第二十五話「〈最速〉の俺が行ってやる。〈最終〉のその先へ」

※※※


 〈印籠マッハぱんち〉を顔面にくらった無龍は、しかし5分程度で意識を取り戻した。人の身の限界を極めた屈強さのためでもあるが、


「……頭領が……死んだか」


 異常聴覚をはじめとした視覚以外の感覚が、ガゴゼ爺が討たれたことを無龍に告げていた。その呟きに八兵衛は瞠目したが、無龍と凍早は動じていないようだった。


「……驚かないのか」

「忍びが死ぬことなど、珍しいことではない。それが忍軍の長であったとて、同じこと」


 凍早がぴしゃりと言い放つ。無龍の身体を支え、両手は塞がっているが、その視線は八兵衛たちを刺すように睨んでいる。


「でも、頭領が亡くなったなら、忍軍そのものだって……」


 凍早の腕を払い、無龍が一歩、八兵衛に近づいた。

 大ダメージを受けたとはいえ、その威容と迫力に微塵の衰えもない。しかし、殺気、闘気のようなものは不思議と凪いでいるようにも見えた。


「無龍様、まだ歩かれては……!」

「構わん」


 無龍の失われた眼窩から、八兵衛は視線を感じた。穏やかだが、重い圧力。


「……俺は、腕力しか取り柄のない愚か者だ。だがこれでも、この世の行く末を考えて闘ってきた。俺たちの戦いの果てに、平穏なる世界があると信じてな」

「……?」

「俺も含め、忍びはただの武力装置でしかない。この世に戦がある限り消え失せることはないし、逆に、忍びがいるから、それを使えば何かが為せると起こる争いもある。……未来は、平穏なものであるべきだ。だから、俺たちは、滅んでいかなければならない。平和な世に、あるべきではないものとして」


 凍早はそれを俯いたまま聞いていた。自らの存在意義を、自らが信奉する者に否定されている。だがしかし、彼女の無龍への憧れは、哲学すらも同化さえも望む域に達していた。だから、彼女は忍びが滅ぶべきであるという結論を受け入れているのだった。

 いや、少なくとも、彼女の理性がそうあるべきであると彼女自身を律していた。だが、胸の奥のどこかが、ちくりと痛む。凍早は拳を握り、その痛みから目を逸らした。



「……だからこそ。〈最強〉の号を得た者の責任として、俺は忍びの最後を見届ける義務がある」


 無龍は八兵衛に人差し指を向けた。


「だから、忍びそれ自体の幕引きを見る前に、俺はお前をここで消さねばならない。滅んでいくべき忍びであり、人外の身に成り果てたもの。お前はこの世にあってはならない存在なのだ」

「そんなことは分かってる。でも、今は死ねない理由がある!」


 八兵衛を守るように、光圀が前に出た。


「違うよ……! 世界にいちゃいけないなんて、自分のことも、他の人のことも、そんなふうに決めちゃうなんて、絶対に違うよ!」


 光圀の悲痛な叫びに、無龍は面食らった様子だったが、やがて静かに笑い出した。


「冗談……を言っている心拍や声色ではないな。だが、本気だとしたら随分と皮肉なことを言う。幕府の意思を受け、あるべきものとそうでないものを選別するために作られた〈光圀〉が、そんなことを言うとは」

「分かってるよ……でも、わたしが〈光圀〉だから。人間じゃない、ばけもの……だから、思うんだよ。いろんな人に会って、いろんな人から助けられて、いろんな人から嫌われて、だから、分かるの」


 光圀の声は震えている。


「どんなに憎まれてる人でも、どんな罪を犯した人でも……化け物でも! みんな、すごく生きたいんだよ! 生きていてほしいって思う人がいるんだよ! だから、誰かの存在を、あるべきとか、あるべきじゃないとか、決めちゃいけないんだよ!」


 人を助けたいと思ったこと、人に憎まれたこと。消えたいと思ったこと、命を投げ出したくなったこと。でも、それでも支えてくれた人がいたこと。この旅で見てきた全てのことが、光圀の意思となり、言葉となった。


「だから、あなたも……自分のことをあるべきじゃないなんて、言っちゃだめだよ」


 光圀の目に涙が滲む。拳に入った力に呼応して、印籠が再び鎧の腕へと姿を変えた。それを感じ、無龍は拳を構える。


「理想論の戯言だな。俺の考えは変わらん。忍びは太平の世には必要ない。光圀、お前も計画に殉じる気がないと言うのであれば、ここで消えてもらう。お前たちを排除した後で、俺は最後の忍びとして、どこかで朽ち果てるとしよう」


