第三章「人と人ならざるものと」

第一話「わたしの身体も砕いてくれる?」

※※※


 太陽の光が、じりじりと首筋を炙る。小声では会話も聞こえないほどの蝉の鳴き声の中、息を弾ませていた。

 炎天下の中さんざん走り回ったから、頭がくらくらする。

 ひさしの下に入ると、目が慣れず、道場の中は真っ暗に見えた。目が慣れてくると、道場の奥の方から、〈きょうだい〉たちが笑顔で手招きをしているのが見えた。果物が盥の中で冷やされている。こんなに暑いのに、果物は余っているように見えた。

 ああ、そうか。〈きょうだい〉の人数が減っちゃったからか。

 招かれるままに氷水の張られた盥に手を突っ込むと、みかんを一つ取り出し、皮を剥いて頬張った。だいぶ酸っぱかったが、冷たさが目の裏側にまで伝わってくる。その様子が可笑しかったのか、〈きょうだい〉たちは笑い出した。笑い声は、道場に響き渡った。


 そこで、目が覚めた。

 

 夢の中に出てきた景色には、覚えがない。でも、これは忘れてしまった記憶なのかも知れない。思い出そうとしても端から霧散していく夢の光景を追いかけるように視線を空に向ける。灰色の空に、白い朝日が乱反射している。

 もう、何回目だろう。一人で朝日を見るのは。

 朝日が昇っても、その光は立ち込める霧に拡散して、冷ややかな灰色の景色を作っていた。

 森は鬱蒼としていて、そこかしこに尖った枝や葉が突き出ている。あちこちに切り傷を作ったが、それらは1分もすれば跡形もなく治っていた。傷ができるたびに治っていく様をぼんやりと眺めながら、光圀は項垂れた。

 わたしは人より背が高い。わたしは人より丈夫で、人より沢山食べる。異常なほどに。

 それもこれも、みんな、わたしが化け物だったからだ。

 そんな言葉が、昨夜から、何度も何度も脳裏を駆け巡る。

 牛火村で自分が取り返しのつかないことをしてしまったという罪悪感と、この先化け物である自分が何をしたところで、償いや謝罪すらできないという絶望感。それらが胸を擦り潰す。大きな両手で顔を覆い、その場にずるずると座り込んだ。もう、涙も出ない。

 大きなため息が肺から搾り出されるのと同時に、腹がそれ以上に大きな音を立てた。

 こんな時でも、お腹が空くなんて、本当に、どうしようもない。

 ここに来るまでに見かけた木は枯れ木ばかりで、果実や木の実も見当たらなかった。このまま飢え死にできるなら、それもいいかもしれない、と思った時、霧の奥から何かが枝を踏み折る音がした。

 顔を覆った両手を少し滑らせて、目だけを覗かせる。霧の向こうに、大きな影が見える。

 助さん、格さんが追ってきたのだろうか。いや、そんなわけはない。二人は眠っていたから、わたしがどっちに歩いてきたかなんてわかるわけがない。

 それに、もう、二人とはいられない。

 足音は近づいてくる。その主は人間ではあり得ない。見上げんばかりの高さの影が眼前に迫る。

 霧をぬけ、姿を現したそれは、あまりにも巨大な猪だった。黒黒とした硬そうな体毛に覆われた、岩石のような威容。歴戦を潜り抜けてきたのであろう、鼻先には沢山の傷跡と、ひしゃげたような跡がある。

 ちょうど、光圀の拳くらいの大きさの。


「……ひょっとして、あなた」


 火和と最初に会った時に現れた、大猪のように見えた。大きさも同じくらいの、見慣れていない動物を顔で判別することは光圀にはできなかったが、なるほど、今光圀が迷い込んだ森は、火和が狩りをしていたのと近い場所だったのかもしれない。

 猪は光圀の姿を認めたのか、怒りに満ちたように見える目で睨みつけ、明らかに鼻息が荒くなっている。

 大柄な光圀よりもさらに何倍も大きな巨獣。それと相対して、しかし光圀が感じていたのは恐怖ではなく、


 ぐうう。


 空腹感だった。光圀はそんな自分の生理現象にがっかりしつつ、拳を構えた。

 一度倒した相手のようだから、遅れをとることはない。うまくタイミングを合わせて前と同じく鼻つらに正拳を叩き込めれば、沈黙させることができる。そして、その後は、あたりの木々を使って火でも起こせれば。

 でも、そのために、命を奪うのか?

 思い至り、光圀の拳が下がった。

 これ以上、何かの命を奪う資格なんて、わたしにあるの?

 光圀は首を振る。それを何かの威嚇と判断したのか、大猪は速度を上げて突っ込んできた。悲鳴をあげて横に躱すと、背後にあった大きな木が粉々に砕けた。

 この力なら、わたしの身体も砕いてくれる?

 一瞬、そんな考えがよぎった。

 これなら、何かの償いになるだろうか。

 試してみようか。

 光圀は両腕をだらりと下げ、再び突進する猪の前に身を投げ出した。

 全速力の巨体が、光圀の胴体を叩き潰す。

 寸前に。


 大猪は横倒しになって、動かなくなった。


 光圀は何が起きたか分からず。あたりを見回す。

 霧が濃くなってよく見えない、倒れた大猪の脇腹の上あたりに、人影があった。

 小柄な、少年のような。

 霧が流れ、その姿が僅かに判別できるようになった。


「はち、べえ……?」 

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