第六話「今のわたしにできる、これが、世直し」

※※※

 

 再び川のあたりまで降りて少しだけ道を引き返し、植生が正常だと思われる辺りにまで家族を送り届けた。父親の方はまだ足を引きずっていたが、当面は大丈夫だろう。

 しかし、二人には引っ掛かっていることがあった。

 あの獣はなんだったのか。そして、あたりの植生が異常だったことと、何か関係があるのだろうか。気にはなるが、解き明かす手立てもわからない。再び似たようなものと出会ってしまった時のことを警戒しながら進むしかなかったが、


「はちべえ」


 神妙な空気になっていた中、光圀が不意に口を開いた。


「わたし、ね。今まで、何にも分かってなかった。……って、さっき分かったんだ」

「な、なんだそりゃ」

「あはは、だよね。わたし……記憶がないって、知ってるよね。でも、記憶がないってこと以上に、良いこととか悪いこととか、ものすごく単純に考えてたんだ。世の中には悪い人がいて、その人をやっつければ、〈世直し〉ができるって、良い世の中になるって、なぜだか信じてた。でも、疑神衆の人たちと会って、火和ちゃんと……友達に、なって、傷つけて、さっきの家族を見て……。〈分かった〉っていうと偉そうだけど、少しだけ、輪郭だけでも見えた気がしたんだよ。この世には、良いことと悪いことって、そんなにはっきり分かれていなくて、だから、色んなことを考えて、自分でどうするか決めなきゃいけないってこと。そして、わたし自身は、そうやって自分で考えることを、全然してこなかったってことを」


 八兵衛は目を逸らす。自分自身、過去の記憶に囚われて、目の前の光圀を仲間の仇だと思い込んでいた。思考停止の復讐心に駆られていたことを忘れたことはない。


「……そんなの、俺だってそうだ」


 光圀は八兵衛の手を取った。八兵衛の目を射抜く、まっすぐな瞳。

 初めて出会った時には、ぎらぎらと無遠慮な光を放っていたが、今は、静かで柔らかなものに感じられた。


「わたしね、自分の生まれた場所を探しに行きたい。多分、〈光圀〉になる前のわたしの記憶が、頭の奥の方にあるんだ。村の中で一番大きなお家で、たくさんの子供たちと一緒にいる。これ、きっと、わたしの本物の記憶なんだ。だからわたしは、自分が誰なのかを見つけに行きたい。そして、その途中で出会った人たちのことを、精一杯助けたい。大きなことはできないかもしれないけど、世界全部を良くすることなんてできないかもしれないけど、今のわたしにできる、これが、世直し。はちべえ……着いてきてくれる……?」

 

 八兵衛の胸で、何かが少しだけ跳ねた。なぜだか慌てて目を逸らし、答える。


「……馬鹿野郎。今はお前の正体を確かめるためにも、〈天帝計画〉のことを調べなきゃいけないんだろうが」

「あ、そっか、そうだった」

「……その後なら、別に、構わねえよ」


 光圀は、花が咲くように笑顔を浮かべた。

 しかし、その表情はすぐに緊張したものとなった。

 がさり。がさり。と、辺りで何かが蠢く気配がする。〈それら〉はすぐに姿を現した。

 人間と同じくらいの身の丈。身体中を覆う体毛。そして、手に持った、樹木を拙く削り出しただけの棍棒。

 先ほど殴り飛ばしたのと同じような外見の獣が、五体。

 そして、その足元には犬のような動物が控えていた。

 犬ではない。中型犬くらいの大きさで、細身の犬そっくりのシルエットをしていたが、それには眼球がなく、頭部を垂直に割る形に開いた口が、ぶるぶると嫌な声を上げながら開いたり閉じたりしている。その異様さに、光圀は短く悲鳴をあげた。


「……さっきの奴らの仲間かもな。……光圀」

「分かってるよ。わたしたちを傷つけようとするなら、容赦はしない……!」


 と、二人が身構えたその時。その獣たちは二人に気圧されたのか、踵を返すと怯えた様子で走り去っていってしまった。


「あ……あれ?」

「なんだったんだ?」


 拍子抜けした八兵衛は不意に振り返った。

 そのまま、固まった。


「はちべえ、どうしたの?」


 ありえないものがいる。

 見知らぬものが、いや、正確には、見たことはないが聞いたことはある。しかし、非実在の、神話上の存在として。


「あ……あ……」


 見てくれは人間に酷似しているが、その背丈は人よりもだいぶ大きく、虎か何かの獣の皮を身に纏っていて、その皮膚は丹で塗ったかのように赤く光沢がある。そして何よりも、前頭部から上に向かって屹立する、二本の角。


「あか……おに……??」


 それは、あらゆる民話に登場する、赤鬼そのものだった。

 伝説上のそれとは異なり、だいぶ細身で若そうに見えるが。

 しかもよく見ると、その赤鬼は体のあちこちを、先ほど会敵した犬のような生き物に噛みつかれており、食いつかれたままぶら下げたり引きずったりしながらこちらに歩いてきている。血もしっかりと流れているが、痛くはないのだろうか。

 やがて赤鬼は光圀たちに気付いたようで、鷹揚に手をふった。


「なんじゃ? 同族の匂いがしたと思ったんじゃが。お前たち……何者だ?」


 いや、こっちのセリフだ、という言葉を、八兵衛は必死に飲み込んだ。


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