第十七話「もう、どうでもいい」

※※※


 着地した八兵衛たちは、敵の人数や配置よりも先に、光圀の居場所を確認した。探すまでもない。怪しく紫光を放つ巨岩の、傍の寝台で悲鳴を上げ続ける巨躯の少女。その姿を認めた瞬間、八兵衛の頭の中で何かが切れた。童子に一声かけることすらなく、〈最速〉の速度で駆ける。軌跡に水柱が上がった。

 光圀の顔を覆う何かの装置は細い線で巨岩につながっていた。それが何なのかは全くわからないが、手に持ったままの水の刃を走らせ、絡みつく線を切断すると、顔の装置を無理やりに引き剥がす。天井の崩落からここまで、実に1秒。


「光圀! 無事か!」


 崩落に気を取られていたネムは、その声を聞いた時に初めて、光圀の拘束が解かれていたことに気づいた。いつの間に、と問おうとした時には、すでに喉元に水の刃を突き付けられていた。短く悲鳴を上げるネムに、八兵衛が苛烈な視線を刺す。しかし、その刃を走らせるでもなく、次の瞬間、水の短剣を同時に向かって投げた。危うげにそれをキャッチすると、短剣が纏っていた水は形を失ってあたりに消え失せ、核となっていた鍵が姿を表した。足元に溜まる水に向かって鍵を突き刺すと、童子は何かを念じるように唸り声を上げた。

 止めようと凍早が一歩踏み込んだが、無龍がそれを制した。凍早は不思議そうに無龍を見返したが、すぐに再び警戒の姿勢をとった。

 足元が揺れている。いや、正確には、足元に溜まる夥しい量の水が震えていた。


「ちっこいの、こっちに来い!」


 童子の号令で八兵衛は光圀をなんとか担ぎ上げて走った。自分より遥かに大きな体を肩に担ぎ上げての駆動は大変な力が必要なため、最高速にはほど遠い速度しかでない。が、それでも非戦闘員であるネムや、老体であるガゴゼ爺には目で追うことすらできないスピード。

 八兵衛が傍に来たことを確認すると、童子はありったけの力を込めて叫んだ。


「水気!!! 儂の声に応えよ!!!!」


 水が波うつ。脈打つ。轟音が、部屋の床の遥か下から迫る。当たり一面にある水が、全て童子の鍵に向かって集まってきている。足元の水がごうん、と揺れると、巨大な樹木が急速に成長するように、真上に向かって猛スピードで伸び上がった。人の背丈を越え、やがて部屋の天井に空いた穴を越え、〈龍の口〉を逆上がっていく。


「うまくいったな、童子」

「お前な、滝を落ちながら指図するんじゃない。全く作戦が聞き取れなかったじゃろうが」


 みるみるうちに高度が上がる。澄み切った夜空が見えた。満月が天頂に輝いている。巨大な水の柱の頂上で、八兵衛は月光に照らされて浮かび上がる忍び里を一望した。苦い記憶と共にある古巣の光景があった。

 はずだった。

 しかし、そこには何もなかった。正確には、知っているものが何もなかった。今まさに昇ってきた〈龍の口〉を中心に、あったはずの屋敷が、寝所が、修練場が、何もかもが形を失っていた。泥や草木、果てはさまざまな生物の身体を適当に撚り合わせて捏ねたような悍ましい姿に、歪み切っていた。

 八兵衛が〈歪みの日〉に目撃した〈歪み城〉のように。


「なんだ、これ……」


 八兵衛は思わずこぼした。童子もまた、その光景に眉を顰める。


「おそらくじゃが……さっきの部屋にあったあのバカでかい霊石が原因じゃろうな」

「石……」

「霊石は、龍脈を通じて、生き物の〈願い〉を溜め込む性質がある。そして、その願いを感じ取って、この世の因果にほんのちょっぴり影響を与える。願をかけたらちょっといいことがある、とかな。儂のいた山にも似たようなものがあった」

「そういう石は、前にも見たことがある。でも、それは願いを溜め込みすぎて、とんでもないことを起こしていた」

「その通り。石が貯めておける願いには、限度がある。わざわざ石に向かって願をかけなくても、その石の近くにいたものが願ったこととか、思ったこととか、そういったものを全部感じ取って溜め込んでいくんじゃ、限度など、すぐに越えてしまう。そして、限度を超えた石は……」


 童子は指さす。歪み切った光景を。


「腹の中にある願いを全部吐き出して、その周辺の因果をめちゃくちゃに変えてしまうんじゃ。人や鬼のように知性のある生き物の願い事とか、獣どもの本能からくる欲求とか、果ては、植物が花を咲かせたい、とか、増えたい、なんていうものまで、のべつまくなしに全てを具現化しようとしてしまう」


