断章
歪みの日
乾いた風に、火薬と血の匂いが混じる。それは鑢のように眼球と鼻腔を乱暴に撫でていったが、〈七〉は視線も呼吸もわずかにも乱さず、真っ直ぐに目の前の敵を捉えていた。あたりに転がる同胞たちの骸には、一瞥もくれない。
眼前の敵ーー円盤状の、白い笠を目深に被った男が重々しく口を開いた。
「女、仲間のようになりたくなくば、そこを通せ。俺が用があるのは、その扉の奥だ」
〈七〉はため息をつくと、呆れたように笑って見せた。
「通すわけねえだろ。残業代は出ねえし、休みはねえし、同僚はクソ野郎ばっかりの最悪の仕事だけどよお、一応あたしも忍者の端くれ。承った仕事は最後までやんのが流儀なんだよ」
笠の男は首を僅かに下げた。笠と、口元を覆う襟巻きで表情が見えないが、どうやら少し笑ったようだった。
「……女、お前は自分が何を守っているのか、知っているのか?」
「どーーでもいいわ、そんなもん。あたしが言われてんのは、ここを誰も通すなってことだけだよ。まあ、流石に一人でやることになるとは思わなかったけど」
男は今度は、声をあげて笑う。表情が見えなくとも、それが嘲笑であることは明らかだった。
「雇い主の所業も知らずに命を賭けるか。お前たち忍者という生き物は、分からん」
「はは、まあ、そう言うなよ。今からたっぷり分からせてやる。そんでその後たっぷり詫びろ。ナメててすみませんでしたってな!」
瞬時に〈七〉は男の背後を取る。6メートルはあったと思われる距離が、瞬きをする間に消滅した。
逆手に持った苦無で、男の首筋を突く。が、男はそれを読んでいたかのように、振り向きもせず、左手に持った剣で防ぐ。
と見るや、〈七〉は弾かれたその勢いのまま体を回転させ、頭部に蹴りを放つ。
瞬間、男は上体を大きく反らせ、蹴りの軌道から逃れた。
「へえ、やるじゃん」
〈七〉がおどけて見せた途端、男の白い笠がぱっくりと裂け、片目が顕になった。
「案外イケメンじゃねえの。顔隠してたらもったいないぜ?」
男は僅かに口を引き攣らせ、両手に持った剣を交差させ、大きく振った。刀身から炎が上がる。
「火遁……? じゃねえな、これは」
男の怒りに引き攣った表情が炎に赤く照らされる。
「ヒノカグツチ、火天、祝融。炎の神の祭法をありったけ詰め込んだ呪式を施した。この術に焼けぬものはない」
「んだそりゃ。国内外の神様のご加護をごっちゃにしたってのか? 罰当たりな野郎だな」
「神の加護を暴き、人間のものとして制御する。それが我々の力だ」
「ご丁寧にどうも。まあ、当たんなきゃただの火遊びだけどな」
男が吠えた。咆哮と共に火球が出現。〈七〉めがけて大砲の弾のように襲いかかる。瞬時に迎撃態勢を取るが、相殺も弾くことも無理と見るや、横跳びに躱す。
火球は〈七〉の背後の門扉に直撃する。大きな爆発音が響き、鉄でできた分厚い扉を嘶かせたが、固く閉ざされた鍵には大したダメージは入らなかったように見える。〈七〉は安堵のため息をつく。
「あぶねえだろ。扉が壊れちゃったらどうするつもりなんだよ、お前」
「お喋りは終いだ。次は最大火力で術を放つ。その扉に向かってな。お前が避けようが喰らおうが、扉が破壊されるという結末に何の影響もない」
「ベラベラ喋ってねえで、最初からそうすりゃよかったじゃねえかよ。なーんで勿体つけやがった」
「……強いて言えば、お前ら忍者というものに興味があった、と言うところか」
確かに、先ほどの会話でも、忍者の性質と言うものに妙に言及していた。〈七〉は訝しげに眉を上げる。
