第二十四話「幻肢抜刀・毘沙門嵐」


※※※




 助さんはガゴゼ爺と睨み合いを続けていた。拳の応酬を繰り広げる無龍と光圀、無数の屍兵を相手に大立ち回りをする格さんとは打って変わり、二人の間には沈黙と緊張が横たわっていた。

 ふと、ガゴゼ爺が口を開いた。


「よもや、ここで見える事になろうとはのう。長生きはしてみるものじゃ」

「……」


 そこそこの距離はあるが、助さんにとって一瞬で踏み込めない間合いではない。そして、相手は恐るべき忍軍の頭領とはいえ、小柄な老人。しかし助さんは先手を取らない。

 得体のしれなさを警戒している。いや、と言うよりも、それは相手が何者なのかをよく知っているからこその当然の対応にも見えた。


「はははは、睨むな。しかし、昔は朗らかな御婦人であったというのに、今はまるで氷のようじゃの。儂とは口も利きたくないか、佐々木の奥方どの」


 その言葉が発せられた瞬間、刀を握る手に力が入る。

 助さん本人ですら気づかないほどの小さな挙動だったが、ガゴゼ爺はそれを認め、にやりと口角を上げた。


「まあ、それも当然よの。儂の顔を見れば思い出すのじゃろう、〈天帝計画〉に従事していた時のことを」

「……」

「お主の担当していた……何と言ったかのう……あの道場」

「……」

「ああ、そうじゃ、〈十竹館〉じゃ。佐々木殿が開かれていた、剣術道場」

「……黙りなさい……」


 助さんの手が震える。


「あそこで起きた悲劇は、とても忘れられないものよのう」

「黙れ!!!!」


 瞬間、踏み込む。身体を限界まで捻り、理論上最高の剣速で放つ抜刀術。

 並の相手であれば、いや、仮に凍早くらいの実力者であったとしても、初見で完全回避することはおよそ不可能。

 しかし。


「容易いのう」


 踏み込んだ助さんの足がもつれる。

 確かな地面を踏みしめたと思った途端、足元が泥に変じたかのような感覚。転倒しそうになるところ、違和感に瞬時に気づき、なんとか踏みとどまった。足元を一瞬確かめ、ガゴゼ爺を睨む。

 だが。


「……!」


 眼前に広がる光景に息を呑む。

 目に映るのは、荒涼とした忍び里ではなかった。いつの間にか真上にある黄色い太陽と、そこらじゅうに響き渡る蝉の声。そして真正面には、


「〈十竹館〉……」


 道場の門が開かれていた。

 忘れられるはずもない、忘れたくない。しかし同時に、思い出したくもない場所。

 懐かしく忌まわしいそこから、目を逸らそうとする。

 しかし、身体が言うことを聞かない。夢遊病の自分を背後から見守るように、意思と反して身体は道場へと走っていく。


 この夏の日は、覚えている。

 けたたましい蝉の声に、刺すような太陽。そんなにありふれた夏の日に。


 真夏の日差しから急に日陰に入ったから、目が慣れず、実際以上に道場の中は暗く感じる。だが、慣れた息を切らしながら早足で助さんは道場の奥へ歩を進める。広間を抜け、床間に上がる。掛け軸をずらすと、壁の板目が一部だけ辺りと異なる場所があらわとなった。助さんは手早く、その板目に触れる。


「やめろ……」


 その言葉は発音されることなく、助さんの手は止まらない。

 組み木細工のような複雑な模様の板目を、特定の手順でずらしていく。かちり、と音が鳴ると、壁が少しだけ奥へ引っ込み、引き戸に変じた。その奥には、地下へと伸びる階段が見えている。


「やめろ……やめて……こんなものを……」


 階段が見えるなり、階段を駆け降りる。

 だめだ。間に合わない。

 降りていくごとに、下方から発せられる紫色の淡い光が強くなっているのを感じる。階段を降り切ると、そこには再び扉が現れた。扉と壁の隙間から、その光は漏れているようだった。いや、漏れているのは光だけではない。

 声。無数の。

 子供達の。

 助さんは、扉に手をかける。


「やめろ……! 開けるな……!!!」


 ぎい、と、扉が鳴いた。


「開けるな!!!!!!」


 今まで出したことのないほどの絶叫。

 声が景色を吹き飛ばすかのように、風景は元の荒涼としたものに戻っていった。

 静寂。助さんの荒い息遣いだけが聞こえる。

 やがてそこに、ガゴゼ爺のくぐもった笑い声が混じっていく。


「かかかか、大した効き目じゃ。一体どんな景色を見ていたのかのう」


 助さんは無言のまま睨みつける。

 手の内はわかっていた。過去、〈天帝計画〉に携わっていた頃、ガゴゼ爺とは何度も顔を合わせていたし、旧幕府と蜜月関係にあった忍び里の頭領でもあるから、自然と噂にはなっていたのだ。

 待宵草忍軍頭領・ガゴゼ爺は忍びの歴史上もっとも幻術に長けた使い手であったということは。

 老体であることに加え、そもそも現役時代も彼は八兵衛と大差ないほどの体躯しか持ち合わせなかったという。しかし、若い時分から年不相応に発揮された老獪さ、目標達成のためには一切の手段を選ばない冷徹さと、その性格と悍ましいほどに噛み合ってしまった幻術の才能から、彼は同時代に居合わせたすべての忍びから疎まれ、忌まれ、そして何よりも恐怖されていた。

