第十話「あなたが、お嬢を止めてください」
※※※
光圀の苦悶の悲鳴が響く。その声は、次第に獣じみたものに変じていった。
髪飾りのあった場所には、めきめきと音を立てながら鋭利な角が伸びる。
端正な顔立ちは禍々しく変形し、樹木の成長を早送りで見るかのように、手足が歪み伸び四つ足となり、銀髪がさらに伸びていく。右腕を覆っていた印籠が変じた鎧は内側から砕け、粉微塵となった。
その威容に、誰もが獅子のような、麒麟のような、伝説にある神獣を連想したが、それ以上に禍々しい気を纏った姿は、〈鬼〉としか呼びようがなかった。
その場にいた誰もが、〈それ〉に目を奪われていた。
斧の童女は慄き後退りし、烏帽子の女は倒れたまま顔だけを向けている。
格さんは眉をよせ、冷たい視線を飛ばし、
「あれは……!」
八兵衛は目を見開き、凝視していた。
〈それ〉は鋭い爪を備え、長く伸びた腕を地面に叩きつけると、上体を反らし、吠えた。空間そのものを震わす音量に、さしもの月世光圀も表情を引き攣らせた。
「は、はは……なんだい、その姿。失敗作特有の発作か何かかい。化け物は化け物らしく……退治されてくれよ!」
切り掛かると、まっすぐな赤い切り傷がつく。傷からは人間と変わらない、赤い血液が噴き出した。それを見た月世は安心したように笑うと、大鎌を振り回しながら何度も切りつけた。
「きみがなんだか知らないが、血が出るってことは、切り続ければ死ぬってことだよねえ! 助さん、格さん、来い! お前達もこの化け物をぶっ殺しに来るんだよ!」
月世の号令に、斧の童女は格さんから狙いを外し、怪物と化した光圀のもとへ走る。が、烏帽子の女は手首を落とされた痛みにうずくまり、動けない。その様を見た月世は舌打ちをした。
「使えないクソ女が。まあいい。格さん、お前の斧であの化け物の両手両足を落とせ。そのあとでぼくが首を刎ねる」
童女は雄叫びを上げながら再び光圀に向かって斬りかかっていった。光圀は右腕をあげて斧の刃を受け止める。わずかに鮮血が流れるが、切り傷は見る間に塞がっていく。童女は狼狽し、距離を取ろうと身じろぎするが、それより早く光圀の左手が伸び、童女の身体を掴んだ。
「……!!」
そのまま、乱暴に地面に叩きつける。技術も何もない、全くの原始的な攻撃。しかし、圧倒的な巨躯によって投げ捨てられた人体は、致命的なダメージを受ける。童女は小さな口から大量の血を吐き、地面にめり込んだまま動かなくなった。光圀は乱雑に伸びた銀髪の奥の胡乱な瞳を月世に向けた。
月世は怯んだ様子で辺りを見回すが、やがて何かに思い至り、大鎌を振り翳した。すると、村人達がふらふらと月世の方へ寄ってきた。
「行け。あの化け物の動きを止めろ」
月世の命令で、村人達が一斉に光圀に殺到した。が、光圀の前に助さんと格さんが立ちはだかる。
「やめろ、お前ら! 近づいたらケガじゃ済まねえぞ!」
「言葉は通じないようです」
「わかってんよ、仏頂面! ……こいつら、あの月世ってのに操られてんのか、やっぱり」
「十中八九。原理はわかりませんが」
「気絶させりゃあ、動きが止まるか?」
「……やってみればわかります」
「だな」
ふたりは村人達に向かって駆け出す。
助さんは峰打ちで、格さんは当て身で次々と村人達を攻撃する。
当たりどころによっては村人達はその場に崩れ落ち、動かなくなるようだった。が、よし、と安堵する暇はない。
村じゅうの人々が押し寄せる中、対するはたったふたり。手数が足りない。助さん・格さんの防御範囲を超えたもの達は月世の指令通りに、光圀に向かって飛びかかる。鬼神と化した光圀は、それを反射的に迎撃、村人達は次々と吹き飛ばされていく。格さんは歯噛みした。その背中を庇うように助さんが駆け寄る。
「くっそお、手が足りねえ!」
「やれることをやるしかありません……!」
再びふたりは反対方向に散り、村人達を気絶させにかかる。一人でも多くたたき伏せなければ、全員光圀に殺されてしまう。焦るが、全ての村人を相手にするのは不可能。一人、また一人と光圀の方へ走っていってしまう。
その中の一人は、見たところ5歳にも満たないくらいの子供だった。
そちらに手を取られれば、今目の前で相対している村人が死んでしまうかもしれない。が、格さんは彼女の元へ駆け寄ろうとするのを止められなかった。しかし、群がる村人達に押さえつけられ、身動きが取れなくなる。
「くそお、離せ、離せよ!!!」
光圀の瞳が子供を捉え、巨腕を振りかぶる。猛獣じみた爪に引き裂かれれば、まだ幼い少女の肉体は瞬時に粉々になるに違いない。この距離では、例え村人を振り解けたとて、格さんには間に合わない。
ちくしょう、そう口中につぶやいた時、子供の姿が消えた。
光圀の腕に吹き飛ばされた、のではない。
何者かに。
「……!?」
目にも止まらぬ速さで走る何者かに、その子は抱えられ、移動させられた。
すでに格さんから見える範囲にはおらず、代わりにそこにいたのは。
「おチビ……?」
纏った装束の端々を焦がしながら、光圀を睨む八兵衛だった。
眼光は鋭いが、その表情は恐怖に震えている。
格さんは混乱した。いつも修羅場からは一番に逃げ出す臆病者。それが八兵衛だったはずだ。誰よりも早く逃げ、気づけば遥か彼方で隠れて震えている。
早い逃げ足。
思えば、その速さはいつだって尋常ではなかった。
「おチビ、あんた今、何をしたんだ……?」
「あの子は眠らせて、俺達が泊まっていた屋敷まで運んでおいた。これで、しばらくは大丈夫……」
「屋敷って、あたしが走ったって1分はかかるぞ……?」
「俺は……それより速く走れる。それだけだ」
わけがわからない、という顔の格さんを尻目に、八兵衛の前に助さんが立った。
「事情は知りませんが、一刻を争います。あなたは、人智を超えた速さで動ける……そういうことですね」
「……」
「これを。……あなたが、お嬢を止めてください」
助さんは縋るように八兵衛を見つめ、懐から取り出した何かを八兵衛に持たせた。
光圀がつけていた髪飾りだった。
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