「程なく、この世の全てが変わる。終わる。変わる世界から真っ先に消え去るのは、人殺しの研究に明け暮れ、幕府の使い走りで女子供も惨殺する、お前らのような存在だ。消えゆく存在を、この目に焼き付けておこうと思った」
「ひでえ言われようじゃねえか。職業差別かよ」
「だがそれも終わりだ。正直、拍子抜けだったよ。幕府の実験場という要所、そこを守るものは手練ばかりかと思ったが、ご覧の有り様だ」
男は芝居がかった挙動で両腕を広げてみせ、あたりを見回す。そこに転がるのは、〈七〉の同僚だったものたちだ。
「多少は予習してきたのだ。〈待宵草忍軍〉。どこからか拾ってきた子供達を幼少期から徹底的に強化・訓練し、里において〈最も秀でた才〉を究める者たち。殺せと言われれば女子供も構わず手に掛け、死ねと言われれば迷うことなく爆弾を抱えて敵陣で散る、無私の兵隊を作り上げる外法の集団。所属する忍者たちは、適正に応じて七段階の等級を与えられ……」
見回す視線は、〈七〉の顔でぴたりと止まる。そこには、明確な嘲りが込められていた。
「等級ごとに定められた色の装束を着させられる。その最下級は、赤だ。ちょうど今、お前が着ているような」
最下級。序列最下位、七位の〈七〉。〈待宵草忍軍〉が擁する忍者の中で、何の適性も満足に示せず、兵隊として失格の烙印を押されるに等しい存在。忍びでありながら、否応にも目立つ真紅の装束を着させられ、真っ先に見つかり切り捨てられる、捨て駒。
「先にくたばったお前の同胞らは、見るに一位から三位ばかり。お前とは次元の違う実力者たちだったようじゃないか。最後に残ったお前は、場違いの最下位。だから私は最初に〈そこを通せ〉と言ったのだよ。お前では、勝負にならないことがはじめからわかっていたからな! できれば相見えたかったよ、〈一〉位を遥かに凌ぐと言われる、伝説の忍び、〈最強〉の名をもつ〈無〉にな!」
男は興奮した様子で哄笑した。感情の高まりに呼応するかのように、両手に持った剣から炎が上がる。
「償いをしてもらおう! くだらぬ戯言で散々私をコケにしてくれたことと、忍者という消えゆく存在に微かに持っていた期待を、最悪の形で裏切ってくれたことに対して!」
双剣が纏う炎は大きく強くなる。あたりに転がった忍者たちの骸をぶすぶすと焦がす。二本の剣を頭上で交差させ、振り下ろした。
つもりだった。
「!?」
腕が下がらない。それどころか、剣を振り上げた体制から、身動きが取れない。
事態を把握しようと視線を巡らせる男を嘲るように、〈七〉の気だるげな声が響く。
「……あんまり話が長えからよー、準備が終わっちまったよ」
「……?」
〈七〉の手の上に、金属製の何かが見える。鋭角的な形状のようだが、よく見えない。それが高速で回転しているからだ。目を凝らすと、それはあるものに似ていることがわかる。
「風……車……?」
思考が冷えていくと、五感が正常さを取り戻していく。最初に違和感を覚えたのは、男の聴覚だった。
ぶううん、という、蜂の羽音のような耳障りな音。
音のする方に視線を飛ばすと、中空にそれが静止していた。
ぎらつく金属製の、風車。
しかも、無数の。
銀色の回転する風車が、男の周囲を取り囲むように浮游している。
「最初はよー、折紙だったんだよ」
脂汗を浮かべる男をよそに、〈七〉は気だるげに話し始めた。
