星空の床

夢乃ミラ/碧天 創

星空の床




 ここはどこだ?


 僕が初めに見つけたのは白い天井で、次に電子音が耳に届いた。顔を右に向けると、心拍数や脳波を計る機械があった。

 体が重い。顔を動かすのも億劫だ。


 ここはどこなんだ?


 不意に、扉が開く音がする。僕は顔を動かそうとするが、突然痛みに襲われて動けなくなってしまった。

「落ち着いてください、大丈夫ですから」

 僕の視界に、眼鏡をかけた男の顔が現れる。ジロジロと僕のことを見つめていたので、落ち着かなくなって僕の呼吸が少し荒くなった。心臓の鼓動も少し速まる。

 男は何処かから椅子を持ち出して、それに座った。男はスーツの上に白衣を着ていた。そこでようやく僕は男が医者だということに気がついた。

「今どうしてあなたがこうなっているのかを、説明させていただきます。受け入れられないかもしれないですが、落ち着いて聞いてください」

 男――医者は口に手を当てて咳をする。形容しがたい緊張感が漂う。

「あなたの足は、もう動きません」

 医者は僕の目を見て、絶望的な言葉を告げた。


 救急搬送された時既に足は潰されて血塗れになっていたということらしい。

 僕が覚えているのは、その時彼女とドライブしていたことくらいだ。そこから先を思い出そうとするが、真っ暗な光景しか見えなかった。

 医者は、僕が不運にも交通事故に遭ったことを説明した。幸いにも、助手席に座っていた彼女は怪我をしていなかったらしい。

 ただ、僕の足はもう動くことはない。放っておくと傷口の近くの細胞が壊死してしまうため、やむを得ず両足を切り落としたと医者は言った。

 胸がいやに苦しく思われた。体が動かないというのもあるけれど、やはり両足を失ったというのが一番の理由だった。


 気分は暗澹としていた。受け入れられなかった。受け入れたくない。


 少し前まで地面につけていた足が、目を覚ますと無くなっていたなんて信じたくなかった。この世界での自分の輪郭が薄くなったような気がした。何かに縋りついていたい。

 もう僕は喚き散らしそうだった。体を乱暴に動かそうとしても動かない。それが余計に僕を焦らせ憤らせた。

 感情が頂点に達した瞬間、僕は目を覚ました。いつの間にか、寝てしまっていたらしい。

 息が荒くなっていた。必死に空気を吸うが、満たされなかった。

 白い天井が、僕の思考を停止させてくれない。


 僕は足を失ったのか、嫌だ、そんなの認めない、信じたくない!


 心音図と電子音が、呼吸を荒くする。

 ふと、顔を横に傾けると、そこには彼女がいた。あの日一緒にドライブを楽しんでいた、彼女が僕を見つめながら佇んでいた。


 ……そうだ、僕には彼女がいるじゃないか。僕はこの世界で生きていける。


 脳裏に、笑いかけてくれた彼女の顔が浮かぶ。

 僕は彼女に話しかけようと体を上げようとするが、上がらない。それどころか、口を動かすことすらできなかった。

「起きたの? 起きたのね? よかった、お医者さんを呼んでこなくっちゃ、待っててね」

 彼女が立ち上がって、扉を開けて外へと出ていく。


 駄目だ、行かないでくれ、早く戻ってきてくれ、頼む!


