第十九話「大事に使え、わしのとっておきじゃ」

※※※


 眼を斬られ、胸と頭部の裂傷多数。血が足りない。

 八兵衛は自らの体温が急速に下がっていくのを感じながら、意識は失っていなかった。しかし、動けない。

 気力は萎えていない。こんなところで死にたくない。それ以上に、光圀が、自分に絶望したままでいさせたくない。

 全身に力を込めるが、その駆動はあまりにも弱々しく、指一本すら満足に動かない。手の下にあった短い枝を僅かに揺らすことしかできない。だが、その挙動が立てた僅かな音は、傍の倶炎童子の耳に届いた。


「……ちっこいの、まだ生きてるか」


 八兵衛は声を上げようとしたが、気道に溜まった大量の血液がごぼり、と嫌な音を立てるだけだった。


「……お主は強いなあ。儂なんぞよりも、よほど強い」


 童子は腕で身体を起こし、仰向けの姿勢になる。見ると、凍早が光圀に短刀を突きつけ、距離を詰めているところだった。


「ちっこいの。光圀が危ない。お主、まだ気持ちは死んでおらんな」


 返事はない。しかし、弱々しくも呼吸を続けている音を聞くと、童子は頷いた。


「さて」


  八兵衛の耳に、童子の短い声が聞こえた。童子がこちら側に這い寄ってくる音がする。

 横にぴったりと身体をつけられた感触を感じた次の瞬間、苦悶の声。と同時に、肉を切り、何かをちぎり取るような、ぶちぶちという嫌な音が響く。童子の苦しみの声は大きくなる。

 何をしているかはわからないが、やめろ、と反射的に叫びそうになる。急に顔面を押さえつけられ、頭を地面に押し付けられた。


「じっと……しておれ」


 掠れた童子の声。何をするつもりだ、と疑問が強くなるが、それはすぐに激痛に塗りつぶされた。眼球を失った双眸に、童子の指が侵入した。鋭い爪を備えた指が無遠慮に頭の中を暴れ回る。脳に近い箇所を掻き回され、絶叫する。しかし、今度は叫びつづける口が大きな手で覆われる。その表面は鉄の味のする液体に塗れていた。血だ。夥しい量の。手は形を変え、指を喉の奥にねじ込んでくる。反射的に嘔吐感が込み上げ指を追い出そうとするが、なおも奥へ侵入を止めない。

 やがて指は引き抜かれる。口腔中に、生臭い血の香りが広がる。えづきが収まり、呼吸が落ち着いていくとともに、信じられないことが起きていった。

 痛みが消え、傷が塞がっていく。体温が上昇していくのを感じた。

 そればかりか、目玉を両断されて奪われたはずの視界が、ぼんやりと像を取り戻していく。


「なんだ、これ……」


 言葉が喉から溢れる。やがて視界はクリアになり、目の前の光景を再び八兵衛に見せた。最初に映ったのは、


「童子!!!」


 傍に転がる童子の身体だった。

 口元にはいつもの尊大な笑みを浮かべていたが、その上にある眼窩には何も無かった。目の周りが爪でズタズタに引き裂かれている。ある可能性に思い至り、八兵衛は自分の両目を手で覆った。

 この目は。童子の。


「大事に使え、わしのとっておきじゃ」

「……童子、お前、なんで」

「……氷砂なんじゃろ、光圀の中にいるのは。どういう経緯かは知らんが」

「……」

「鬼は基本的には死なん。どれだけ体を細切れにされても、再生に時間がかかるだけで、いつかは蘇る。じゃが、人間というのは賢くてのう。鬼を殺したり、封じたりする手段をいつの間にか作っておった。それが、呪術とか何やらと呼ばれるものじゃ。よくわからんが、鬼が蘇れないような細工を施して、力だけを取り出す術も編み出したんじゃろう。そう考えれば合点がゆく。氷砂は、光圀の体の中におって、もう氷砂と会うことは、わしはできんのじゃ」

「……気づいてたのかよ。じゃあなんで、俺たちのことを助けてくれるんだ。おかしいじゃないか。氷砂って人は、お前の……」


 瞬間、八兵衛の体内で何かが跳ねた。

 跳ねる、どころではない。暴れ回る。目が、気道が、肺が、心臓が横隔膜が、めちゃくちゃに脈動する。

 あまりに異様な感覚に、八兵衛は叫んだ。身体中の血管が燃えるようだ。逃げ場のない苦痛に身悶えすることすらできない。嘔吐感すらないまま胃液が逆流して口の中に溢れる。胃液すら煮えたように熱い。喘ぐように息をしながら、童子に近づく。