「同期の奴らが、やれ剣術だ、手裏剣法だって人殺しの技術を磨いてる間によー、あたしはずーーっと工作してたんだ。折紙。何百何千って、日がな一日な。そうこうしてるうちに、手をどうやって動かせば、自分の思い通りの形が作れるか、ってことがどんどん分かってきた。あたしはめんどくさがりだから、作りたかったんだ」
男の腕に激痛が走り、苦悶の表情を浮かべる。手首が何かに締め付けられている。
「〈あたしが何にもしなくても、敵をぶっ殺してくれる道具〉をな」
ぶつん、という音をたて、男の両手首が地面に落ちた。飛び散る鮮血の一部が、不自然な形で空中に浮かんだ。線状。
「高速で回転する羽根で飛び回って、羽根で敵を切り刻んだり、中に仕込んだ鋼鉄線で相手の動きを封じたり、そんなふうに切断したり、便利なんだよ、これ」
手首を失ったことで腕の戒めを解かれた男は、倒れ伏せる。唸り声を上げながら、凄まじい形相で〈七〉を睨んだ。
「貴様……最……下級の分際で……」
男の怨嗟を、〈七〉は一笑に付した。
「そーだぜ、あたしは最下位、七位の〈七〉。でもよー、どうやらそれは、このクソみたいな忍び里には、あたしを正当に評価する価値基準がなかっただけってことだったようだぜ。〈無〉の旦那が〈最強〉ってことになってんだが、あたしのことは……〈最悪〉とでも呼びな」
男は言葉にならない雄叫びを上げる。手首のちぎれた腕には何やらびっしりと経文のような刺青が入れられており、それらが燻る火のように赤く鈍く光りだした。失われた両手首の断面から勢いよく炎が吹き出し、さながら、
「わお、燃えるカマキリって感じだな」
「殺す!!」
炎の鎌と転じた両腕を振り回す。しかし。
雀蜂の群が襲いかかるが如く、無数の〈風車〉が一斉に男に向かっていった。
「忍法・〈華斬車〉ってな」
鋭利な刃で構成された羽根が高速回転する〈風車〉が大量に押し寄せ、男の全身をめちゃくちゃに切り刻む。見た目軽量なそれらは、しかし身体に触れた後も、やすりがけを行うかのように執拗にその表面を削いでいく。男の両腕から発せられる炎も金属の刃を鈍らせることはできず、
「ぐ、おおおおおお……ッッ!!」
とうとう〈風車〉がどこか重要な血管を切断したのか、男の首から勢いよく血が吹き出した。力なく膝から崩れ落ちると、男は動かなくなった。
「やれやれ、やっとくたばったかよ」
〈七〉自身は無傷だったが、正直に言って、敵の戦力は全くの想定外だった。一人で扉を押し通りに来た時は拍子抜けしそうになったが、文字通りの一騎当千、ここまで化け物じみた使い手が襲いかかってくるとは思いもしなかった。おかげで想定以上に仲間を失ってしまった。もっとも、門の外側にいた連中のことを仲間だと思ったことは、一度もなかったが。
その時、門の内側から轟音が轟いた。
爆発と、建造物が崩れ落ちる音。
そして、たくさんの人間たちの悲鳴。
「!?」
〈七〉を始めとする忍者たちに与えられた任務は、扉の死守。正確には、扉の奥にある幕府の秘密施設の防衛。〈七〉が配置されていた門外の防衛には、今回の投入戦力の約4分の1が投入されていた。序列で言うところの〈一〉〜〈三〉が半数ずつ門の内外に振り分けられ、〈四〉以下は全て門内に配置される(〈七〉は例外)。
だから、この悲鳴は。
柄にもなく〈七〉の背筋を悪寒が走る。
と、背後から力無い哄笑が聞こえた。
「は……ははは……私とて敗北するつもりはひとつもなかったが……私は囮だよ。お前たちの精鋭部隊をまとめて引き付け、殲滅するための。門の中に入った〈疑神衆〉の同志たちが、仕事をしやすくするための……」
「疑神衆……?」
