第十二話「二人でどっか行っちゃおうぜ」
※※※
もう夕暮れだった。指と手のひらの皮膚がずたずたになって、もう登れない。しかし眼下に広がる景色は遠く、無論、降りることもできない。断崖に突き出た、人ひとりがやっと乗れるほどの突起の上でうずくまり、〈八〉は途方に暮れ、ただ時が過ぎるのを待っていた。
崖登りの修練。断崖を登りながら、そこで戦闘になった際の対応についての訓練であった。登攀技術ではなく局地での戦闘に重きを置いた訓練だったから命綱もつけていたし、体の小さな〈八〉には有利な状況だったから途中までは順調だった。
順調。物心ついた時以来、初めての感覚だった。自分の矮躯が、負荷を軽減し、軽々と断崖で移動することに適している。今まで一度たりとも好成績を残せなかった〈八〉が、やっと認められる。そう思った矢先。
同期の〈七位〉たちに面白半分に命綱を切られ、蹴り落とされた。
幸運にも今いる突起に引っかかり一命を取り留めたが、それだけだ。登ることも降りることもできず、時間が経過して、誰かが助けに来てくれるのを期待するしかない。
いや、この忍び里において、脱落者が誰かから救済されることはあり得ない。どんなに才覚を表していても、不具になれば処分される場所だ。訓練中に行方不明になるような落ちこぼれに労力を割く者など、ここにいるはずもないのだ。
そう、わかっているのに。
「おーい、お前、何やってんの?」
崖上から声がした。太陽は崖の向こうに沈みかけているところだから、逆光になっていて声の主の姿は判然としない。しかし、夕暮れに溶け込むような真紅の装束と赤橙色の髪。そんな風貌の忍びには心当たりがあった。
「……」
あったが、それはこの里において最も関わりたくない人物でもあった。
最も秀でた才を開かせることを信条とする待宵草忍軍にあって自ら〈最悪〉を名乗り、郷の中でも指折りの実力者でありながら、最下級である〈七〉位からどういうわけか動こうとしない異端者。
「ケガしてんのか? どれ、ナナお姉さんが助けてやんよ」
助ける。
そんな言葉を聞くとは夢にも思っていなかった。〈八〉が面食らっているうちに〈七〉はひょいと崖を飛び降り、〈八〉の傍に音もなく着地した。側頭部で束ねた長い髪がふわりと〈八〉の顔を撫でる。払い除けようとした〈八〉の手が素早く掴まれた。
「うへえ、なんだこりゃ、ひでえな。お前、ココを素手で登ろうとしたのかよ」
〈八〉は答えず、目を合わせない。
「お前、知ってるぞ。あれだろ、〈八〉とか呼ばれてる奴だ。〈七位〉より下だって言われてる。〈ハチ〉って呼んでいい? 犬みたいで可愛くね?」
手を振り払い、再び膝に顔を埋めた。
「あれ、怒った?」
「……」
「ゴメンて。揶揄うつもりはねえよ。でもあたしはお前の噂を聞いて、すげえって思ったけどな」
「……何がだよ」
「だってよ、この里で、個人の名前を持ってるやつなんて〈一位〉って認められた一握りだぜ。それなのに、お前はお前だけの呼び名を持ってる。〈七位〉から〈二位〉までの奴らが持ってないものを、お前は持ってるんだぜ」
「何も嬉しくない。ここにいる誰よりも劣ってる証拠でしかない」
〈七〉は短くため息をつくと立ち上がり伸びをした。
「今日の修練は命綱つきのやつだったはずだけど、ハチ、同期のやつに切られたろ」
「……ハチって言うな」
「それをやったのは、ひとりだったか?」
「……違う。〈七の五十六〉と〈七の六十三〉、あと、〈七の六十五〉。三人。でも、あいつらが悪いわけじゃない。俺がヘマするからそう言う目に遭う。全部、自己責任だ」
「だと思ったぜ。そいつらのことは全く知らねえが、そいつらも含め、この里にいる奴らのほとんどは〈群体〉なんだよ」
「……?」
「組織、集団の中の役割をこなすために、〈その中のひとり〉に徹してるつうのかな。そう言えば聞こえはいいかも知んねえけど、あたしに言わせりゃあ、結局のところ、〈みんながやってること〉をやるだけのくだんねーやつでしかねえんだよ。せっかく生まれて、せっかく頭ん中に脳みそを積んでるってのに、自分のことを自分で決めらんねえ。そんな〈群体〉に率先してなってる奴ばっかりだ」
「でも、俺たちは忍びだ!」
〈八〉は許せなかった。自分が必死で食いついて、認められようとしている集団のことを侮辱された気がした。
俺は、人の何倍も努力したとしても、人並みにすらなれない。それでも人並みになるために、血を吐くような修練を積んできた。なのに。