 八兵衛も姿勢を下げ、全速力を出せるように構える。だが、視界にある違和感を覚えた。凍早が戦闘体制を取っていないのだ。 


「……凍早、お前はどうなんだよ」


 声に反応し、慌てたように構える。


「愚問だ。私は常に無龍様と共にある」

「嘘だ」

「何を根拠に……」

「お前がそんな悲しそうな顔をしているところなんて、見たことがないからだ」

「何を言う……!」

「お前……本当は嫌なんじゃないのか」

「何が……」

「無龍に、死んで欲しいなんて思ってるわけじゃないだろう!」

「……!!」


 瞬間、凍早は激昂した。怒りを露わに八兵衛に突撃する。無龍が制止することすらできないほどの勢い。

 だが、鬼の血の力が尽きたとはいえ、先ほどまでの戦いで〈最速〉の扱い方に習熟した八兵衛の速さには遠く及ばない。凍早の攻撃も平時のような冴えが無かった。怒りに任せた雑な攻撃は、八兵衛にかすりもしない。その状況が、凍早の精神をみるみる焦がしていく。


「お前に! 何がわかる! はぐれものの〈七〉とつるんで気ままにやっていたお前に!」

「ナナ姉に何の関係がある!」

「大有りだ! 奴は腕は立つが、忍びとして最も重要な素質が欠けていた! それは〈不自由さ〉だ!! 忍びは、命のままにただ任務を遂行するもの。自由意思などあるだけ邪魔になる。自由を捨てた、不自由さこそ忍びの本質!」

「だから……何だってんだよ!」

「 私は、忍軍に拾われてから、自分の意思を表に出したことなどただの一度もない! 今まで! 1秒たりとも! そして……これからも!!!」


 凍早の短刀の刺突を、八兵衛が逆手に持った小刀で受け止める。

 ぎいん、と金属音が空気を震わせた。

 刃の向こうの、アイスブルーの瞳が、かつてない熱を帯びている。

 ああ、と八兵衛は理解した。

 そうか。お前は、ずっと。


「私は待宵草忍軍の〈一〉位、凍早! 号は〈最終〉! 如何なるものも、我が前に終わりを迎える!!」


 凍早があくまで忍びであり続けると言うなら。

 忍びであり続ける限り、自分の思いを口に出せないと言うなら。


「なら、〈最速〉の俺が行ってやる。〈最終〉のその先へ!」


 刃を弾き、距離を取る。咆哮を上げ突撃してくる凍早に対し、八兵衛はその速度を持って、躱すのではなく正面からぶつかりに行った。回避し、撹乱し、死角を取ることは今の八兵衛には容易い。だが、〈最終〉たる凍早を終わらせる。そのためには、真っ向勝負で圧倒するしかない。

 しかし。


「……!!」


 すでに一度敗れ満身創痍ではあったが、異能に目覚めた八兵衛の速度を幾度も目の当たりにした凍早は、目と身体が慣れ、八兵衛の攻撃パターンを予測するには十分な材料を手にしていた。凍早は攻撃、防御、速度、術の扱い等その全てに非常に長けていたが、その全てが誰よりも優っていたわけではない。自分よりも攻撃の鋭いものも、守りの固いものも、そして速く動くものも、何度も目の当たりにしてきた。それでも若くして〈一位〉に上り詰め、〈最終〉の号に相応しい実力を身につけたのは、その観察眼と自らの思考や挙動を即座に修正してみせる対応力。言い換えるならば、上り詰めてもなお止まることのない、瞠目すべき〈成長力〉によるものなのであった。

 だから今、凍早は、〈最速〉を捉えうる。

 踏み込みは同時。突撃速度は八兵衛が圧倒。本来であれば、八兵衛が凍早にダメージを負わせるか、武器を破壊して勝負が一瞬でついている対決である。だが、凍早のアイスブルーの瞳は八兵衛の構えの隙を捕捉し、その間隙に水晶の刃を突き刺していた。