「これだけの時間を稼げたのだ……。門の中にはお前の仲間はおそらく誰も残っていまい。私が合図すれば、門は内側から開き、中にいる同志たちがお前を殺す。それで、お前たちは全滅だ……私自身が幕引きできなかったのは、残念、だったがな……」
男は手首のない腕を動かし、懐から何か筒のようなものを押し出すと、口を使って伸びた何かの線を引っ張った。すると、筒から火花が散り、小さな花火が上がった。
「ははは……楽しかったぞ、女……あの世で会えたら、また闘おうではないか」
桃色の光を発する花火は上空でちかちかと独特のリズムで明滅した。おそらくそれは信号弾。それを見た男の仲間たちが、門を破り中から現れる。
はずだった。
しかし。
「……なぜだ……?」
〈七〉も違和感を覚えた。嫌な予感がする。
〈風車〉の一つを手から伸ばした鉄線で手繰り寄せ、門の鍵を破壊しにかかる。
が、それは徒労に終わった。次の瞬間、
「!!!」
扉が内側から吹っ飛んできたからだ。
轟音。〈七〉は弾かれたように後方に跳ぶ。
分厚い鉄でできた扉が、内側から木の板のように舞う。弾丸の速度で吹き飛ぶ鉄塊は、倒れ伏した男の体を瞬時に粉微塵にした。
扉を失った門の内側が垣間見える。
土煙の中、はじめに知覚したのは、音だった。
機械の駆動音なのか、生き物の唸り声なのか。あるいは、何か得体の知れない歌なのか、それすらも判然としない、何かの音。
「あたしたちは……何を守らされてたんだ……?」
〈七〉の顔に、初めて困惑の表情が浮かんだ。
煙が晴れ、解る。音は、〈それ〉から発せられていた。
身の丈は、女性にしては長身である〈七〉のおよそ三倍。手足の配置こそ人間に似ているが、腕の長さ、膝から下の骨格、何もかもが既知の生き物とは似ても似つかない。乱れた赤い髪と、何よりも、頭部から天に向かって突き出た二本の角。
「鬼……?」
としか、形容できなかった。返り血に赤く染まった、真っ赤な鬼。鎖や注連縄で戒められていたようで、身体のあちこちにそれらが引きちぎられた跡がある。僅かに残った鎖には何やら幾つもの札がかかっているようだったが、血に染まって文字は読めない。その返り血が誰のものであったかは、類推するまでもない。忍軍の同僚と、男の仲間と、そして。
「ハチ!!!」
あることに想像が及ぶ。
〈七〉は青ざめて、〈鬼〉らしきものの横を潜り抜け、弾かれたように走り出した。
走りながら、門の中へ視線を必死で巡らせる。
転がっているのは、おそらく同胞と、さっきまで相対していた男とよく似た出立ちの骸。「おそらく」としたのは、あまりにめちゃくちゃに粉砕されていて、そうでない誰かしらの人体が混ざっていても、全くわからないからだ。
「ハチ……返事しろよ、おい!!」
さっきまで命のやり取りをしていたにも関わらず飄々としていた〈七〉の表情に、露骨な焦りと絶望が見える。
「!!」
〈鬼〉が〈七〉を捕捉し、その異様に長い腕を力任せに振り下ろした。
腕そのものを躱すことは雑作もなかったが、その衝撃で舞い散った土塊や骸の肉片が、散弾銃のように〈七〉を襲う。
両腕で防御するが、その津波のような衝撃で体勢を崩し、吹っ飛んだ。井戸の縁に背中を打ち付け、短く喘ぐ。
その時、呼吸を整えようとする〈七〉の耳に、何かが聞こえた。
「ナナ……ねえ……!」
声は井戸の奥の方から聞こえる。
〈七〉はがば、と井戸を覗き込む。その底には、小柄な少年が大きな目を見開いて、青ざめ震えていた。
「よかった……生きてた……!」
〈七〉は安堵に表情を緩ませる。
