し、制御出来たところで、遠慮や迷いは生まれてしまう。故に今の彼女は、“琴音の記憶”しか持っていないのだ。


『いっそ俺達も、一切の記憶を消してしまえば良かったのか?』


 今は気丈に振る舞っているレイも、いつ何時なんどき弱音を吐くか分からない。万が一堪えられなくなった際の対処法が無いだけに、つい気を揉んでしまう。


『……記憶というものは、かくも人の心を乱すのか』


 ノートを閉じ、クッションの下に隠して座りなおす。古典的なやり方だが致し方ない。そうして気まぐれに床を見下ろすと影が落ち、琴音はスマートフォンを置いてこちらを見上げる。


「それにしても、ヨスガの奥さんともう一人のお子さん中々見つかんないね」

「……そうだな。情報が途絶えたということは、近くにいないのかもしれん」

「ん〜。じゃあ、少しお散歩の範囲広げてみない? 意外と隣の市まで来てるかも! 電車に乗ったり歩いたり、色んなところから見て回って――」


 まるで入院中の空白期間を埋めるように、喋り倒す彼女。その気遣いが、かえって俺の神経を逆撫でする。


「バイト先の猫カフェでもね、お客さんに聞いたりしてるんだ。けど最近、全然野良猫いないみたいで――」

「もういい」

「え?」

「金輪際、二人を探すなと言っている」


 床に降り立ち、琴音に目をくれる。すると彼女は、当惑に声を震わせる。


「……何で? ヨスガ、頑張ってたよね。転生前の思い出を忘れないようにって、毎日一緒にノートにまとめてたよね? どうしたらみんな見つかるか、作戦会議もした。それに――再会して一緒に暮らすんだって」

「レイが見つかっただけでも僥倖だ。お前は、猫の身体がいかに不自由か知らんだろう」

「っ――、でも!」

「この話は終わりだ。俺は警らに出るが、くれぐれも深追いはするな」


 反論を封じ、逃げるように出てきてしまった自分が情けない。ドアを抜け階段の方を向くと、耳を垂らしたレイと目が合う。


「……パパ」

「聞いていたのか?」

「うん。……盗み聞きしてごめんニャ。でも、あんな風に言うのはひどいと思うニャ」

「だが、真実を明かす訳にもいくまい」

「それは――、そうかもしれニャいけど……」


 分かっている。これが八つ当たりであり、エゴであると。それでもなお、生前俺達を捨てられたような悔しさを抑えきれないのだ。


「お前にも釘を刺しておく。あの日小鳥遊家で起きた事、一部たりとも明かすなよ」


◇◇◇


 それから俺は新城家の周囲を歩き、警らがてら頭を冷やす。通行人もいなければ車も通らない、閑静な住宅街。自然こそないが、その平和ぶりに幾ばくか気持ちは落ち着いた。


 やがて時計回りに一周し、玄関に着く頃。ショルダーバッグを提げた琴音が、浮かぬ顔でドアに鍵を挿していた。


「何処か行くのか」

「少し用事があって。……じゃあ、行ってくるね」

「ああ。道中気をつけるんだぞ」

「……うん」


 琴音は目を合わさず頷くと、足早に道路へ向かっていった。行き先を知らずに見送るのは、これが初めてかもしれない。


「……これで良い。俺が忌避されるだけで事が丸く収まるのなら、安いものだ」


 消えゆく後ろ姿を眺めながら、達観染みた独り言を呟いた。


◇◇◇


 それから俺は、単身河川敷へ向かっていた。“思い立ったが吉日”という異世界のことわざに、背中を押されたからである。


「もうすっかり秋だな」


 枯れた草花、冷たく乾いたアスファルト。ペンに似た虫は空を飛び、時折鳥に追いかけられている。一方人間の顔の高さでは、小さな虫が群れをなしており。しかし壮年の男は、軽く拳を作り突っ切っていった。


◇◇◇


 そんな彼らを尻目に、坂を下り。少し歩き、柳の森に辿り着く。


「ここに来るのも、もう何度目だろうな」


 おどろおどろしい見た目なためか、相変わらず人は寄り付いていない。だのに今日、内部は庭のように整えられている。疑問を抱きながらも前進すると、神社の跡地に木のベッドがぽつんと置かれているのが見えた。


 とはいえしっかり屋根もあり、一見だけでは祠に見違えるかもしれない。これもスティエラなりの気遣いなのだろうか。折角なので好意に甘え、隙間なく敷かれた真っ白な布に足を着ける。


『! これは……この柔らかさは、まるで上質なパンのようではないか!』


 思わず両手を広げ、暫しの間感触を楽しむ。するとリラックス効果があったのか、次第に欠伸が止まらなくなる。


「くあ、あ……」


 程よく毛皮も温まり、間もなくやって来た睡魔。仄かに香る木の匂いといい、どこまで計算づくなのだろうか。


「少し寝るか……」


 どうせならとことん味わい尽くしてやる。改めて周囲を見渡し、害が無いか確認する。そうして身体を丸め、おもむろに目を閉じた。

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