「じきに馴染む。耐えよ、八兵衛」

「なんでだよ……なんで、お前は」

「あとは、頼んだぞ」


 次の瞬間、童子の首が刎ねられた。

 血飛沫が透明の刃に跳ねる。

 凍早が八兵衛の絶叫を聞き、戻ってきたのだ。

 首はごろごろとあらぬ方向に飛んでいき、草むらの陰に落ちて見えなくなった。

 八兵衛は明滅する意識の中、再び叫んだ。


「忘れていた。虫けらほど、しぶとい」


 凍早の嘲る声は、八兵衛には届いていなかった。


「次はお前の首を刎ねる」


 八兵衛の速度ですら反応できないほどの、超速の斬撃が頸を正確に狙い澄まして奔る。凍早は瞬間、刃が首の肉に突き立つのを感じた。

 だが。

 触れた途端、それは稲妻となった。紅い電光があたりをめちゃくちゃに走り回る。

 やがて電光は再び八兵衛の姿となり、凍早の前で静止した。


「なんだ……お前は」


 凍早の知る〈八〉とは、何もかもが違った。

 逆立つ髪、ひび割れた顔面。そして全身の内から透けて見える、紅い光。

 全てが、人ではあり得ない異様。

 たとえ忍軍の忍びがどれだけ外法の人体改造を受けたとて、辿り着くことのできない、いや、辿り着いてはいけない領域。

 そこに〈八〉が辿り着いてしまっていることを、凍早は瞬時に悟った。


「過ぎた力を求め、外道に落ちたか」


 見据える先の八兵衛の顔からは、表情が読み取れなかった。

 丸く見開かれた瞳孔には緑の燐光が灯っている。そこに、意思を感じさせるものは何もない。


「外道らしく、ここで朽ち果てろ……!」


 叫び、斬りかかる。先手を取りながらも、凍早はわずかほども警戒を緩めてはいない。先ほどの高速移動、そして、この異様な風貌。微かにでも八兵衛が読めない挙動をした場合、回避、反撃、いかなる行動にも移れるように腹づもりをしている。この頭脳の回転の速さこそが、凍早を凍早たらしめている最大の要素である。

 短刀の切先が身体の真芯を捉えた時、再び八兵衛の身体が紅い電光と化し、瞬間、消え失せる。

 来た。凍早は目を凝らし、その高速移動の軌跡を計算する。減速し、自分の周囲で停止した瞬間に迎撃するべく構え直す。

 しかし。

 見えない。わからない。鍛えあがれられた反射神経と動体視力、凍早の判断能力を持ってしても、何も知覚できない。既知のもの全てを置き去りにするほどのスピード。いや、もはや、見ることさえ叶わないため、それはスピードとすら知覚できない。

 真紅の稲妻はやがて軌道を変え、凍早の周囲をぐるぐると回り始めた。空気が急速に押し出され、上昇する気流が発生する。常軌を逸した現象を目の当たりにして、さしもの凍早も立ち尽くした。

 こんなものは知らない。

 集中力の途切れた一瞬。凍早は腹部に衝撃を感じた。とん、とひと突き。真正面、身体の急所に対しての攻撃。通常であれば、食らうはずのないもの。だが、尋常ならざる速度の乗ったそれは、反射的な防御反応よりもはるかに早く、そして圧倒的な運動エネルギーを宿し、凍早の痩躯を上空高く吹き飛ばした。

 身体を広げ、制動をかける。だが、吹き飛ぶ凍早を、それを上回る速度で稲妻が駆けてきた。空を飛んでいるわけではない。音を超える速度で、その空間に存在する空気すらも足場にして走っているのだ。凍早の頭上にまで駆け上がったそれは、その速度を維持したまま殴りかかってくる。型も技術も何もない、本能のままに振るう拳。凍早は冷静さを必死に繋ぎ止めながら、短刀でその乱打を捌く。だが、


「化け物が……!」


 人外の速度で遅いくる猛攻は、凍早の能力を持ってしても防御し切ることはできなかった。短刀を弾かれ、がら空きになった胸郭に乱打が直撃する。一撃ごとに鎧が砕け、その中の骨を粉く。口から血が吹き出す。体勢を崩し、凍早は地面に墜落した。

 口中に溜まった血と、砕けた歯を吐き出すと、痛みに耐えながら凍早は上体を起こす。あたりには焦げた匂いと煙が立ち込めている。煙る視界の奥、緑の燐光が凍早を捉えていた。