 が故に。得た号は、


「これが、〈最恐〉……」

「ははは、褒めるなよ、御婦人」


 種明かしをすると、ガゴゼ爺の扱う幻術は、大規模な幻覚を見せるものではあるが、光圀の印籠や八兵衛の〈神速〉のような、人の域を超えたものではない。古今東西様々な動植物や鉱石から抽出・独自に調合した薬品を使い、人間の脳や神経に任意の変化を呼び起こすものである。無論それだけではなく、話術や体術を扱い、いかに薬品を摂取させるかという技術を、人間の限界まで突き詰めたからこその〈最恐〉である。何気ない会話をしていただけのつもりでも、触れられた覚えがなくとも、目があっただけでも、いかに間合いを取ろうとも、いつの間にか術中に嵌っている。それがガゴゼ爺の幻術なのである。


「究極的な話をするとな、儂はお主に直接攻撃をする必要はないんじゃ。今お主が掛かっているのは、心の中に澱のように溜まっている〈罪悪感〉を呼び起こし、心を喰らうもの。お主のようなものに掛れば、心を壊して、勝手に死ぬ。……さて」


 ガゴゼ爺は指を二本、ゆっくりと立てた。


「第二幕じゃ。悪夢の続きを見るが良い」


 助さんは真正面から強い風が吹くのを感じた。たまらず目を瞑る。

 しまった、と思ったが、遅い。

 目を開くと、助さんは先ほどの幻で辿り着いた扉の前に立っていた。

 紫光と、子供達の悲鳴が漏れ聞こえる扉。

 幻覚の中の助さんは、それを開け放った。

 そこにあったものは。


「うわああああああああああッッ!!!」


 助さんの絶叫が空気を震わせた。

 心を折った、とガゴゼ爺は満足げに口を歪めたが、すぐにそれは怪訝そうなものになった。様子がおかしい。

 沈黙。静寂。

 助さんの失われた左眼の辺りから、青い光が走っている。


「……?」


 光は風を呼び、顔の左半分を覆う長い髪を舞い上げた。その時に見えた。

 眼球を失った、閉じられた眼窩から、夥しい量の出血。

 そして、そこから迸る青い稲妻。


「……何をした、それは」

「……私にも、分かりません。あの時私が、私自身に何をしたのか、よく覚えていないのです」


 ガゴゼ爺の笑みが引き攣る。


「一つだけ覚えています。とにかくあの時は死にたくて死にたくて死にたくて死にたくて仕方がなかった。目の前にあった砕けた〈要石〉を崩れた顔面に突き刺して、この呪われた脳髄を壊したかったのかもしれません」


 助さんの眼窩には、青く光る〈要石〉が埋まっていた。

 自死するために脳髄に突き立てられた感情を吸い込む霊石は、助さんの罪悪感と希死の感情を僅かばかりに吸い込み、皮肉にも助さんの命を繋いでいたのだ。

 従って、ガゴゼ爺の幻術により呼び覚まされた悪しき感情も霊石は吸い取り、結果として、幻術から精神を守ったのであった。


「私自身を罰しても罰しても罰しても罰しても、いくら罰しても、それでも私の命は消えてくれない」

「死を望むか。ならば儂の術に、身を委ねよ」

「死にたいのではありません。私が納得いくまで、罰して欲しいのです。でも、生きている限り、私は私の生に納得などできない。こんな罰では足りない」

「……狂っておるな、儂が言うのも何じゃが」

「よく言われます。あの日から私は変わってしまった。感情の起伏も乏しくなりましたし、何とも思わなくなりました」

「……何を……」


 問うたとたん、助さんの姿が消えた。

 しかしガゴゼ爺も一流の忍び。それが高速移動によるものだと瞬時に看破した。気配を察知し、後ろに向き直る。

 ことはできなかった。


「あなたのような老人を惨殺することに対して」


 背後からの声に、ガゴゼ爺は振り返った。ただし、上半身だけ。振り返った上半身は次々と輪切になっていく。腹、胸、肩、首、下顎、鼻、目から上。達磨落としを放り投げたように分解していく。

 ガゴゼ爺ほどの忍びが、自らが切断されたことにすら気づけないほどの、不可視の踏み込みによる高速の抜刀術。


「〈幻肢抜刀・毘沙門嵐〉」


 鞘から抜き放った直後、一瞬のうち、実に十八回の斬撃を繰り出す秘技である。

 この技は、片手で抜刀した直後、両の腕の膂力を使い慣性を制御、抜刀の勢いを殺すことなく巧みに斬撃の方向を変えることにより成立する。

 だから、隻腕の助さんには理論上不可能。

 その矛盾の答えを、ガゴゼ爺は、絶命の寸前、かろうじて残った目から上の部分で看破した。

 助さんの左袖、中身のないはずのそこに、黒鉄色の機械の腕が見えた。骨組みに無数のばねや何かの機械が取り付けられた醜悪な義手。それが、ガゴゼ爺を切り刻んだのち、分解、変形し、助さんの着物の帯、背中側へと収納されていく。折り畳まれた腕は、髑髏を模した形状をしていた。

 背中で嗤う鉄の髑髏。さながらそれは。


「かかかか……どうやら……お主にとっては……生きることこそが……罰なのかもしれんな……背中の死神が……それを望んでいるようじゃ……」


 すでにばらばらになったガゴゼ爺の口元が嘲笑う。

 発話されることはなかったが、不思議とその悪意は助さんに伝わっていた。

 悪意を一蹴するように、ちん、と鍔鳴りの音がした。

 それと同時に、ガゴゼ爺の意識は消え失せた。


「ならば、私は生きます。私があの子に罰せられるまで」

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