第五話「命を守りながら命を奪う矛盾を、命に優劣をつける傲慢を」

※※※


 岸壁に不規則に刻まれた目印を目ざとく見つけながら、二人は忍び里へと近づいていた。忍軍が壊滅したと思しき時から三年は経過しているため、八兵衛の記憶から様子が変わっている箇所も少なくなかったが、目印になる岩は幸いにして、崩れたりしていることはなかった。しかし。


「はちべえ、ずっと怖い顔してるけど、どうしたの?」

「いや……」


 川沿いに進む。支流に突き当たるたびに進行方向を変えていくと、鬱蒼とした山道に入っていく。時に支流は一跨ぎするまでもないほどの小川になり見失いそうになるが、それでも目印に沿って歩く。道は合っている。間違いなく。

 だが、八兵衛は奇妙な感覚に陥っていた。分け入っていくほどに強くなる違和感。

 その時、光圀が近くの枝から何かの実をもいで見せてきた。


「はちべえ、この実って食べられるかな」

「ん? ……ああ、それなら大丈夫だ。訓練の時、非常食にこっそり採ってた……」


 正体がわかった。

 

「はちべえ?」


 この季節に、この実が生っているわけがない。

 思い返せば、進んでいくごとに、生えている植物の様相がめちゃくちゃだったのだ。紅葉しているはずのない葉が赤く染まり、生っているはずのない実が生り、繁茂しているはずのない草がそこらじゅうに生えている。これは一体。

 八兵衛の背筋を悪寒が走った、その時。

 どこからか、人の悲鳴が聞こえた。

 こんな場所で?

 光圀が不安げな視線を向けてくる。八兵衛が頷くと、光圀も頷いた。

 手近な木の幹を二回小刀で斬りつけ目印をつけると、二人は声のした方へ走り出した。

 木々をかき分け進むと、人の粗い息遣いが近くなる。女性の泣き声に聞こえた。

 

「光圀、俺が先に行く。見つけたら声を出すから、それを頼りに来てくれ」

「う、うん!」


 八兵衛は走る速度を上げる。不規則に茂る枝をかわしながらになるため全速力ではないが、それでも常人にとっては目にも映らないほどの高速移動。声の主を探す。この一帯に人がいることは極めて珍しいから、近くにまで行けば見つけることは難しくない。近くの背の高い木の上に登り、辺りを見渡す。

 程なく、見つけた。

 動物の皮を加工して作ったと思しき独特の装束を纏った男女と、子供だった。おそらくは家族。見ると、男性が太ももの辺りから出血しているようだ。


「大丈夫か!」


 八兵衛は樹上から、光圀にも聞こえるような音量で声をかける。山奥で不意に大声で話しかけられ家族はびくりと身を震わせたが、小柄な少年からは威圧感も感じられなかったのか、緊張が少しだけ解けたような表情に変わった。


「怪我をしてるな。手当の道具とか、持ってないのか」


 木から降りて話しかけるが、女性は申し訳なさそうに首を横に振る。言葉は通じているようだ。八兵衛は腰帯に取り付けた薬箱から膏薬を取り出すと、瓶ごと女性に手渡す。飲み水を入れた容器も目の前に置いた。


「薬だ。この水で傷口を流して塗るといい。包帯は生憎持ってないから、あんたらの手持ちで何とかしてくれ」

「あ、あり……がとう」


 話を聞くところによると、この家族は村や町に定住せず、山を移動しながら暮らす〈山の民〉の一家らしい。元は複数の家族がまとまって、ちょっとした旅団のような規模で生活していたそうだが、子供が体調を崩したため療養のために一時的に別行動をしていたそうだった。この辺りで取れる薬草を探していたが、なぜだか、把握していた植生と全く違う状況になっていたため困り果てていたと言うことらしい。

 見たところ、確かに子供の顔色はあまり良くないが、それ以上に、両親である男女が怯え切った表情をしていることに八兵衛は違和感を覚えた。


「事情はわかった。でも、この怪我はどうしたんだ? どこかで引っ掛けたか?」


 質問した途端、両親が目に見えて怯え始めた。尋常な様子ではない。


「に、逃げてきたんだ。あいつから……! あんな生き物、見たことがない……!」

「あいつ……?」


 眉をひそめる。が、男女が目に涙を浮かべながら、八兵衛の背後を指差した。

 弾かれたように振り返る。そこには。


「……なんだ、こいつは」


 それは、何かを探すように山道を歩いていた。その佇まいは、大きな猿に似ていた。しかし、人間と同じほどのサイズで、手には木の枝を乱雑に削って作ったと思しき、棍棒のようなものを持っている。こんな野生動物は、いるはずがない。

 それは辺りをきょろきょろと見渡していたが、八兵衛たちの姿を認めると、悪意に満ちたような笑顔を作った。

 逃げろ、と声をかけようとしたが、父親は足に怪我をしていて動けない。置いて逃げれば、〈あれ〉に間違いなく殺される。くそ、と口中に呟き、八兵衛は〈それ〉に向かって走った。全速力。空気の壁をすり抜け、野犬のような野生動物の反射神経すら凌駕する、尋常を超えた速度。正体不明の〈それ〉も、八兵衛を捉えていない様子だった。腰帯に差した小刀を逆手に構えると、〈それ〉の背後に回り込み、頚椎を目掛けて切りつける。