「……」


 鬼の眼球は、霊力の高まりに応じて光を放つ。拒否反応を超え、鬼の体組織を取り込んだ八兵衛の身体は、およそ常人が手に入れることのない霊力を手にしていた。先ほどまでの、身体の内部で暴れるような感覚はだいぶ収まった。だが、一挙手一投足に気を抜けば爆発してしまいそうなほどにみなぎる力の使い方が、八兵衛にはまだわからなかった。わずかでもたがが外れたら、あの凍早でさえも容易にバラバラにできるほどの力。早鐘を打つ心臓によって循環される殺意と力を、理性で手繰り寄せる。

 煙が晴れた。凍早は立ち上がり、構えていた。

 両手に構えているのは、さっきまでの短刀ではない、三日月のような形状に、ところどころに丸穴の空いた小型の鎌だった。

 八兵衛には見覚えがあった。あらゆる武具を最高水準で使いこなす凍早が、その中でも最も得意としたもの。保持する丸穴の組み合わせによって、間合いも斬撃の軌道も自在に変化する、変幻自在の近接戦用武器・通称〈水面の月〉。凍早の卓越した能力で操られるこの鎌は、無龍ですら完璧には見切ることができないという。


「もはや出し惜しみも、慢心もしない。私の全力でお前を排除する。化け物の力を取り込んだお前をもう人とは思わん。化け物め」


 化け物。光圀が心を苛み、悩み続けた言葉。

 童子の身体と混じり合った今の自分は、人なのか、人ならざるものなのか。


「化け物か。そうかもしれない。でも」


 凍早が瞬間、駆けた。一気に間合いを詰め、鎌を手元で高速回転させながら斬撃を放つ。不規則な軌道で遅いくる、予測も防御も不可能の、致死の斬撃。だが。

 鬼の眼球にはそれすら止まって見える。

 童子も同様の視覚を持ってはいたが、反射神経と身体能力が伴わなかったために、全く有効に使われることはなかった。しかし、〈最速〉の異能をもつ八兵衛ならば。どれだけ優れた能力を持っていようが、およそ人間が繰り出す攻撃は、その全てを回避することは容易い。

 一歩、踏みしめる。人智を超えた加速で音を置き去りにする。無音の世界を駆ける。空気との摩擦で皮膚が焼け、剥がれ落ちる。その端から、再生する。たえず激痛に身体を包まれながら、凍早の後ろに回り込む。回転する鎌を取り上げ、横腹を蹴り付けると、凍早の身体は軽く吹っとばされた。凍早は即座に受け身を取ると、懐から短刀を取り出し、再び八兵衛に向かってくる。


「お前らが化け物と呼ぶ童子も、自分のことを化け物だって言って泣いた光圀も、優しかったんだ。俺は、それに報いたい」

「戯言を!」

「天帝計画は止める。お前や無龍様を倒してでも!」


 ばち、と音が爆ぜ、八兵衛の姿が稲妻と化す。

 まだ、この力の使い方が完全にわからない。一歩踏み締めるごとに身体が全て持っていかれそうになる。だから、感覚を掴めるまで、めちゃくちゃに辺りを走り回る。大地を砕き、木肌を削り、大気をも踏み締め、加速する。加速するたび、空気と擦れて八兵衛の体表が高熱を発する。熱は肌を焼き、汗を燃やす。やがて八兵衛は一条の炎の尾となった。

 飛び上がる。

 その先の空間そのものを蹴り飛ばし、上空から一直線、赤い閃光が奔った。

 八兵衛が吠える。その咆哮すら追い越す速度で、八兵衛の足刀が凍早を射抜いた。

 超人的な反射速度で凍早も体幹を防御する。が、防御に掲げた腕の骨すらも粉砕し、凍早は地面を削りながら遥か遠くの岩壁に身体を打ちつけた。岩盤には巨大なクレーターが現出する。凍早は短くうめき、なおも八兵衛を見据えようとしたが、視界の焦点が合わず、意識を手放した。

 八兵衛はそれを見届けると、切り飛ばされた童子の頭部を探そうと、藪の中へ身体を向けた。

 が。


「……ナナ姉」


 眼前に、〈七〉の屍がゆらりと現れた。ぎこちない挙動、張り付いたような無表情。

 その周囲には、大量の〈華斬車〉が浮遊している。

 〈七〉が両手を振ると、それらは一斉に八兵衛に襲いかかった。

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