第三話「守れるって、思いたいんだもん」

※※※


「はちべえ! そっち行ったよ!」

「わかってる!」


 光圀の合図で、八兵衛は走路を鋭角に変える。逃げ惑う一頭の鹿を追う。野生の草食動物の敏捷さは、常人には追いつけるはずもないものであったが、〈最速〉の異能忍者である八兵衛の速度とは、比べるまでもない。木々の間を縫って進み、光圀が追って走らせた、その方向に先回り。獲物が八兵衛の姿に気付き怯むよりも早く、小刀で仕留める。そうやってこの一週間、何とか食い繋いできた。

 しかし。

 首に突き立てようとしたその瞬間、小刀が手から落ちた。視界がくらみ、八兵衛は腐葉土の地面に倒れ伏した。鹿の足音が遠ざかっていく。


「はちべえ! だいじょうぶ……?」


 八兵衛は何とか体を転がし仰向けになり、顔についた土を拭った。


「はあ……はあ……すまん……また逃した……」

「ううん。仕方ないよ。それより、ほんとに、だいじょうぶなの……?」


 八兵衛の体は限界が近づいていた。〈最速〉の異能に目覚めてから身体が過剰な代謝をするようになって以来、頻繁に訪れる空腹を、その能力を活かして何とか満たしてきた。しかし、八兵衛と同等、あるいはそれ以上にエネルギーを必要とする光圀と二人連れともなると、狩りをしながら進むのは非常に難しくなる。

 今までのおよそ半分以下の摂取カロリーで、人里のない山道を進むことは、あまりに過酷であった。八兵衛を心配する光圀自身の顔にも、疲労の色が濃い。


「……ああ、でも、そろそろ限界だな……。ここらでいったん野営して、態勢を整えよう」

「う、うん。何したらいいか、教えて」


 力仕事を任せよう、と思い、仰向けのまま光圀を見る。すると、右腕に大きな切り傷ができていることに気づく。夥しい量の血が、ぼたぼたと滴っていた。


「お、おい……! それ、大丈夫なのか」

「え、あ、ほんとだ。さっき、枝か何かで切っちゃったのかな」

「手当……しないと」

「……平気だよ。すぐ、治るから」


 表面の血を拭うと、下腕部にまっすぐ走っていた傷が、みるみる小さくなっていくのが見えた。


「……ね?」


 何か言おうとしたが、その異常な回復力は、きっと光圀にとって、今や喜ばしいことではないのだろうと思い至る。


 その後、八兵衛は光圀に枝を集めさせ、火を起こした。近くに成っていた食べられそうな果実や木の実を可能な限り集めたが、二人の腹を満たすには到底足りなかった。しかし、二、三日ここから動かずに体をある程度回復させたら、今度は獣を狩りに出る。そうして、消耗し切った肉体を癒す算段だった。

 向かい合わせで火を見つめながら、二人は眠りに落ちた。


 その夜。

 がさ、と落ち葉を何かが踏む音で目が覚めた。

 山の中、何かの足音は珍しくもないが、音のする方向から察するに、八兵衛達は今、何かに囲まれている。光圀を起こそうと上体を起こした時、あたりに潜むものの正体がわかった。

 光る目、唸り声。

 野犬の群れだった。昼間、光圀が流した血の匂いに引かれてきたのか。慎重に距離をとりながら、こちらの隙を窺っているように感じられた。

 八兵衛は震え上がる。

 全くの闇の中、わずかな星あかりを頼りに野生動物と組み合うのは得策ではない。が、二人の体力はここから逃走するほどには残っていない。ならば。


「な、何とか、撃退するしかないのか……」


 辺りに警戒しつつ、光圀の肩を叩く。慌てて飛び起き、事態を何となく察すると、躊躇いながら拳を構えた。


「ど、どうするの……? 火を起こしたら、怖がって帰ってくれるかな」

「いや、動物は松明くらいの火じゃびびってくれない。何匹か仕留めて、逃げてもらうしかない」


 八兵衛が小刀を逆手に構えるのを見て、光圀の顔が曇った。八兵衛もそれに気づく。


「……やるしかないぞ」


 光圀は躊躇いがちに頷く。と、それを合図にしたかのように、野犬の群れが踊りかかってきた。素早いが、八兵衛の全速力には到底及ばない。飛びかかる犬の下を超速度で潜り、腹目掛けて蹴りを叩き込む。途端、八兵衛の足から力が抜けた。姿勢を崩した拍子に、上腕を突き出た枝で切った。痛みの感覚すら鈍い。体力がほとんど回復していないのだ。危機感に己を奮い立たせ、なけなしの力を振り絞って足を動かす。あたりの野犬の首や腹などの急所を狙って蹴りつける。三匹程度なら、今のコンディションでも一度に相手ができるようだ。

 しかし、群れの数はそれどころではない。力がぬけ、着地した際に一瞬の隙。それを見逃さず、全周囲から野犬が迫った。足も動かない。逃げられない。

 咬み傷や切り傷は覚悟したが、瞬間、八兵衛に何かが覆い被さった。


「光圀……!」


 光圀が八兵衛を後ろから抱きしめ、盾となる。野犬たちは構わず、光圀に対して爪と牙を振るった。光圀は口を開かず、くぐもった悲鳴をあげる。服が裂け、その下の白い肌に次々と赤い条線が走る。しかし、光圀は八兵衛を固く抱き締め、離さなかった。


「光圀やめろ! 離してくれ! 何とかするから!」

「やだ! わたし、これくらいしかできないもん! からだ、丈夫だから、すぐ治るから、大丈夫だから!」

「そういう話じゃないだろ!」

「八兵衛のこと、守りたいんだもん……! 守れるって、思いたいんだもん……!」


 守る。

 その言葉を聞いた時、八兵衛の脳の奥がびり、と痺れた。

 光圀が流した血が八兵衛の髪に滴り、眼窩を伝って涙のように跡を引く。

 また、守られている。俺を守るために、誰かが血を流している。

 あの時と同じだ。

 ナナ姉が命を賭けて俺を逃してくれた時と、同じだ。

 また、俺のために、誰かが傷ついている。

 そんなのは、もう嫌だ。


「……!!!!」


 自分の体力が底をついているのを、直感的に感じる。しかし、その底をぶち抜き、奥に眠っている何かを、無理やり引き摺り出す。

 八兵衛の足が、再び動き出した。人智を超えた速度、まごうことなき〈最速〉。光圀の腕をすり抜けた時、飛びかかる野犬共は全て停まって見えた。一匹一匹の腹や首に、渾身の蹴りを突き刺す。最後の一匹の顎を真下から蹴り上げ、その勢いのまま空中で一回転すると、着地。その途端に、野犬たちは次々と吹き飛び、倒れ伏した。

 その様子を認めた瞬間、八兵衛の疲労は今度こそ許容量を完全に超えた。

 仰向けに倒れ込むと、まもなく意識を失った。

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