 しかし。

 刃が通らない。接触した瞬間の感触でそれを理解した八兵衛は、攻撃を打撃に切り替える。超常の速度による運動エネルギーの乗った蹴りを延髄に叩き込むが、それも、あまりに分厚い弾力性の何かに鉄球を打ち込むかのように、衝撃が吸収されダメージにならない。

 着地し、距離を取り、再び構える。〈それ〉は八兵衛を不思議そうに見ていたが、すぐに興味を失ったように視線を逸らし、


「やめろ……!」


 八兵衛の奥で固まる家族を見ると、再び醜悪な笑みを浮かべた。

 それが一歩進むごとに起こる恐怖の反応。家族の悲鳴を堪能するように、意図的にゆっくりと歩を進める。悪意がにじりよる。

 再び速度を上げて高速で攻撃を仕掛ける。足の筋を狙う。しかし、同じように攻撃が通らない。〈それ〉は当初、八兵衛を警戒していたようであったが、八兵衛の攻撃が脅威にならないことを学んだらしく、やがて八兵衛の挙動を無視するようになった。

 失敗した。八兵衛は歯噛みする。多少無理をしてでも、全速力でこの家族を一人ずつ遠くに運んで逃がせばよかったのだ。よもや、八兵衛の速度を使った攻撃が通用しない獣がいるとは想定外であった。

 今からでも一人ずつ運ぶか。短距離ずつ運べばなんとかなるか。いや、いくらなんでも敵と家族との距離が近すぎる。全員は助けられない。眼や口の中などの脆そうな箇所を狙えば時間稼ぎになるか? いや、しかし。

 逡巡している間に、それと家族の距離はどんどんと縮まっていく。

 やめろ。こっちを向け。

 八兵衛はその獣に向かって何度も叫んだが、意に介さない。

 人の域を超えた速度で動けたところで、自分の矮躯では、それを生かす攻撃をすることができない。どこかで感じたような無力感が頭を支配していく。

 だめだ。俺では助けられない。

 誰か。

 考えるよりも、〈誰か〉を思い浮かべるよりも早く、八兵衛はその名を叫んだ。


「光圀ーーっ!!!!」


 その時。


「印籠……ぱあああああんち!!!!」


 彼女は現れた。

 拳の周りに展開した漆黒の鎧から銀色の炎がほとばしり、その巨躯を風のような速さで推進させる。圧倒的な運動エネルギーが載った拳が、その獣の顔面に叩き込まれた。木々を薙ぎ倒しながら吹き飛ぶ。四本の幹を砕きながらぶっ飛び、五本目の幹に体をめり込ませたところで止まる。ぴくぴくと痙攣した後、それは動かなくなった。

 八兵衛は声をかけようとして思いとどまった。光圀は自分の拳を見つめて佇んでいる。


「はちべえ、わたし……」


 何かを言いかけた時、光圀の羽織の裾が誰かに引かれた。助けた家族の子供だった。その子はおずおずと何かを手渡した。動物の革をなめして作られた手袋だった。


「これ、わたしに……?」


 子供は恥ずかしそうに母親の陰に隠れてしまった。母親は子供を抱き抱えると光圀の前に無理矢理立たせた。


「それ、この子が作ったんだよ。あたしたちは山で手に入れた色んなものを使って、自分たちの使うものや、町に出て売るためのものを作る。その手袋は、この子が初めて作った売りものだ。もちろん、お代なんかいらないよ。お嬢ちゃんに持ってて欲しいってさ」


 光圀は手を着物の裾で拭くと、手袋をはめてみた。大きめに作られたそれは、光圀にはぴったりのサイズだった。何度か拳を握っては開く。作られたばかりの革はまだ少し堅いが、良く馴染みそうな気がした。


「お姉ちゃん、ありがとう……」


 子供が伏し目がちに呟いた。

 その時、光圀の脳裏に、何かの光景が次々と浮かんだ。

 フラッシュバック。

 お姉ちゃん。家族。きょうだい。姉妹。夏の暑い日。みんながいる道場。

 そんな風景の詰まった記憶の泡が、頭の中で次々と弾ける。一つ弾けるたびに、光圀の中で何かが次々と像を結んでいった。

 他の生命を消費し、自分たちが生きるために使うこと。目の前の誰かを助けるために、脅威となる別の生き物を排除すること。〈命を奪ってはならない〉を絶対の教義とするなら、その行為は矛盾する。しかし、その矛盾を検討し受け入れて行動することこそが。

 ああ、わたしは、生命と向き合うことを怖がってたんだ。命を守りながら命を奪う矛盾を、命に優劣をつける傲慢を受け入れることを、拒絶していた。

 自分が存在しているだけで、誰かを傷つけてしまうと思っていた。だから、誰の命も脅かさないように、消えてしまえばいいと思っていた。でも、それはただの逃げだ。できることがあるなら、誰かを助けられる力があるなら、せめてそれを、自分がやるべきだと思ったことのために使う。わたしにだって、できることはある。そんなことを、思い出す。

 

 光圀は首を横に振ると、微笑んだ。


「ううん、お礼を言うのはわたしの方だよ。ありがとう」

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