 しばらくして、彼女はあの眼鏡をかけた医者を連れて戻ってきた。

「〇〇さん、彼氏さんはもう大丈夫ですよ」

「そうですか、それはもう」

 彼女はほっと息をついて、大げさに見えるポーズで安堵した。それから椅子に座って、僕の顔を見る。

 医者は僕のすぐそばで、言葉をかけ続ける。僕には何を言っているのか聞こえなかった。

 その顔は初め、うれしそうに見えたが、次第に表情が曇っていった。しまいには、僕を冷ややかな目で見た。

 彼女がふと左腕につけていた腕時計を一瞥すると、

「じゃあ、私もう帰ります」

 医者は、さようなら、と一言声をかける。彼女は椅子のそばに置いてあった、ブランド物のバッグを肩にかける。


 ……あのバッグを、僕は知らない。


 彼女が扉を開けた瞬間、僕は見てしまった。彼女と知らない男が、親しげに、表情をゆるくして、語り合っているのを。

 僕の頭の中が真っ白になる。一瞬呼吸が止まったように思えた。彼女は明るく彼と接していた。僕を見ていた時とは対照的だった。

 扉の前から去ろうというときに、彼女は彼の腕を抱きしめた。そして振り返って僕を一瞥する。

 まるで、ゴミを見るような、冷ややかで、細い目で、僕を見た。

 その瞬間に、腹の底から何かが湧き上がってきた。それと同時に何もかもを破壊したい衝動に駆られる。

 

 ふざけるな、僕を見捨てるな! 人でなしめ! もう知らない、何もかもぶっ壊してやる!

 

 僕は動かなかったはずの体を激しく揺らして、暴れた。医者が取り押さえようとしたが、一人じゃかなわないと思ったのか飛び出して人を呼びに行った。

 しばらくして何人かの看護婦を連れて、医者が帰ってきた。

「落ち着いてください、落ち着いて!」

 医者が僕の体を抑えつけながら叫ぶ。看護師たちが苦悶の表情を浮かべながら、力を込めて体を抑えつける。

 獣のような声をあげながら、僕は体を破壊的に動かそうとする。

 腕に一瞬痛みが走る。僕は構わず暴れていたが、次第に眠気が僕を支配し始めた。しばらくして、僕は体を動かすことを止めて、眠りについた。



 規則性を持った電子音が、次第に耳に響く。

 僕は瞼を開ける。すっかり暗くなって、白い天井が漆黒に染まっていた。僕はため息をついた。さっきよりは落ち着いていたが、暗澹とした気分はそのままだった。

 

 僕は、どう生きていけばいいのだろう?

 

 曖昧な考えが頭の中で浮かんでは消えていた。僕は気分転換に体勢を変えようと横向きになろうとした。

 ところが、両足がないせいなのか、なかなか体を動かすことができなかった。勢いをつけて体勢を変えようとしたけれど、なかなか動かない。

 すると勢いあまって、ベッドから飛び出してしまった。生々しい衝撃音が病室に響き渡る。体が悲鳴を上げていた。

 僕は涙を浮かべて、腕で立ち上がろうとする。ところが細い腕では体を持ち上げることができなかった。

 途端、僕は体の下の方に感覚があることに気が付いた。振り返って見てみると、そこには無くなったはずの両足があった。


 ……足が、ある。


 僕はごく自然に、足を使って立ち上がることができた。何がどうなっているのか、理解できなかった。

 妙に体が軽かった。試しに飛んでみると、天井に頭がぶつかりそうになった。まるで現実じゃなかった。

 扉を開けて廊下に出ると、ほとんど真っ暗だった。それを見た僕は、廊下に飛び出して思いっきり走った。

 体が軽いせいか、心地がいい。息苦しさも、のどの痛みもなかった。

 そこにあったのは、快感だけだった。

 僕はいつの間にか屋上にやってきていた。風が僕の髪を撫でる。月が病院を目に優しい明るさで照らしていた。

 気分が高揚していた僕は、空に向かって跳び上がった。僕の行く手にあった黒い雲を通り抜けると、そこには満天の星空があった。

 誰であろうと受け入れてくれる、魂しか残らない安息の場所。

 気づいた時には、僕の足元に星空があった。僕はその幻想的な風景に興奮して、感嘆の声を漏らす。


 星空の床だ。


 僕は腹の底から笑いがこみあげてきた。抑えきれずに、笑い声が段々と大きくなっていく。


 僕は、ここで生きていこう。この星空のもとで、生きていくんだ。


 顎が外れそうになるまで、僕は笑っていた。冷たい風が僕の体を引っ張っていく。

 やがて頭上に病院が現れた。僕は狂ったように笑い続けた。

 どんどん病院の輪郭が大きくなっていく。


 何かの潰れた音が響いた。僕の意識はその瞬間に眠りについた。

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