第二十七話「月影揚羽」

※※※


 異形と化した月世と交戦する八兵衛の援護に光圀は再び走り出そうとした。が、視界の端に映るものに、また足を止めた。


「光圀、どうした?」


 光圀の髪から、ひょこっと童子が顔を出した。光圀の視線が向く方を見る。

 斧の童女は、格さんに捉えられたのち戦意を喪失してしまったようで動かなかったが、今、よろよろと立ちあがろうとしていた。転がった斧を再び手に取り、それを杖代わりにして、月世の方へ進もうとしている。目に見えた外傷こそ見えないが、ひどく弱っているように見える。童子は放っておけ、と促したが、光圀は童女の方へ歩いて行った。


「ね、ねえ、あなた、大丈夫?」


 光圀は躊躇いがちに声をかける。童女は獣じみた唸り声を短く出すだけで、それ以上の反応はない。まっすぐ、月世の方に歩を進めている。

 何をしに行くのか。

 表情は目隠しでよく見えないが、どうやら月世がダメージを負うごとに、心配そうにみじろぎしているようだった。

 こんな目にあってさえ。仲間だったであろう烏帽子の女を目の前で殺されてさえ。


「う、うう……」


 この童女は、それでも月世を主と認識しているように思えた。そして、主の危機に助けに行こうとしているようだった。

 光圀には最初わからなかった。仲間を酷い目に合わせて、村の人たちをたくさん殺してしまうような人を、どうして主と慕えるのか。だが、例えば。

 例えば、わたしにとって、気がついたときからずっと一緒にいる助さん。彼女は、わたしを思ってのこととはいえ、わたしの出自を隠し、嘘をつき続けていた。今だって、ひょっとしたらまだ何かを隠しているかもしれない。それでも、そんな目にあっても、助さんのことを憎むことなんてできない。大切な人だから。

 ひょっとしたら、この子も。

 思い至った光圀は、童女の両肩に力強く手を置いた。


「あなた、何しに行きたいの? わたしの仲間たちを傷つける?」


 何を言われているかわからないように、固まる。


「あの月世……さん……を、助けたいの?」


 童女はおずおずと頷いた。


「わたしは……あの人を助けたいわけじゃない。許せないって思う。でも、死んで欲しいとも思わない。あのままじゃ、ぜったいによくないことになるよ。だから、あの人を止めに行こう」


 数秒何かを考えたのち、童女は大きく頷くと、月世の方に走っていった。光圀もそれを追いかけ走り出す。だが、少し走った時点で、童女の様子がおかしい。


「光圀、気をつけよ!」


 突然立ちすくみ、苦しそうに唸り出した。見ると、体のあちこちに、月世と同じように光の筋が浮かび上がっている。唸り声は大きくなり、光圀の方に向き直ると、大斧を振り下ろした。光圀は直前で回避し、声をかけるが反応はない。

 これは、ひょっとして。

 光圀は思い至る。月世の人を操る能力。暴走状態の月世に近づいたために、濃く大きい霊力に触れてしまったのか。再び童女は斧を振り回し、襲いかかってきた。


〈迎撃せよ〉


 敵対行動をとる相手に対して、光圀の脊髄が命じる。光圀の意思に反して印籠が甲冑の形に展開し、反射的に拳を振るいそうになる。だが、目の前の童女を傷つけたくない。脊髄からの命令と、光圀の意思がぶつかり合い、腕がぶるぶると震える。


「光圀、何をしておる! お前がやられるぞ!」

「だめだよ。わたしはこの子をやっつけたいわけじゃない。傷つけたくない!」

「そんなことを言っている場合か!」


 いや、それ以上に。


「わたしが誰を殴るかは……わたしが決める!!」


 ばち、とどこかで何かが弾ける音がした。

 戒めが切れたように光圀の拳は、自らに向かってくるものに対して解き放たれた。

 その打撃は、童女の斧を粉々に砕いた。

 インパクトの瞬間、光圀は拳にさらに力を込める。光圀の印籠がもつ、霊力を吸い取る能力。この童女の行動が、月世の霊力によるものなら。


「うおおおおおっ!」


 光圀は吠える。呼応するように、童女の体表が輝き始めた。霊力の光。それは光圀の拳に向かって吸い上げられているように見えた。やがて光は収まり、童女は再び膝から倒れた。気を失っているが、呼吸はやめていない。光圀は童女を仰向けに寝かし直すと、きっと月世を睨んだ。

 許せなかった。自分の仲間たちを傷つけることすら厭わないその行為が。月世はかつて自らの行いを〈世直し〉だと言った。彼女が旅の先にどんな世界を見ているのかはわからないが、意に沿わないものを殺し、自分の味方さえも道具のように扱うことが、世直しに繋がるなど、認めたくない。


