鬼光圀 〜光圀ちゃん諸国漫遊記〜

ニベオカシンヤス

第一章「印籠ぱんち」

「世直し、始めます!!!!」

 蝋燭の赤橙色の火が、戒められた彼女の肌を昏く照らす。

 男が乱暴に引くと、鎖はくぐもった音を立てた。


「太夫、全て貴様の自業自得だ。老いた父上を誑かし、この〈煙都〉を我が物にしようとした報いだ」

「……」

「全て俺のものになるはずだったんだ。俺は、貴様からこの街を取り戻してやる」


 彼女は目を伏せ、一言も発しない。


「だから、いい加減に話せ! 〈紫蛇香〉の調合方法を! 父上が貴様に話していたことは分かっているんだ! ただの煙草じゃない。一度煙を吸えば、猛り狂う猛獣でさえもあまりの心地よさに一瞬で夢見心地になる……〈紫蛇香〉の煙草を作れることこそが〈煙都〉の長たる証。貴様のような阿婆擦れにその資格があるなんてこと、許すわけにはいかない!」


 男は手に持った鞭を床に叩きつける。威嚇のつもりであっただろうが、使い慣れていないのか、石畳にぶつけても、ぺし、と気の抜けた音しか響かなかった。

 その音があまりに可笑しかったのか、彼女はくすくすと笑い声を漏らした。長身で、見た目の年恰好はとっくに成人していそうなものだが、しかしその声色はあどけなく、童女のようにも聞こえた。その不均衡さが、彼女〈紅蛾太夫〉の纏う妖艶な気配を、より一層禁忌的なものにしていた。


「うふふふ、アア、可っ笑しい。こんな女の口一つ割らせられないようなお手前では、この〈煙都〉を牛耳るなんてことは到底無理でしょうなァ。ねえ、楽太郎坊ちゃん?」

「なんだと……!」


 もう四十手前にもなる楽太郎は〈坊ちゃん〉と呼ばれ口元を歪める。しかしそんな様も可笑しそうに眺めながら、鎖で両腕を戒められたままの太夫は尚も続けた。


「モタモタしてるんじゃァないって言ってるんですよ。長男が急死して傷心の貴方のお父上を誑かして〈紫蛇香〉を掠め取った毒婦だって、街の大店じゅうから嫌われてるわたしをせっかく捕まえたってのに、えらい手間取るじゃァないですか。お分かりですか? 今のこの状況は、この上なく腕の見せ所なんですよ、楽太郎さん。先代と付き合いのあった大店達に、わたしの悪い噂を流して味方につけたところまではよかった。何だっけ? 後妻の座に収まって悪行ざんまい、私腹を肥やして邪魔者は全て街から追放、しまいにゃあ、楽太郎さんを亡き者にしようとしてる、だっけ。良くもまあ。そこまでお膳立てしたんだから、とっととわたしをとっちめて見せしめにでもすれば、〈七星屋〉の跡取りに相応しい器量を簡単に示せる。だのに、それをこんなにモタモタ、鞭をもてばしょぼくれた音を鳴らしちゃって、笑えるったらありゃしない」


 太夫が台詞を言い終わるより早く、楽太郎の我慢の限界が来た。


「あまり舐めるなよ、阿婆擦れが!」


 振り下ろした鞭は、偶々であろうが、太夫の頬に跡を付けた。しかし太夫は痛がるでもなく、むしろその赤みがかった瞳で楽太郎を睨みつけた。


「そんなにわたしが気に入らないんだったら、とっとと身ぐるみ剥がして、ぶちのめすなり犯し尽くすなり、なんだってやりゃァよかったんだって言ってんだよ。ンなことも思いきれねえ手前なんぞに、この街はおろか、路地裏の野良猫一匹従えることなんかできやしねえ! 」