 八兵衛は、近くの森で植物の植生が狂っていたことを思い出していた。あれも、要石の暴走による現象だったのか。


「……そろそろ限界かの、とりあえず、降りるぞ」


 童子が鍵に念じると、滝壺から垂直に伸び上がっていた水柱がぐにゃりと曲がる。このまま水柱に乗ったまま、忍び里の外まで移動してしまおうという段取りだった。無龍や凍早が追ってくるだろうが、この高度を維持したままなら、いかな天才忍者たちとはいえ接近することはできない。いずれ追い付かれてしまうとしても、体制を整えるには十分な距離が取れる。

 と、思っていた。


「!?」


 ぐらり、と水の柱が傾く。下を見ると、信じられない光景があった。

 柱の中腹あたりにまで駆け上がった無龍が、柱に向かって拳打や蹴りを叩き込んでいる。そもそも、童子の鍵の力で無理やり形状を作っているだけで、余人が触れたところでその水はあくまで液体。手を引っ掛けることなどできはしない。だから、あんなところまで登ってこれるような代物ではない。そして、水に向かって打撃をいくら打ち込んでも、破壊することができるものではない。

 いや。と、八兵衛は思い直す。

 それはあくまで自分の常識だ。狂気すら越える領域で研鑽を積み続けた無龍の身体能力には、彼以外の人間の常識が通用するはずがない。

 人外の膂力で水を叩けば、その反動で無龍の巨体は跳ね上がるし、水が流れるより早く拳を撃ち込み続ければ、大河ですら寸断する。そういう次元で考えねばならないのだ。

 などと、感心している場合ではない。八兵衛たちを乗せた水の柱は、無龍によってぽきりと折られ、滝壺との接続を失い、〈水気〉の供給が絶たれる。寸断された箇所から、柱を構成していた水は形を失ってざばあと真下に落ちていく。童子は青ざめたが、歯を食いしばり、自らの内の霊力を振り絞って鍵に込めた。崩れゆくなか、足元にかろうじて残った水が集まっていき、形を形成する。が、このままでは地面に叩きつけられるだけだ。水を縄状に変形させてどこかに捕まろうと童子は当たりを見回したが、都合の良いものは見当たらない。

 落下の勢いが増す。大量の水が忍び里に豪雨のように降り注いだことで、木々から鳥たちが逃げ惑うように飛び出した。それを見た童子は祈るような心持ちで、再び鍵に霊力を込めた。水の足場は薄く平たく変形し、翼のような形状になった。羽ばたくことはできないが、角度や形状をなんとか調整し、それは風を捕まえて滑空する。


「ちっこいの、光圀をしっかりと捕まえておれよ!」

「う、うおおおおお……!!!!」


 森に向かって、鋭角に突っ込む。水の翼は木々に衝突するたびに表面に波紋や飛沫を生じ、風を捕まえる力が失われていく。落下速度が上がり、地面に墜落する。

 寸前、八兵衛は光圀を抱えたまま童子の手を取り、最高速で跳躍した。落下の慣性で速度が乗り、八兵衛でも制御しきれないほどの運動エネルギーが発生している。このまま最高速で駆け続け、少しずつ減速するつもりだったが、想定以上の速度に足がもつれる。十分に減速もできないまま、八兵衛たちは地面に投げ出された。八兵衛は光圀の体を何とか抱え、庇う。地面を擦りながら吹き飛び、近くの木の幹に体を打ちつけ、止まる。かなりの衝撃ではあったが、骨が折れたり、致命的なダメージではないことがせめてもの幸いであった。


「痛っってえ……童子、無事か……」

「何とかの……光圀は」

「無事だ、多分。まだ目が覚めないけど……」


 八兵衛が言いかけた途端、光圀はむくりと起き上がる。

 そのまま、よろよろと歩き始めた。


「光圀! 気づいてたのか……!」


 応えることなく、光圀は力無く両手を髪飾りにかけ、それを引き抜こうとした。ぎょっとした八兵衛は光圀に後ろから飛びつき、腕を押さえる。


「何やってんだ……! それを外したら、お前は……!」

「離して……」

「離すわけないだろ! 何考えてんだよ!」

「離してってば!!」


 在らん限りの力で振り解かれ、八兵衛は吹っ飛ぶ。八兵衛は起き上がるなり光圀を見返す。

 光圀は泣いていた。眉を歪ませ、絶望に顔を染めていた。


「もう、どうでもいい。はちべえ、今からわたし、化け物になるから。わたしを……殺して」

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