第九話「我ら〈待宵草忍軍〉は滅びてはいない」
※※※
ずんずんと山中を歩いていく童子についていく。あちこち尖った枝などが出ていて相応に危険なのだが、どうやら鬼の身体は光圀以上に再生能力が高いようで、そこかしこにできた切り傷も見る間に消えていく。童子が邪魔な枝などを全部へし折りながら進んでいくから、光圀と八兵衛はそこそこ快適に歩を進めることができた。
「わしの嫁になる女子じゃからのう。身体は大切にしてもらわんと」
「なんないですってばあ!」
道中で十回を超えるほどの〈わしの嫁〉発言を光圀は逐一否定していたが、だんだん面倒くさくなってきた。そんなやりとりを八兵衛はうんざりしながら聞いていたが、胸の奥の方に妙な苛立ちを感じていたから、
「童子、どの辺なんだよ、お前が襲われた場所っていうのは。本当に覚えてるんだろうな」
腹立ち紛れに会話に割って入った。童子は八兵衛を一瞥したが、興を削がれたように目を細める。
「……小さいの。お前、わしのこと舐めておるじゃろう」
「当たり前だろ。鬼のくせに弱いし、威厳もないし。恐れてほしかったら、もうちょっと鬼らしくしてろってんだよ」
「カッチーン! 〈鬼らしく〉とかいうの、わし、マジで嫌いなんじゃが?」
「ああ? 嫌いだったらどうすんだよ? お前みたいなの相手ならサシで戦ったって負ける気がしねえけど?」
「やめてー! けんかしてる場合じゃないでしょ!」
睨み合う二人の間に光圀が割って入る。しばらく二人は睨み合いを続けていたが、先に折れたのは童子だった。
「光圀がそう言うならやめる。わしも大人気なかったのう」
「〈も〉ってなんだ、〈も〉って。お前だけだろ」
「はちべえ!」
「あああ、もう、わかったよ」
八兵衛も渋々童子を睨むのをやめ、視線を適当に逸らした。
そこに。
「……この傷……」
生い茂る木々の中の一本に、見つけた。丸々としたの木の幹に、自然についたとは考えづらい深い傷。切り傷などではない。拳大の何かで抉り取ったような大きな。
八兵衛は、それに見覚えがあった。
「む……? おお、そうじゃ。ちょうどこの辺りじゃ。わしが襲われたのは」
「え、ほんと?」
「ほんとじゃとも。この辺りで、こう、さっき言った風車みたいな飛ぶ武器を使う女と……そうそう、思い出したぞ。やけに体のでかい男がおったのう。其奴の拳がとんでもなく早くて、そう、ちょうどその木の幹なんかは拳が掠っただけで削れるほどじゃった」
八兵衛の胸が跳ねた。
そうだ。知ってる。こんな傷をつけられるものを。〈待宵草忍軍〉において、一切の武器を持たずして序列最上位にまで上り詰めた存在を。
「童子……その男って、もしかして、両目が」
「おお、そうじゃとも。両目が潰れておったようじゃ。それであの動きの精度とは、恐ろしい男よ。小さいの、お主、知り合いか?」
八兵衛が〈最速〉の忍びであるように、忍軍には最も優れた才を持つ者が集まっている。
その者は、〈最強〉。
幼い頃の事故で両目を失ってなお、一切の敵に阻まれることなく、一切の苦難に屈することなく、最も多くの敵を屠り、最も多くの武功を挙げたもの。
最上位である〈一〉位をも圧倒する尋常ならざる力を誇るため、数字を冠することすら無くなった、伝説の忍び。光なくとも人外の強さを誇る、無明の龍。
「知ってるなんてもんじゃない。あの人は、〈待宵草忍軍〉だけじゃない、全ての忍びにとっての伝説だ。〈無龍〉様は」
その時。
「伏せて!!!!」
八兵衛の興奮気味の語りは、光圀の絶叫でかき消された。〈何か〉がとてつもない速さで飛んでくる。瞬時、全員が弾かれたように体勢を低くする。しかし反応速度で劣る童子が一瞬遅れた。短い苦悶の声と共に、童子の背後の木の幹に血飛沫が飛んだ。何かが童子の方の肉を抉る。その瞬間から再生が始まるが、流れ出る血の量は夥しい。
八兵衛は〈何か〉が飛来した方向を警戒したまま、童子の血がついた木を観察する。一見しただけでは何も見えないが、目を凝らすと、血に濡れた透明な細い棒状のものが、何本も木に突き刺さっているのが確認できる。
ガラスの針のような。
それに見覚えがある、と八兵衛が思い至り立ち上がるその時。
八兵衛は首筋に感じた。鋭利な何かが自らの頸動脈に突き立てられているのを。
「お前ごときが無龍様の名を発音するな。穢れる」
その時点ですでに、八兵衛を殺すには十分過ぎるほどの至近距離に、彼女はいた。水晶のように透明な素材で造られた短刀の刃が、しっかりと八兵衛の首元に接している。
凛とした美しい発音。だが、その温度は絶対零度。凍てつくような怒気を孕んだ声の主は、石灰色の髪を短く切り揃えた少女だった。
「お前……〈凍早〉か……?」
「気安いぞ。最下級の更に下が」
「生きてたのか。忍軍のみんなは、てっきり……」
「お前が生きているんだ。私達が生きていて何の不思議がある」