「童子さん、わたし、自分のやってることが本当に正しいかなんて、もうわからないよ」

「何を言う。お前は人のために怒ったり悲しんだりできる優しい娘じゃ。正しいに決まっておろう」

「ありがとう。でも、違うよ。優しいから正しいとは限らない。いろんな人たちと会って、よく分かった。正しいことはあやふやだってこと。でも、ぜったいに許しちゃいけないことも、ある」


 月世をきっと睨む。


「人の心を支配すること。わたしは、それが許せないって思う。だから、人を操って自分の道具にするあの人のことを、わたしは……」


 光圀の甲冑が、静かに紫炎を上げた。

 拳を握り、後ろに引く。右ストレートを打ち込む構え。炎は肘のあたりに集まり、大きな尾となる。


「ぜったいに止める!!」


 爆ぜた。弾けた紫炎が、矢のような速さで光圀の体を飛ばす。真っ直ぐ、月世の元へ。

 月世は、醜悪な芋虫のような肉体から何本もの腕を生やし、八兵衛と凍早と交戦していた。


「はちべえ!」


 叫ぶ。八兵衛と目があった。八兵衛は頷くと、攻撃の手を止め、高速で月世の半身の周りを駆け回り、撹乱を始めた。月世も飛来してくる光圀に気づいたが、周りで跳ね回る八兵衛にも警戒のリソースを割かねばならず、集中できない。苛立たしげに身を捩ると、胴体から、一際大きな腕が、ずぼり、と現れた。手を広げ、振りかぶる。八兵衛が飛び回るあたり一帯、いっぺんに周囲を薙ぎ払うつもりだ。だが、振りかぶるその大味な動作が、瞬間、隙を作った。そして光圀はそれを見逃さない。

 肘の装甲が開き、さらに大きな紫炎が吹き出す。突撃の速度が倍化し、矢の速度を超え、風を切り裂く。八兵衛はその瞬間に大きく距離をとった。凍早はすでに状況を察知し、後方に陣取って構えている。迫る光圀に、月世は嘲るように両腕を広げた。


「やってみろよ、出来損ない!」

「印籠……ジェットぱあああんち!!!!!」


 光圀の拳が月世の胸に突き刺さった。殴り抜いた手応えはない。


「今のぼくが、お前なんぞに止められるかよ」


 だが光圀はそれに戸惑うことなく、拳に力を込めた。光圀が叫ぶと、月世の身体が淡く光を放ち、その光が光圀の拳に吸い込まれていく。


「お前……! ぼくの力を……!」

「あなたは、力を振るっちゃいけない人だよ……!」

「それを、お前が決めるな!」

「わかるもん。あなたが振るう力は、周りの人を傷つける」

「お前は違うってのか! 偽善者が!」

「……わかんないよ……でも、ずっと考える。問い続ける」


 はっ、と月世はその答えを鼻で笑う。月世の身体はみるみる縮んでいく。肉色の芋虫のような巨体は黒ずんでいき、萎んでいった。


「なあ、お前は……ぼくのこの姿を、醜いと思うか」


 光圀はその問いの意図が分からず、眉を顰めあたりを見まわした。

 芋虫のような体から無数の腕が出鱈目に生え狂ったような威容。そしてその先端から発生する、不釣り合いな美貌を備えた月世の上半身。


「うん、思う……でも、それ以上に、怖いよ。このたくさんの手……いろんな人を傷つけて、何もかも奪ってしまいそうで」


 その答えを聞き終わるより早く、月世は破顔した。満足そうな満面の笑み。

 なぜこの状況で、彼女が笑えるのか光圀には見当がつかなかった。だが、理由を考えるより先に、背筋を貫く悪寒に反射的に身構える。


「そうか、醜いか。やっぱりね。世直しをしてこの世に君臨するには相応しくないよな」


 月世は声をあげて笑い始めた。

 その異常な様子に混乱する光圀の髪を、肩に乗った童子が引っ張った。


「童子さん、どうしたの……?」

「信じられんことが起きておる」


 月世の上半身が、みるみる色を失っていく。砂か石でできたように全てが灰色になっていき、次第にひび割れ、崩れていく。しかし、それでも月世は笑い声を上げるのを止めない。


「さっきまで強くあった、こやつに宿る鬼の気配が、消えた」

「どういう……こと……?」


 やがて月世の上半身は全てが砂のようなものになり、崩れ去った。そこには、芋虫のような萎れた胴体だけが残された。

 童子にだけは感じ取れていた。月世の身体に埋められた脊髄に宿った鬼の気配を。脊髄から無理やりに再生を始めた鬼の肉体は、月世の体細胞を喰らい、異常増殖を繰り返していた。だが今、鬼の気配はない。鬼の肉体が死んだわけではない。むしろ、月世の気配が、鬼の気配を塗りつぶしていったような。