「俺……何もできなくて……また、逃げた……」
「いいんだ。ハチはそれで。言っただろーが、優しいままでいろって」
〈七〉は努めて明るい声色を保ちながら、〈鬼〉に目を向ける。それは明らかに〈七〉に狙いをつけており、ゆっくりと距離を詰めてきた。視線を外さないまま、井戸の底に声をかける。
「ハチ、いいか。門がぶっ壊れて出られるようになってるから、そこから逃げられる。あたしがあの化け物の気を逸らすから、お前は全速力で走れ」
「無理だよ……! それに、ナナねえはどうするんだよ」
「あたしは何とでもなる。だってあたしだぜ? 忍び里始まって以来の大天才だ。それに、お前も大丈夫だ。お前にだって、きっとある。お前の〈最も秀でた才能〉ってやつが」
「そんなもの、ないよ……! 俺は、何の才能も開花しなかった……忍びになんか、なれやしない」
「……大丈夫だよ。あたしが言うんだから、間違いない。お前ん中に、材料は全部揃ってる。あとはきっかけ次第だよ。んで、逃げなきゃ死んじまうって、命のかかった今がそのきっかけには丁度いいんじゃあねーか。井戸、登れんな?」
顔からは恐怖の色が消えないが、少年は何かを振り切るように力強く頷いた。
今だ、と短く呟くと、〈七〉は壊された門内の奥、施設の方へ走り出す。少年も意を決し、縄を掴んで井戸穴を登り始めた。
「よおバケモン! こいつを見たことあるかよ!」
〈七〉は〈風車〉を二基起動させ、〈鬼〉に向かって低空に放つ。二基の間に張られた極細の鉄線が陽光を受けてわずかに光るが、〈鬼〉はそれには気づかない。指先を素早く動かし〈風車〉の軌道を操ると、二基は〈鬼〉の下半身を挟み込むように旋回した。先ほど男の手首をちぎり落としたのと同じ、〈風車〉の基本形にして必勝法。鉄線は〈鬼〉の両足を縛り上げ、高速で巻き上げていく。〈鬼〉の足が止まる。
が、一声吠えると、力任せに鉄線を引きちぎった。しかし、
「ま、そーなるわなあ」
〈七〉は動じない。それどころか、
「そっちは囮だよ、バケモン!」
余裕の笑みを浮かべ、五指を広げた両掌を眼前で交差させる。
十指に嵌めた指輪から伸びた無数の鉄線が光った。それらは全て、はるか上空に待機させていた、空を埋めつくさんばかりの無数の〈風車〉に繋がっていた
〈七〉が両手を振り下ろす。
「くらいな。〈忍法・華斬車ーー万天吹雪〉」
その名の通り。大雪のように、吹雪のように、蝗害のように、何千もの〈風車〉が高速回転しながら降り注ぐ。斬撃の大吹雪。一度放てば、その先に森林があれば更地になるほどの〈七〉最強の術。どんな巨躯であれ、どんな異形であれ、それが肉と骨からなる生物である以上、生き残る公算はない。
はずだった。
無数の〈風車〉は、〈鬼〉の肉も骨をも擦り潰していたはずの必殺の武器は、
「嘘……だろ」
その全てが鬼の体表で静止し、回転を続けていた。
〈風車〉の操作は、非常に高度な修練を要する。一見すれば回転する羽根から発生する風圧によって飛行、手元からのびた細い鉄線で軌道を操るシンプルなものと思われようが、実態は大きく異なる。操作用の鉄線は、その内側に十数本のさらに細い鉄線を収めており、指先の微妙な力の込め具合でその極細の鉄線を操る。極細の鉄線たちの微妙なたわませ方の組み合わせによって、飛行の軌道はもとより、羽根の回転数や、斬撃の強さ、複数の〈風車〉の隊列の組み方など、細かい挙動の指示を出しているのだ。
つまり、余人に操ることは、およそ不可能。
しかし。
