第四話「お前は、化け物なんかじゃない」
※※※
寝返りを打った時、全身を這い回る痛みで目を覚ました。身体中の筋肉の軋みに耐えかねて、八兵衛は声を漏らす。
いつから寝ていた。どれだけ眠っていた。
野犬に襲われて、やぶれかぶれで力を振り絞ったことまでは覚えている。
辛うじて動く首から上を振って辺りを見回す。火は無い。頭すら出していない朝日で青緑にうっすらと浮かぶ景色は、ごちゃごちゃと乱雑な有様だった。
焚き木のつもりであろう不揃いな小枝は散らばったまま、火をつけようとしたのか、あたりには砕けた小石が散乱している。光圀がやろうとしたのか。
光圀。
はっと思い至り、あたりに光圀の姿を探す。
俺は野犬を撃退したのか。今こうやって寝ていたということは撃退したのだろうが、その後どうなったのだ。光圀はどこだ。
思考が焦り始めたとき、八兵衛の頬に何かの雫が垂れた。
雨か。いや、雨にしては生暖かい。頭上に視線をむけると、その発生源が明らかになった。
「……おい……」
光圀は、自分の膝を八兵衛の枕にして、座ったままの姿勢で眠りこけていた。そして、八兵衛の頬に垂れる液体は、その口から滴り落ちる涎だった。
痛みに耐えながら右手でそれを拭おうとした時、自分の二の腕に布が巻かれているのに気づいた。昨夜、枝で切った時の傷を覆うように、紫色の何かの端切れが巻き付けられている。しかし、それは結び目もちゃんと作られておらず、八兵衛が腕を動かしただけではらりと落ちた。落ちたそれを見つめているうち、八兵衛は何かに気づき、光圀の腕を見た。
ここまでの過酷な旅で、光圀の着ていた旅装束は随分と汚れ、ほつれてしまっていた。特に損傷が激しいのは、紫色の羽織であった。その袖のあたりは、無理に手で破ったように千切れ裂けていた。
八兵衛は手を伸ばし、落ちた紫色の端切れを拾った。
「お前は、化け物なんかじゃない……」
それを握りしめたまま、八兵衛は再び眠りについた。
※※※
その後、二人の道中は極めて順調だった。
大きな要因は、食料の確保に成功したことだった。野犬を撃退した翌朝、近くに流れる川を発見した。水も綺麗で、そこにはたくさんの川魚が泳いでいたのだ。八兵衛の速度を持ってすれば何匹魚が泳いでいようが、それは生まれたばかりの子猫を摘み上げるに等しいことではあったが、
「はちべえ、わたし、気づいちゃったかも」
浅い川の真ん中に立って光圀が言う。
「何が?」
「あのね、わたしの〈印籠ぱんち〉をね、こうやって……」
足元に叩きつける。
紫の電光があたり一面を奔り、周囲に水柱が上がる。巻き上げられた川の水で、光圀はずぶ濡れになった。
「うわあっ! やっちゃった……失敗かな」
光圀はしょんぼりした様子で顔を拭ったが、八兵衛の口元は自然と笑っていた。
「いや、そんなことねえよ。大成功だ」
「え?」
ぼとぼとぼとと、空から夥しい数の魚が降ってきた。〈印籠ぱんち〉の衝撃で、水と共に空高く舞い上がったものが落ちてきたのだ。
八兵衛は頭巾を取って広げ、そこに魚を次々放り込んでいる。光圀も一瞬安堵した表情を浮かべたが、それはすぐに引き締まったものになる。そして、八兵衛もそれに気づいた。
「光圀」
「……?」
「ちゃんと、全部いただこうな。無駄にしないように」
光圀は少しだけ驚いたように目を丸くしたが、やがて安心したように微笑み、頷いた。八兵衛はしばらく魚が降ってきた空を見ていたが、その時、あることに気づいた。岩壁に、見覚えのある傷がある。一見、天然の岩石に入ったひびのようにしか見えないが、その一帯にだけ、辺りの同じような岩にはない、独特の色の苔がむしていた。
あれは。
八兵衛は思い出した。〈待宵草忍軍〉の里を見つけ出すための目印を。複雑に入り組んだ川の支流を、暗号めいた順序で辿り、里に至るための道筋を表す秘密の印。
順調に進んだ二人の道中は、もう間もなく終着地に辿り着こうとしていた。
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