「あり得ん……あの娘の意思が、鬼の細胞を喰らい返したとでもいうのか」


 童子がつぶやいたとき、光圀たちは足元が揺れるのを感じた。光圀たちがいる芋虫の背が蠢いている。バランスを取ろうと足元に視線を向けた時、芋虫の体表に大きな亀裂が入った。背をまっすぐに切り裂くような、長い亀裂。振動は止まらない。亀裂が大きくなっていく。いや、一人でに大きくなっているのではなく、


「中から……何か出てくる……!!」

「逃げろ!!!」


 ぞろ、と亀裂から、黒い何かが這い出た。

 光圀たちは一斉に飛び上がり、背から降りた。状況を把握するよりも先に距離を取る。無我夢中で走る。振り向いて状況を確認する余裕は、誰にもなかった。背後から、本能を震わせる、根源的な恐怖を感じる。

 次の瞬間、爆風が全員の背中を襲った。あまりの衝撃に、誰もが煽られ吹き飛ぶ。なんとか受け身をとって衝撃から身を守る。風が収まるのも待たずに上体を起こした時、それが見えた。

 見えてしまった。


「何、あれ……」


 蛹から羽化するように、それは生まれ出ていた。

 翅も身体も、何もかもが黒い、ただただ黒い、巨大な影の蝶。

 上空に静止するそれから、月世の声が発せられる。


「お前たちが馬鹿面下げて説教くれてた間にさ、造り続けてたんだよ。ぼくにふさわしい身体を。あんなクソ醜い虫みたいなのじゃなくて、世直しをする……救世主にふさわしい、美しい身体。そうだな、〈月影揚羽〉とでも呼んでくれよ」


 影が集まって形成されたような、雨雲ほどに大きな蝶の翅は、悍ましいまでに長い、少女の黒髪だった。月世の髪が空に広がり、黒蝶の羽を象っている。

 その姿は、人でもなく、鬼でもなく。自らを取り込まんとしていた鬼の細胞を己の肉とし、望む姿に造り替える。それを可能にしていたのは、あまりに強い、この世全てに対しての憎悪と絶望だった。


「ああ、気分がいいよ。このまま、全員殺しちゃいそうになる」


 蝶の羽の一部が変形し、漆黒の刃となってあたりを薙ぎ払う。それは光圀たちとは全く違う方向に向けられたものだったが、一瞬にして木々や建造物が真ん中から切断された。八兵衛たちは息を呑み身構える。

 光圀が、一歩前に進んだ。


「童子さん、危ないから、はちべえと一緒にいてね」


 印籠の変形を解くと、肩に止まった童子を両手で地面に置く。童子は戸惑い、光圀を見上げた。


「なんじゃ、何をするつもりじゃ!」

「光圀、何してんだ、下がれ!」


 八兵衛の制止の声に首を振ると、光圀は髪飾りに手を伸ばした。


「やめろ! 何考えてんだ!!」


 八兵衛が慌てて飛びかかり、手を押さえる。だが、その上から光圀の手が優しく重ねられた。


「ありがとう。はちべえ、大丈夫だよ」

「わかんないだろ、そんなの……!」

「ううん。でも、あの人が……月世さんが証明したんだよ。鬼の力は、自分のものにできるって」

「でも、あれは……!」

「牛火村の時は、わたし、何もわからなくて、自分のことも、みんなのことも何も信じられなくて、弱かった。でも、今は違う」


 光圀の側頭部から、少しずつ髪飾りが引き抜かれていく。


「助さんのことも、格さんのことも心から信じてるし、童子さんだってついてる。それに……はちべえも、わたしの味方だってわかってる」

「光圀……」

「何よりも、そんなふうに皆んなが思ってくれてるわたし自身のことを、わたしは信じられる。だから」


 髪飾りが完全に外された。銀色に輝くそれを、光圀は八兵衛に手渡した。


「わたしは絶対に戻ってくるから、それまで、これ、もっててね」


 笑顔だった。自信に満ちた、希望を湛えた笑顔。八兵衛は思わず頷いた。

 渡された髪飾りを握った瞬間、紫の雷が光圀から放たれた。電光はまっすぐ空へ伸びる。


「う、ううう……!」


 光圀は呻いた。身体が作り替えられていく。脊髄に閉じ込められた鬼の霊力が解き放たれ、光圀の身体中を暴れ回るのを感じる。全身の骨が軋み、筋肉が震える。骨格がめきめきと変形し、頭蓋骨から角の様なものが皮膚を突き破ろうとしているのを感じる。その痛みに震える心の隙間に、何かが入り込もうとしている。

 ああ、これだ。これに身を委ねちゃだめなんだ。

 精神を食らおうとしてくる何かに、光圀は抗った。

 だめだよ。わたしの心は、もう誰にも渡さない。

 そう心の中で叫んだ時、光圀の心が、何かに触れた。


 雷光が一際強く奔った。


「光圀!!!」

 

 白い光があたりを包む。八兵衛はあまりの眩しさに身を屈めた。

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