鬼の長い腕の先についた手の爪は、鉄線を切断していた。切断していた鉄線をその巨大な手で掴み、指で擦るような奇妙な動きをとる。その動きに呼応して、〈風車〉の挙動が次々と変化していた。
「実験……してやがんのか……?」
目の前の、巨大な異形が、暴力の化身のような姿を取り知性など欠片も感じさせないような化け物が、〈七〉自身が作り上げた技術の結晶を分析し、学習しようとしている。
知性がある、そのことが、こんなにも悍ましい。
〈鬼〉は鉄線を掴んだまま両手を目の前で交差させ、勢いよく振り下ろす。
やばい、と〈七〉が身構えるよりも早く、〈鬼〉の周囲を飛んでいた無数の〈風車〉たちが、あたり一面にめちゃくちゃに飛び交った。全方位、360度全てに、破壊の嵐が吹き荒れる。
〈七〉は咄嗟に近くにあった瓦礫の物陰に身を潜めたが、その瓦礫はものの数秒で砕け散る。自らが作り上げた〈風車〉の斬撃が、〈七〉の全身を切り刻んだ。しかし、瓦礫を削った際に運動エネルギーが消費されたためか、〈七〉は身体中の表皮に切り傷をつけられただけで、ダメージは大きくはない。勢いが止んだことを確認するや、
「ハチ……!」
少年が走り去った方向を見遣る。落ちこぼれでも忍者の端くれ、全方位攻撃とはいえ、遠距離から巻かれた〈風車〉は流石に回避できたようだった。
しかし。
乱雑に撒かれた〈風車〉は、〈鬼〉が先刻吹き飛ばした門扉が嵌っていた石壁を破壊していた。破壊され、出口が完全に塞がれている。壁の高さは、実に20メートル。いかな忍びとはいえ、ひと飛びに超えることは不可能。少年は瓦礫を必死に手で退け、なんとか脱出口を開こうとするが、少年の矮躯には文字通り荷が重いように見える。
瓦礫が投げ捨てられる音に反応してか、〈鬼〉は少年の方に注意を向けたように見えた。〈七〉は手元に残った〈風車〉や苦無を投げつけてみるが、こちらには見向きもしない。
〈鬼〉が、ゆっくりと少年に向かって歩き始めた。
少年もそれに気づいていた。早く脱出しなければ。
分かってはいても、積み重なった瓦礫はあまりに多く重く、小柄な自分一人出る隙間すら作るのはかなりの労力を要する。しかも、
「ちくしょう……」
自分の力のなさに涙が出そうになる。
少年は生まれつき体力に劣り、忍びとして今日まで命があったことすら奇跡であった。自分より後から忍びとして育成された子供達が、次々と自分を追い越していく。しかし、いくら鍛錬しても努力しても、何の才能も開きはしなかった。
〈最弱〉。ただ生きているだけの役立たず。
何度そう言われたかもわからない。それが今、里において唯一自分を気にかけてくれた〈七〉が、自分の命を繋いでくれようとしているのに、それすらも無駄にしようとしている。
いつか何かの形で、〈七〉に報いることができたら。そう思っていたのに。
〈鬼〉はすぐ背後に迫っている。一歩進むごとに震える空気が、首筋でも感じられるほどの距離。
これで終わりか。
本当に何もない人生だった。
そう絶望した時、目の前の瓦礫が弾け飛んだ。
「ハチ! モタモタしてんじゃねえ!」
〈七〉が崩れた壁に渾身の蹴りを叩き込んだからだ。
「ハチは貧弱だから、あたしが手伝ってやんねーとな、こういうのは」
〈七〉は不敵に笑うと、もう一度壁を蹴り付ける。
大きな瓦礫が崩れ、その奥に光が見えた。
少年は伝えようとした。感謝を。懺悔を。
しかしそれらが言葉にならないまま、〈七〉は乱暴に少年の背を蹴り飛ばし、光の方へ押し出した。
体勢を崩し、壁の外へ転がり出た。身を起こしながら振り返る。〈七〉の顔が見えた。不敵に笑いながら、叫んでいる。