「あー、そうだな。忍びとしちゃあ、それが正解ってのもわかる。忍びなんてのは究極、どこぞのお殿様の手足となって任務を遂行するだけの道具でしかねえ。でもよ、せっかく生まれたんだ。どうせ一度しか生きらんねえなら、そんな境遇でも楽しんでやった方がいいだろ? 人生は一回。体も一つ。なら、〈何分の一〉かになるより、たった一つのひとりになった方がいいじゃねえか」
〈八〉は吠えた。
「そんなの、あんたが恵まれてるからそう思えるだけだ! 何も持ってない俺みたいなやつの、何がわかるんだよ! 何で構うんだよ、俺みたいな落ちこぼれはほっとけばいいだろ!」
しかし、〈七〉は目を細め微笑むだけだった。
「俺はあんたの言う〈群体〉にすらなれないんだ。でも、なりたいんだよ。みんなと同じ場所に、せめて立ちたい。みんなと同じことを考えていたい。誰もいない地の底で一人でいるのは、もう嫌なんだよ……!」
「じゃあさ、逃げちゃう? あたしと二人で」
「え……?」
〈七〉は目を細め、まっすぐに〈八〉の目を見つめている。
「みんなと同じこと、ってのはできないかも知んないけど、ひとりじゃないぜ?」
「逃げる、って、どうやって」
〈七〉は笑い出した。
「なんだよ、ハチお前、ほんとは逃げたいんじゃねえかよ」
「な、そんなことない」
「じゃあ、何ですぐに否定しなかったんだよ。逃げるなんてとんでもないって」
「それは……」
〈七〉は再びしゃがみ込んだ。〈八〉の目の前に整った顔が迫る。
「逃げたいって思ってんなら、その心をちゃんと認めろ。自分に嘘ついてっから、やりたいこととできることがズレてんだよ」
「……!」
ぽん、と両肩に手を置かれた。
その時。
「あ、あらら?」
ぴしり、と地面が悲鳴を上げた。
〈七〉のしゃがんでいた辺りに亀裂が走り、砕けた。
しゃがんだままの姿勢で後ろにひっくり返り、そのまま落下する、
寸前。
「……ヘマしたら自己責任じゃなかったのかよ?」
〈八〉が、〈七〉の手をしっかりと掴んでいた。
「うるさい……! 目の前で落ちられたら、寝覚が悪いだろ……!」
素早く姿勢を直すと、今度は〈七〉が〈八〉の身体を乱暴に横抱きに抱え上げた。
「お、おい!」
「おら、しっかり掴まってろ」
跳躍。眼下には、さっきまで二人がいた突起が砕け散り、崖下へと消えていくのが見えた。そのまま道具も使わずに、断崖にあるわずかな突起を手がかり足掛かりに、すいすいと崖を上り切った。
ぽいと〈八〉を放り出すと、手をぷらぷらと振る。
「命の恩人だな、ハチ」
揶揄うように笑う。〈八〉は目を逸らし、〈七〉の顔を見ないようにした。
「わかったよ、ハチは優しいんだ。忍びなんか向いてねえよ」
「……向いてないのなんて、わかってる」
「でも、お前はそのままでいい。今後お前がすげー修行して、何かの間違いで強くなったとしても、心は変わるな」
「どういう意味だよ」
「こんなクソみたいな忍び里にいて、それでもお前が優しさを失ってないってのは、それだけで奇跡みたいなもんなんだよ。弱いから、弱いやつのことがわかるから、優しい。でも、優しいやつは、誰かのために身体を張れるから、強い。強くなれる。あたしは、そうなりたかった」
「……なりたかった、って」
「ああ、何でもねえよ」
陽が沈もうとしていた。茜色の太陽は〈七〉の真後ろ。
紅い陽光が、〈七〉の赤毛を透かした。
「ハチ、もうちょっとだけ頑張ってみろよ。三年だ。三年とにかくやってみろ。それでなんかの才能が開いたり、もうマジで無理だってなったりしてもいい。そんで三年経って、まだあたしら二人とも生きてたらさ」
「……何だよ」
〈七〉は笑った。
「二人でどっか行っちゃおうぜ。ずっと遠くまで」
自分の行きたい方へ、生きたい方へ踏み出すことは、勇気さえあれば誰でもできる。
でも、その方向へ歩き続けるのは、一人では寂しすぎるだろ。
〈七〉はそう言ったが、〈八〉にはあまり聞こえていなかった。
誰かに必要とされたことがあまりに嬉しくて。生まれて初めて自分を肯定されたことが、あまりに暖かくて。
この後、待宵草忍軍の忍び里では二人は行動を共にすることになる。
〈七〉の後ろ盾を得た〈八〉は、露骨な迫害を受けることは少なくなったものの、それでも才能は開花せず、伸び悩んだ。しかし、自らの弱さ、臆病さを受け入れることを覚えた〈八〉は、攻撃の回避や危機察知能力を少しずつ高めていき、任務における負傷の少なさのみに関して言えば、上位と遜色ない記録を残した。尤も、それで忍軍からの評価が上がることはなかったが。
そして、約束の三年が過ぎた。
二人とも、それが約束の日だということは覚えていた。
しかし、約束が果たされることはなかった。
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