 対する八兵衛は、〈最速〉の異能により何者にも捉えられない速さを手にしたものの、立ち回りの判断力にはまだ欠ける。


 凍早の透明な刃が、八兵衛の鎖骨あたりに突き刺さる。


 腕に力を込め、そのまま胸を貫かんとする。

 互いに同じ時間の研鑽を積んできた。しかし、同じ時間をどれだけ自らの糧とできるか。仮に同じ量の努力をしたとて、厳然たる差を生むもの。それを、才能という。


「私の前から消えろ! お前は所詮、何も成せない!!」


 だが、時として。


「う……おおおおおおおおッ!!」


 意思が。

 自らを顧みないほどの激情が、生きようとする思いが。

 何もかもを凌駕する。


 胸に刃を突き立てられたまま、八兵衛は速度を上げる。肉が裂け、骨が削れるのもお構いなしに八兵衛は手を伸ばし、凍早の喉をつかむ。

 呼吸が乱れ、凍早の身体が一瞬、こわばる。だが、〈最速〉の知覚において、その一瞬は、状況を決するには十分な長さだった。

 咆哮を上げる。刺された所から血が飛び散る。雄叫びを上げながら、八兵衛は凍早の喉笛を掴んだまま全速力で走る。

 とにかく真っ直ぐ。速度を落とさないように。

 どこかの木や岩壁にたどり着けば、勝利となる。

 八兵衛は闘争本能の赴くままに凍早を睨みつけた。その表情は、


「……終わらせてくれ。もう、疲れた」


 悲痛なほどに穏やかだった。

 手が緩んだ。減速する。

 凍早の身体は放り出され、地面に転がると息を喘がせた。荒い呼吸の声は、やがて嗚咽へと変わっていく。そして嗚咽は慟哭となった。

 堰を切ったように、言葉が溢れる。


「あのお方と同じ景色を見られると思ったんだ。でも、どれだけ道を究めても、高みに昇っても、何もなかった。無龍様は、無を望んでいたんだ。どこまででも共に行くつもりだった。でも、無龍様の道の果てには、無龍様がいない。なら、私は今まで、何のために」


 凍早は武器を逆手に持ち、自分の喉に突き立てた。八兵衛は全速で駆け、凍早の腕をつかんだ。


「やめろ……! 何考えてるんだ、お前は!」

「止めるな! ……わかっていた! 無龍様のお考えは、ずっと前から! それでも、肩を並べられるのが誇らしくて、お側にいられることが嬉しくて、闘い続けてきた。でも、もう、無理なんだ! お前に遅れをとったからではない。もうずっと、本当は、ずっと前から、私は……!」


 刃を手からはたき落とすと、凍早は再び膝をついた。

 凍早の両の目から涙が流れた。


「これ以上、戦いたくない……戦えば、忍びのいない世界に近づいてしまう。無龍様のいない世界に。そんなの……嫌だよお……」


 泣きじゃくる。年相応の少女のように。

 肩に手をかけようとして、止める。

 声をあげて泣く凍早に、八兵衛は声をかけられなかった。

 こいつが泣いている時にそばにいるべきなのは、俺じゃない。

 そんなことを思った、その時。


 感覚の端に、ざらりとした悪意を感じた。それには覚えがあった。

 記憶を手繰る。その一瞬を切り裂き、何かが飛んできた。

 音速に迫る、凶器が飛ぶ音。それを知覚した瞬間に八兵衛は駆けた。凍早を突き飛ばし、射線から遠ざけようとする。だが、いかな八兵衛の速度を持ってしても、気づくのが遅すぎた。八兵衛の鬼の眼は捉えていた。猛スピードで回転しながら飛ぶ鎌のような刃物が、凍早の頸に垂直に突き立つのを。

 間に合わない。


「凍早!!!」


 鮮血が八兵衛の顔に飛ぶ。思考を絶望が塗りつぶしていく、

 寸前に。

 八兵衛は状況を理解した。

 どこからか飛んできた大鎌は、突き刺さっていた。


「無……龍……様……!」


 凍早の前に盾となって立ち塞がった、無龍の背に。

 凍早の首に触れていれば、おそらく頭部を切断していたであろう斬撃は、あまりに屈強な無龍の背を貫通することはできなかった。内部深部まで鍛え上げられた背の筋肉には刃が突き立てられている。深く、しかし、致命傷たりえない程度に。


「凍早。無事か」

「どうして……わ、私は……!」

「無事なら良い」


 ぽん、と軽く頭に触れられる。

 無龍は背に刺さった鎌を抜き、放り投げると、飛んでいた方向に向かって感覚を集中させた。微かな風のそよぎが、それに混じる知らない匂いが、この鎌の主人の存在を示していた。


「……これは……」


 打ち捨てられた鎌を見て、八兵衛は思い出していた。

 この武器には覚えがある。忘れもしない。


「はちべえ! 大丈夫!?」


 息を切らし、光圀が走ってきた。八兵衛の姿を認めると、表情を綻ばせ駆け寄ろうとする。が、その表情に緊張が走る。何かの気配を察知し、弾かれたように構える。反射的に向いたその方向には、歪み切った木々の影だけがあった。

 だが。

 その、広い広い、影の海のような風景に、ぽつりと白く浮かぶものがあった。

 白磁のような肌に、悍ましいほどに端正な造形と、真空のように虚無な瞳。

 虚無。真っ黒な、新月のような。

 影の海から、声がした。


「奇遇だね、名無しちゃん。こんなところで会うなんて」


 嗤っていた。この世の全てを嘲るかのような、乾き切った声。

 

「なんで……ここにいるの……」

「ちょうどよかった。ちょっと個人的な事情で物入りでね」


 暗闇に浮かぶ白い顔が、夜空の月のように見える。

 〈月世光圀〉。牛火村を滅ぼした、黒い光圀。

 黒衣と黒い覆面で身を包んだ、身震いするほどの美貌の死神。

 だが、透き通る美しい肌は、そこかしこが赤黒く爛れていた。気のせいか、その糜爛はうぞうぞと微生物のように蠢いている。

 月世はゆらりと手を掲げ、光圀を指差した。


「名無しちゃん。今すぐお前の脊髄を寄越せ。それは、ぼくが貰い受ける」


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