光圀は瞬時に構えるが、その少女が一瞥するだけで足が止まる。その殺気に、それ以上踏み込めない。爪の先ほどでも進めば瞬時に惨殺されることが確定しているかのような、致死の間合い。
「凍早、やめてくれ、俺たちは敵じゃない」
「……」
凍早と呼ばれた少女はしばしの沈黙の後、乱暴に八兵衛の背中を押し出した。手にした透明な刃を下ろし、構えを解く。口を覆っていた覆面を下にずらすと、唇の薄い端正な顔立ちが顕となった。
「お前のような下の下の落ちこぼれ、味方だと思いたくもない。まあ、敵にもならないと言うのには同意するがな」
「……まあ、そりゃそうだよな」
自嘲気味に笑う八兵衛に、光圀が駆け寄った。
「は、はちべえ……この子、知り合いなの?」
「ああ。同じくらいの時に忍び里に拾われて、一緒に鍛錬した……まあ、同期みたいなもんだよ。もっとも、こいつは忍びの歴史の中でも有数の天才で、俺の方は類を見ないほどの落ちこぼれだったけど」
「自己分析だけはできているようだな」
冷酷に吐き捨てる凍早に、八兵衛は苦笑する。
「俺たちは実力によって〈七〉までの数字に分けられて、番号で呼ばれる。個人を表す名前なんて与えられない。でも、〈一〉位だけは別だ。歴史に名を残せるほどの力があると認められた忍びは、個別の名前を名乗ることが許される。こいつは一位の〈凍早〉。体術、忍術、頭脳……どれをとっても一級品で、あまりに何でもできるもんだから、ついた称号が〈最終〉。忍びの歴史にこれ以上の才能は現れないとまで言われたやつさ」
「すごい子なんだ……!」
「そうだよ。その天才が、こんなとこで何してるんだ?」
凍早は無言のまま、手にした刃をしゃがみ込む童子に向けた。
「もちろん、そこの赤鬼に用がある」
童子はもうだいぶ傷が塞がってきたのか、両腕をぶんぶんと振り回して怒り始めた。
「無礼者! 用があるなら優しく声をかけぬか! 刃物をいきなりぶん投げてくるやつがあるか!」
「どうせすぐ治るだろう。死にはしないんだ」
「そう言う問題じゃないのじゃー!」
キーキーと起こる赤鬼に、凍早は短くため息をついた。
「凍早、童子をどうするんだよ……?」
「お前には関係のないことだ」
「でも、俺だって、忍軍の……!」
「何だ、お前、忍軍に戻りたいのか?」
「それは……」
「お前を迎え入れて、忍軍に何の得がある? 何の才もない、お前に価値があると?」
その圧力に八兵衛が萎縮しているように見えた。光圀が反論しようと一歩踏み込んだ時、
「!?」
その眼前に男が現れた。現れたというよりも、ずっとそこに存在していたかのように、そこに立っていた。
気づかなかったということなどあり得ないほどの巨躯が。
「あ……あ……!」
八兵衛は絶句する。
巨躯を誇る光圀よりも、頭三つは高いであろう長身。その全身に纏う研ぎ澄まされた筋肉は、荒々しさよりも機能美の鋭さを感じさせる。野生的な造形の顔面には、両目を切り裂く傷跡が残っていた。
その男は口を開いた。
「凍早。そう軽んじるものではない。〈八〉は既に何らかの才に開花している」
重く響く低音。凍早は反射的に跪いた。
「心音や筋肉の駆動音で判る。〈八〉の身体は、すでに常人のものではないぞ。里にいた時とは違う」
「無龍様……! 浅慮による早計、誠に申し訳ございません」
八兵衛は動けなかった。極度の緊張もあるが、あの伝説が、自分のことを認識していたということに対しての、気恥ずかしさ、嬉しさと申し訳なさがないまぜになって、どうしたらいいかわからなくなっていた。しかし、かろうじて口を開くことはできた。
「む、無龍……様……! お、俺は……!」
何の意味もない、ただの言葉の羅列。しかしその言葉の調子に混じった八兵衛の感情を、無龍は感じ取ったようだった。
「そうとう苦心したと見える。よく耐えたな」
表情は変わらないが、その声がわずかに穏やかに聞こえる。途端、八兵衛は膝から崩れた。なぜだか涙がとめどなく流れる。
「はちべえ……?」
「だ、大丈夫だ。な、何でだろう、俺、どうしたんだろう、こんな……」
必死で涙を拭う八兵衛を、凍早は不快そうに一瞥した。
「無龍様に感謝するんだな。本来お前など、無龍様と口を聞くことすらできない身分だ」
「凍早、構わない。我らは、無力なものを切り捨て、力あるものを残す。それだけだ」
「! ……では」
無龍は膝を落として屈み込み、八兵衛の肩にそっと手を置いた。
八兵衛ははっとして無龍の顔を見上げる。
無明の貌に、柔らかな表情が浮かんだ。
「〈八〉よ。我ら〈待宵草忍軍〉は滅びてはいない。お前も共に来るのだ」
「……!」
「幕府なき今、我々が成就させる。〈天帝計画〉を」
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