 打って変わって、太夫が響かせるドスの効いた大音声に、楽太郎はたじろぐ。


「そんなにお望みなら、その通りにしてやるよ。残念だったな、お前はもう、この部屋から五体満足には出られねえ……!」

「やってみな。この紅蛾太夫、手前みてえな三下にくれてやるもんは、血糊一滴、指の皮ひと欠けだって持ち合わせちゃいねえよ!」


 と、啖呵を切ったものの。

 実のところ、太夫にこの窮地を脱する策はなかった。

 捕まった時点で、本来なら詰んでいた。

 両腕は天井から伸びた鎖でしっかりと縛られ、両足首も丁寧に革のベルトで固定されているため、本当に身じろぎすらできない。


「お前らの好きにしろ。ただし、殺すなよ。〈紫蛇〉の作り方を吐かせる前に死なれちゃかなわん」


 楽太郎が告げると、背後から十人ほどの男たちが現れた。歳のころはまちまちだが、全員共通して、恐ろしく身なりが汚い。

 〈煙都〉の浮浪者か。太夫が先代の愛人になってからこちら、煙草造りや倉庫での在庫管理、他の都への物流などを整えるよう進言、時には自ら指示を出して雇用を増やしてきたつもりだったが、それでもまだ、このような者たちが街にいる。自らの力不足に歯噛みするが、それ以上に、これだけ街に尽くしてきたこの自分が、その労力の一割も想像すらしないような下衆に好き勝手されるという理不尽に、耐え難いほどの怒りを覚える。


「へへ、一番はおれが頂くぜ」「ふざけんな、首を絞めてからじゃないと勃たねえ変態に先に使われちゃあ、俺たちの楽しみが無くなるだろうが」「どっちでも構わねえから早くしろよ」


 醜い口から、聴くに耐えない言葉が吐き出される。太夫は流石に身構えた。じり、と男たちが距離を詰める。へらへらと、意思のないような笑みを浮かべ、けだものたちが迫る。見たところ一番年上の、もはや老人と言ってもいいような背格好の男のふしくれだった手が、太夫の艶やかな長い黒髪に触れた、

 その時。


 大鐘のような音と共に、この部屋を閉ざしていたはずの鉄の扉が飛んできた。吹っ飛んだ鉄塊は、綺麗に水平の軌道を描き、反対側の土壁にめり込んだ。


「やめな……さああああああああいっっ!!!!」


 大音声が響く。

 その場にいた全員が、声のした方を見ていた。

 土埃が立ち込める中、逆光に照らされたその身体が、部屋に大きな影をつくった。

 それは、少女のように見えたし、別の何かのようにも見えた。

 逆光の中にあっても、桜色の大きな瞳が爛と輝く。

 しろがねの絹のような豊かな髪と、それを飾る銀の髪飾りに乱反射する光が、薄暗い地下室を照らす。

 大の大人の男ですら見上げる、六尺六寸はあろうほどの長身を超えた巨躯。

 きらきらとした笑みを口元に浮かべながら、少女はきりっと眉を吊り上げると、勢いよく太夫を指さした。


「〈煙都〉を治めた先代七星屋に取り入り、後妻の席に収まって悪行ざんまい。私腹を肥やし、邪魔者は全て〈煙都〉から追放。しまいには本来の跡取りである二代目を暗殺しようと謀る始末。そんな横暴、お天道様が許しても、このわたしが許しません!!」


