第二話「何も知らないより、ずっといい」

※※※


 八兵衛は〈最速〉の異能を持つ忍者である。

 〈歪みの日〉、目の前で命の危機に瀕した恩人を見捨てて逃げ出した時に開花した、忌まわしき能力。その日八兵衛の身体に起きた変化は、移動速度だけではなかった。代謝の異常発達。人外の速度を出すには、人並みの心肺機能ではスペックが足りない。通常ではあり得ないペースで駆動する筋肉を支えるために心肺機能が向上した結果、常に八兵衛の肉体は大量のエネルギーの摂取を必要とすることになってしまった。

 つまり、有り体に言うと、とんでもなく腹が減る。

 加えて、速度を出すために身体を軽量化するように幼少から訓練された結果、同年代には見えないほどの矮躯のまま成長したため、身体自体にエネルギーを溜めておける量が極めて少なく、すぐ枯渇する。八兵衛が見た目の割に大喰らいなのは、それが原因であった。

 光圀たちと別れ出奔したはいいものの、頻繁に動植物を食べてエネルギーを補給しないと、すぐに動けなくなってしまう。そのため、方々を歩いては木の実や小動物を採取しながら、食料を確保しながら出ないと進めない。誰よりも速く走れる八兵衛の道行は、存外スローペースなのであった。


 そんな中、おあつらえ向きに、森の中を走る猪を見つけた。尋常でない大きさだから、仕留めた後に干したりして携行すれば、かなりの距離は食べ物の確保に困らされることはない。

 そう思っていたが。

 仕留めた獲物の鼻先にいたのは、予想だにしない人物なのであった。


「お前、光圀か……? 」


 怪我こそなさそうなものの、衣服はぼろぼろ、絹のようだった白髪は土や脂に汚れ、正気のない瞳でぼんやりとこちらを見ている。過剰なほどに溌剌としていた巨大な少女は、見る影もない。ましてや、数日前に牛火村で暴れ回った魔物と同じ存在だとは、到底思えなかった。そして、何よりも。


「独りなのか? ……あの二人はどうしたんだよ」


 そう八兵衛が問うと、光圀はその場に膝をついて涙を流し始めた。

 流石にギョッとして、警戒しつつも猪の腹から飛び降り、光圀と少し距離を詰めた。


「もう……助さんとも格さんとも、一緒にはいられないよ……だって……」


 問いただしたかった。

 お前が俺の仲間を、ナナ姉を殺したのか、と。

 しかし、それを問うたところで意味がないのだろうということも容易に予想がついた。こんなに弱って、混乱した、身体が大きいだけのただの少女を責めて詰ってみたところで、何にもならない。こいつは本当に何も知らないんだ。

 八兵衛はため息をつくと、腰に下げた袋から、昨日採っておいた拳大の果実を差し出した。


「……今からこの猪を捌く。時間かかるから、それまで、これでも食っとけよ」


 光圀はぼんやりとそれを受け取ると、口に近づけた。

 次の瞬間、もうその果実は外の皮を残して消え失せていた。完食。


「……なるべく早く捌く」


 八兵衛はため息をついた。


 数時間後。


 一通り今晩の分の肉を食べ終わったころには、光圀は満腹と少しばかりの安心感からか、巨木に背をもたれさせ眠りに落ちていた。今夜の分として切り分けた肉は光圀のせいで当初の分量では全く足りず、想定よりもはるかに多く消費してしまった。

 八兵衛は足で焚き火を消そうとした。土をかけてなお燻る火を、二度、三度と踏みつける。しかし、上手くいかない。

 八兵衛は混乱していた。

 食事の最中に光圀から聞いたことが原因なのは明らかだった。

 〈天帝計画〉のこと、〈光圀〉のこと。光圀も又聞きの状態だったようだから、要領を得ない箇所もいくつかあったが、概ね理解した。

 光圀は、旧幕府の計画によって生み出された、人造の存在。人外の組織を移植され、幕府の傀儡となるべく、世を幕府の意のままに統治する装置として培養された、人として生きることを望まれてすらいない、禁忌の生命。

 だが。


「あの日、あそこにいたのは、本当にお前なのか……?」


 無防備に眠る顔を見ながら、問う。

 鬼の脊髄を移植されたために、暴走すると身体が鬼へと変じてしまうような不安定な存在なのであれば、あの日八兵衛が見た〈鬼〉もまた、〈光圀〉である可能性は高い。しかし。

 〈光圀〉を名乗る少女がもう一人存在していた。同じような存在なのであれば、あの日、〈歪みの日〉に待宵草忍軍を壊滅させたのは、〈月世光圀〉であった可能性もあるのではないか。この、目の前で眠り転けている〈光圀〉は、本当は仇ではないのではないか。そんな仮説が頭をよぎる。


「……わかんない。でも、きっと、そうなんだよ」

「! ごめん、起きてたのか……」


  薄目を開ける光圀は、悲しそうに眉を歪めた。


「何も思い出せないけど……でも、あの村でわたしが取り返しのつかないことをしたことはほんとうだよ。だから、きっと、はちべえの仲間の人たちに酷いことしたのも……」

「……俺は、正直わからない。村にいた〈烈火光圀〉も、〈月世〉って奴も、お前と同じ〈光圀〉なんだろ。なら、お前じゃないかもしれないじゃないか」

「そういうわけには、いかないよ。だって」

「俺は、納得したいんだよ。俺は、ナナ姉を殺したあの〈鬼〉を許さない。でも、本当の仇じゃないかもしれない奴に責任を押し付けるなんてことは、できない」

「……」

「だから、ごめん。あの夜、俺、お前に酷いこと言った。お前だって、苦しんでたのに」


 光圀は何かを言いかけたが、それを飲み込み、俯いた。


「……〈天帝計画〉って言葉、ちょっとだけ聞き覚えがあるんだ。俺がいた忍び里で、耳にした覚えがある。だから、俺は今、忍び里に向かってるんだ。って言っても、もう壊滅してるから、建物とか手がかりが残ってるかもわからないけど。そこに行けば、天帝計画のことが、何かわかるかもしれない」

「……わたしも、ついていって、いい?」


 おずおずと問う光圀に、八兵衛は目を丸くした。


「〈天帝計画〉のことを調べるってことは、わたしのことも何かわかるかもしれないってことでしょ? わたしも……わたしのこと、知りたい。知らなきゃいけないって、思う」

「……知ったら、もっと辛い思いをするかも知れないんだぞ」


 光圀は首を振り、悲しそうに笑った。


「それでも、いいよ。何も知らないより、ずっといい」

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