断章・二

月の目覚めた日

※※※


 獣の断末魔のような、警報の不快な音と喧騒で彼女は目が覚めた。目が覚めるなり、身体中を這い回る痒みに眉を顰める。

 閉じ込められていた部屋の戸が開いている。

 ぼりぼりと身体中を掻きながら外へ出ると、大人たちが逃げ惑っていた。自分に痛いことや嫌な薬を打ち続けてきた施設の職員達だ。

 何事かとあたりを見回していると、樽のように太った禿頭の男に背中を蹴り付けられ、罵られた。部屋に戻れ、という意味の言葉を、最大限に汚い言葉遣いで投げつけてくる。

 何が〈部屋〉だ。あれは〈檻〉だろうに。

 どうやら、自分を残したまま逃げ出そうという腹のようだ。ため息をひとつつくと、床に落ちていた黒い小箱を手に取った。これのことは知っている。何度も何度も実験でもたされたから。厳重に保管されているもののはずだったが、この騒乱で何処かからまろび出たのだろう。

 それを持っているという意味を理解した禿頭の男は目に見えて青ざめ、あたりの職員たちを押し除けながら逃げようとした。小箱を握り、力を込める。漆塗のように見えるそれは粘土か生き物のように輪郭を歪ませると、大きな鎌に形を変えた。手始めにその男を、あたりの職員達とまとめて輪切りにする。その様に、あたりで大きな悲鳴が上がり、さらに騒がしくなったので、視線も向けずに、悲鳴のする方に鎌を二度、三度と振り抜く。やがて悲鳴は一つとして聞こえなくなり、警報の音だけになった。

 自分が囚われていた檻を外から見る。見るほどに小さく狭く、見窄らしい。見ると、隣にもさらに小さな檻が設けられていた。自分がいた隣の部屋には、前頭葉に何かの改造を受けたのか、額にずたずたの傷跡が残った小さな童女がいた。獣のように座り、唸り声をあげている。そして、その傍には、両目に無茶な手術をされたと思しき女が座っていた。目の周りがめちゃくちゃに切り刻まれ、くり抜かれ一つに繋がった眼窩には、眼球の代わりに何かの装置が詰め込まれている。

 自分と似たような境遇なのか、と、ほんの少しだけ親近感を覚えた。扉の鍵は警報のせいで開いていたようで、難なく開いた。

 二人に手を差し伸べ、連れ立って部屋を出た。


 廊下にはもう誰もいなかった。鳴り響く警報の音に混じって、どおん、と轟音が何度も響き、建物全体が揺れる。軋む。

 何かが起きている。ここはぼくたちと同じような境遇の子供がたくさん押し込められた実験施設のはず。つまり、実験中に何かが起きたのか。

 どのみち、ろくなものではない。早くこの場を出ようと、非常口へ向かった。


 道中、目のない女は〈透癒(すくゆ)〉と名乗った。曰く、身籠っていた状態で幕府にさらわれ、この研究施設で腹の子供ともども無茶な改造の実験台になったらしい。目は人間の眼球と同じようには見えないが、周りの様子はよくわかるそうだ。普通の肉眼では捉えられないような、霊的なものや現象をはっきりと見ることができるとのこと。

 童女の方は、反応速度や膂力を上げるために、無意識に出力に制限をかけている脳の一部分を切除されていた。その手術が失敗したのか元々織り込み済みの副作用なのか、口が聞けなくなっていた。透癒が言うには、この童女は〈嘉子(かこ)〉という名らしい。最も、この施設に来る前にそういう名前だったというだけで、今は自分の名前も覚えていないようであったが。


 三人は、非常口の扉を開けた。物心ついてから、初めて見る外の世界。

 鉛色の空。鑢のように乾いた風が吹き荒ぶ。そこには、夥しい量の何かの肉片が散らばっていた。透癒は死臭に眉を顰めたが、まあ、こんなものかとさして気にならなかった。血の匂いのする空気を肺に吸い込むと、大きく吐き出す。

 待ちに待った時が来た。ようやく始められるのだ。

 その時、白装束を着た男たちが行手を阻んだ。

 見慣れない格好。内部のものではない。ああ、こいつらが襲撃してきたから、施設がこんなに騒がしかったのか、と得心がいった。

 男たちは、いたぞ、こいつか、生け捕りにしろ、などと小声で話し合っている。なぜだか、無性に腹が立った。


「お前たちごときが、ぼくをどうにかできると思ってるのか?」


 瞬時に小箱は鎌に変わり、変形の際の勢いだけで目の前の男たちは瞬く間に輪切りになった。動かなくなった身体を見下ろしているうちに、内なる何かが首筋で囁く。

 そうだ、どこに行ってもぼくは加害される。

 自分に加害し続ける世界に、ツケを支払わせる。

 自分に被害を与える存在を排除し、平穏に暮らせる世の中を作る。

 それが、ぼくの世直しだ。


「さあ、行こうか」


 三人は歩き出した。行き先はどこでもよかった。


 彼女たちがこの場を離れた直後、施設は謎の光に包まれることになる。

 あの〈歪みの日〉。

 穢土城の傍に建造された幕府の実験施設が一瞬にして崩壊し、城をも飲み込み、異形の禁足地へ変えてしまったあの日。

 彼女自身もまた、その時初めて外の世界を知った。


 検討の結果、検体名として付けられていた施設での名前を名乗ることに決めた。

 施設の連中は反吐が出るほど嫌いだったが、名付けのセンスだけは嫌いではなかった。この国の神話に登場する、夜の神にちなんだ名前。月の光を持って、この世と国を照らす。


〈月世光圀〉と、彼女は名乗った。


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