「生きんだよ、お前は! お前はまだこっからだ。まだ自分の才能とも出会えてねえんだろ。だったら、それを見つけられるまで、必死こいて生きろ! 逃げたっていい。逃げた先にだって、なんか見つけられる。自分には何もないなんて思ったまま死ぬなんて、あたしは絶対に許さねえからな!」
ナナねえ、一緒に逃げよう。そう言いかけた。
「走れ!!!!」
少年は足を動かす。体が重い。〈七〉を置いていくことへのためらいが、足にまとわりつく。今は逃げることしかできない。自分には何もできない。だが、今走り出したら、もうきっと〈七〉には二度と会えない。
振り返る。〈七〉は尚も笑顔で少年を見守っていた。
しかし。
彼女の顔が、不意に見えなくなった。
僅かに空いた穴から、〈七〉の身体が何かに持ち上げられていくのが見えた。
それが何によるものなのか、想像するまでもなかった。
助けに行きたかった。が、足がぴくりとも動かない。逃げることも、助けに向かうこともできない。恐怖に身体が震え、顎も閉まらない。
でも、立ち竦んだままでいいのか。
壁に空いた穴から手を入れたら、すぐそこにいる〈七〉がその手を掴んで一緒に逃げられるかもしれない。瓦礫の一つでも投げつければ、〈鬼〉を一瞬怯ませることができるかもしれない。
何もしないままで、逃げていいのか。
少年は自らに言い聞かせる。完全に恐怖に染められていた胸中に、一粒の勇気の火が灯った。
壁に向かって、一歩、踏み出す。
その時。
「嫌だああああっ!! 離せ! 離せよ!! 死にたくない!!」
壁の内から、そんな叫び声が聞こえた。
不敵で不遜で、いつも飄々としていた〈彼女〉からは、想像もつかないような必死の声。
「助けて! 誰か助けて! ハチ! ハチいいいいっっ!!!」
その断末魔の声が、少年の胸の火を、一瞬で消し去った。
悲鳴が聞こえなくなるまで、自分の喉から声を絞り出す。
恐怖すら感じない、絶望を通り過ぎた境地に立った時、何かが弾けた。
少年は走り出した。壁とは反対方向へ。
無心で走る。何かを振り切るように。
走る。走る。走る。
雲より、鳥より、野を駆ける獣よりも速く。
心臓が三度脈を打つ間に、もう壁は地平線の彼方へ見えなくなっていた。
それすらも気づかずに、めちゃくちゃに走る。
やがて全身にひりつくような痛みを感じ、立ち止まった。
気づけば、あまりの速度に、少年の身体は空気との摩擦熱を生じ、装束は焦げ、肌のあちこちに火傷をしていた。
それは尋常ならざる身体能力によるもの。人にあって、人がすべきではない習練を、人にすべきでない改造を、何度も何度も、何年も何年も、何千回も何万回も、狂気の域まで身体に刻みつけたものが至る境地。
心の上にある、息をし生きる自我を、刃と鍛え研ぎ澄ませたものがなり得る存在。
〈忍び〉。
開いた才は〈最速〉。
考え得る限り、最低最悪の時に、少年は初めて忍びとなった。
身体中を走る痛みと自己嫌悪に脳がかき混ぜられる。
少年は膝をつき、慟哭した。
逃げた。見殺しにした。
何にもなれないどころか、助けを求める大事な人に背を向けた。
あまりの悍ましさに、胃の中のものが全て口から出た。
血まみれ、吐瀉物まみれ。惨めだった。
よろよろと立ち上がると、初めて、そこがどこかの崖の上だったことに気づいた。どれだけ走ってきたのだろう。
自分はどこから走ってきたのか。
視線を巡らせる必要はなかった。
なんだ、あれは。
天の一箇所だけが、歪んでいた。