 びしっ! と、音がしそうなほどの勢いで真っ直ぐ伸ばされた指は、しかし空を切ったように見えた。


 ……。


「えっと、え、わたし?」


 あまりの出来事に、太夫の顔から表情が消える。思わず楽太郎と目を見合わせてしまった。楽太郎は気まずそうに、ぼそぼそと説明する。


「いや、それ、俺が流した噂なんだけど」

「そうだよ! わたし、被害者! こいつが悪者!」

「え、そうなんですか」

「そう……って、何言わすんだよ! 悪いのはこの女だ!」

「はああ?」

「え、ちょ、ちょっと待って、混乱してきました」

「こっちのセリフだ、馬鹿野郎! 邪魔しやがって!」


 楽太郎は混乱と苛立ちの中、足元に転がしていた刀を抜くと、眉間に指を当てて悩ましげにしている巨躯の少女に斬りかかった。

 が、その直後、刀を取り落とした。

 楽太郎の右手首には、深々と短刀が突き刺さっている。悲鳴をあげ、うずくまると、短刀が飛んできた方向を睨みつける。


「だ、誰だ……!」


 先ほどまで扉があった出入り口に、三人の人影が見える。逆光で顔がよく見えないが、


「お嬢、やはりさっき聞いた情報は作り話だったようです。慎重になってくださいと、あれほど言ったのに」

「みっちゃん、早とちりして走って行っちゃうからさあ。まあ、そこが可愛いんだけどねえ」


 そのうち二人は、声から女だということがわかる。


「助さん、格さん! もう、遅いよお!」


 少女に助さん、と呼ばれた青い着物の女は、長い前髪から覗く切長の左目で男たちを睨みつけながら。

 格さん、と呼ばれた赤い着物の女は、刺青だらけの両腕を大儀そうに伸ばしながら。

 それぞれ、少女の両隣に陣取った。


「お前ら、何もんだ……何しにきやがった!」


 問われて、少女は微笑む。きらきらと音が聞こえてきそうな笑顔。


「わたしは〈光圀〉。光もて、この国を照らすために旅をするもの! なんだかよく分かんなくなってきましたが、そこのお姉さんを捕まえて、何かひどいことをしようとする悪い人は、あれです! 許せません!」


「ふわっとしてんなあ……」


 楽太郎は手首から血を流しながらも、あまりの言われように呟いた。

 それを見てか、〈助さん〉が一歩踏み出す。


「この街〈煙都〉を、元の豊かで自由な街に戻すため……」


 〈格さん〉が太夫を一瞥し、にいっと笑う。


「あたしは街がどーなろうとどっちでもいいんだけどさ、あー、そこのイカしたお姉ちゃんを助けるため?」


 〈光圀〉が、再び指をさす。ただし、今度は楽太郎に向かって。


「世直し、始めます!!!!」


 光圀の号令で、助さんと格さんが構えた。

 と同時に、男達が武器を持ち、踊りかかった。


「相手は全員女だ! 手足切り落として、おもちゃにしてやれ!」

「なんだァ? もうお前、左腕が無ぇじゃねえか」

「切り落とす手間が少しだけ省けたな!」

 

 そのうち二人が、助さんとすれ違いざまに倒れ伏した。

 ちん、と鍔鳴り。

 目にも止まらぬ居合の一閃が、男たちの下半身を、具体的には、下半身のとある一点を捉えていた。

 地下室を男たちの濁った悲鳴がめちゃくちゃに暴れ回る。


「これであなた達は文字通りの再起不能。もうこれ以上、女人を弄ばなくて良いように、手間を省いて差し上げました」


 腕も一本、眼も一つ。しかし、剣の腕もまた、天下無双である。

 その様に恐れ慄いた三人ほどの男達が慌てて走り去ろうとするが、何かにぶつかった。そこには歯を剥き出しにして笑う格さんがいた。満面の笑みではあったが、橙の髪、真っ赤な装束という威圧的な風貌に男達は踵を返す、


「まあまあ、待ちなって」


 ところを、格さんが制した。何だよ、と混乱する男たちに柔和な笑顔を見せ、手招きする。訝しそうに寄ってくる男達にそっと耳打ちした。


「いやあ、実はね? 正直あたしもさ、荒事は好きじゃないのよ。だからさ、ほれ」

「あ、な、何……?」

「何、じゃねえっつの。ほれ、有り金全部置いてきな。そうすりゃあっちの刀の怖〜いお姉さんにバレないように逃げていいから」

「は、はあ……?」

「お、おい! とっとと逃げようぜ? 下手打つと、俺ら死んじまうぞ!」

「だ、だな……命あっての物種よ」


 男達の間で合意が取れたようで、三人の筆頭格と思しき波打った長髪の男がおそらく三人の手持ち全額であろう現金をまとめて持ってきた。にこにこと目を細めて笑顔の格さんが広げる手のひらに、おずおずとその全てを預ける。