雲は血の赤とも、夜の紫ともつかない奇妙な色に発光し、渦巻いている。その渦は竜巻のように地表へと伸び、その先はおそらく、少年が逃げてきた、幕府の施設だった。
方角からすれば、それは間違いない。しかし、おそらく、と表現したのは、そこには、そこにあったはずの建物とは似ても似つかない、異常な形状の建造物が存在していたからだ。何万年も風雨にさらされた奇岩のような、あるいは、蟲が作る奇妙な形の巣のような。
そしてそれは、天に向かって長く長く、まっすぐに〈生長〉していた。
少年は気づく。それは、奇妙な建物がそこに存在しているのではなく。
「作り替えられてる……?」
そこにあった無機質で堅牢な施設が、うぞうぞと、生き物のように姿を変えながら、空の先の何かを求めるように、亡者が手を伸ばすように、垂直に伸びていく。
悍ましい。しかし、目が離せない。
気づくと、建物を包む光が強くなっていた。だんだんその光は直視できないほどの眩しさになっていき。
音もなく、爆発した。
光は広がっていく。
建物を飲み込み、あたりの森を飲み込み、湖を飲み込み。
少年が立っている崖も、やがて飲み込まれた。
かたく閉じた瞼をも貫通してくる、逃げ場のない光。
無限に広がっていくかのごとき光に包まれて、
気を失う寸前、少年は思い出していた。
あの〈鬼〉。
少年たちが守護していた施設の中から、突然現れた。敵なのか味方なのかも分からずたじろいでいる間に、辺りの同胞たちを、乱入してきた敵勢力を、容易く粉微塵の肉片と化した。
少年だけが、生来の臆病故に、〈鬼〉の姿を認めた瞬間に身を潜めた。
だから、命が助かった。
そして、だから見ていた。
〈鬼〉が返り血に染まる前の姿を。
あれは赤鬼ではなかった。
あれは、銀のたてがみをもった、白い鬼だった。
そして、引きちぎってきたであろう戒めの鎖や縄にかかっていた札に、ある文字が書かれていたことも見えていた。
それ自身の名前なのか、それが収められていた施設や部屋の呼称なのかも判然としない。
「光」と、「圀」。
「光圀」。
なんと読むのかもわからない。しかし、少年はその名を深く胸に刻んだ。
※※※
その日、およそ三百年の長きにわたってこの国を治めていた氷見津将軍家による幕府は、一瞬にして消滅した。
消滅。
〈瓦解〉や〈転覆〉ではなく。
幕府の中枢であった〈穢土城〉が文字通り、物理的に消え失せた。
より正確に言うならば、城があったその場所に、見たこともない歪み切った奇妙な構造物が現れていた。
今までこの国に住まう人類が目にしたことがないほどに真っ直ぐに高く屹立した塔。のような何か。〈歪み城〉と呼ばれたそこには、恐ろしがって誰も近づかないから、それが何なのか、中に何かいるのか、何の意味があるのか、何もわからない。
そこにあったはずの城と共に、そこにいたはずの人間ーーその長たる将軍をはじめ、その家族、そこに詰めていた幕府の要人、使用人を初め、誰も彼もーーも消息不明。そのため、あっけなく国家の運営機能は停止。程なく、諸国の大名たちによる無秩序な地方統治が始まった。
軍事力によって再度の国家統一を目指すもの、民に重税を課し豪奢な館に引きこもるもの、自らが帰依する宗教による厳格な統治を行うもの。
それぞれの土地に暮らす民たちは大きな混乱の中にあった。そして、誰もが求めていた。
平和を。
救いを。
解放を。
————〈世直し〉を。
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