「よし、毎度あり」

「じゃ、じゃあ、失礼しやす」

「おう。それじゃあ……なっ!!!」


 走り去ろうとする長髪の男の後頭部を、格さんの飛び蹴りが鐘撞きのように叩き飛ばした。


「が……っ!」

「ひでえ! 有り金全部渡したら逃げていいっつったじゃねえか!」


 格さんはけだものじみた笑みを浮かべ、嘲った。


「逃げていいとは言ったが、追いかけねえとは言ってねえ」

「だ、騙しやがったな!」

「そうだぜ? あたしは嘘つきなんだよ」


 もう逃げることは不可能、と本能で察した男達はやぶれかぶれで格さんに襲いかかる。格さんは破顔すると、部屋に鎮座していた石でできた腰掛けを両手で掴んだ。


「めんどくせえ、まとめて掃除してやんよ」


 雄叫びを上げながら、ひと抱えでは足りないほどの大きさの腰掛けをぶんぶんと振り回し投げ飛ばすと、固まっていた男たちがそれをまともに喰らい、倒れた。

 飄々と構え、騙し謀りにも躊躇のない無頼。しかし、向かう所に敵の無い、怪力無双であった。


「バケモンかよ……!」


 ざわつく男達の言葉を受け、光圀が眉を顰める。


「戦う女性に向かって〈ばけもの〉などとの暴言、絶対に許せません!」


 左胸の辺りに付けた革の入れ物から、何かの小箱を取り出す。それを見た助さんは細い目を見開きギョッとした。


「お嬢、印籠は……!」

「だいじょうぶ、手加減はするよ! まだここの〈要石〉も浄化してないし!」


 光圀は手にした小箱〈印籠〉を握り込む。

 漆塗りのような黒い光沢を持った小箱がわずかに紫色の光を帯び、ぐにゃりと形を変えた。光圀の拳を包む、後の世に言うナックルガードの形状。

 構える。拳の正面には、金色の家紋が光る。三つ並べた葵葉を、まとめて斜めに切り裂いた、禁忌の紋章〈割れ葵〉。

 そこを中心に、ばち、と紫電が奔った。

 その威容に、五人ばかりの男達は怯み、逃げ出そうとするが、光圀の正義に燃える瞳は、それを逃さなかった。


「必殺……印籠ぱんち!!!」


 雄叫び、とともに、衝撃。

 インパクトそのものが光を帯びたかのように、辺りに紫色の稲妻が奔る。男達はまとめて吹っ飛び、奥の壁にめり込んだ。


「な、なんなんだよ、お前達……」


 十人の手勢を一瞬で失った楽太郎は、動揺と怒りに震える。

 倒れ伏した手下の男達はいずれも、果たして本当に生きているのか、ぴくりとさえ動かない。次は、俺か。

 あまりの恐怖に楽太郎は背後の壁を何度も叩く。

 しかしそれは、狂乱ゆえの行動ではなかった。何かのスイッチに触れたようで、背後の壁はわずかに震えると横にスライドし、奥へ続く通路が現れた。扉が開き切るよりも早く、楽太郎はその中へ走り去っていった。

 呆気に取られていた紅蛾太夫は、その様子に何かに思い至ったように顔色を変える。


「! ……お嬢ちゃん達、逃げて! あいつ、とんでもないことをするつもりだよ」

「とんでもないこと……?」

「この奥にあるのは〈大煙石〉ってやつだ。願いを叶える力を持つって言われてる、大きな霊石」


 そう言われて、光圀たちは目を見合わせる。


「お嬢、これはきっと……」

「うん、だね!」

「んじゃあ、行くか」


 三人は頷くと、逃げるどころか通路の奥へ走っていった。


「いや、人の話聞いてた!? 逃げろっつってんの! っていうか、これ解いてよ!」


 叫んだ瞬間、太夫の両手足が戒めから解かれた。急に自由を取り戻した身体が、がくん、と倒れそうになるのを、誰かが抱き止めた。


「だ、大丈夫……?」


 見ると、子供かと見まごうほどの矮躯の少年だった。こんな子いたっけ、と太夫は一瞬面食らったが、あの時大きなお嬢ちゃんの後に部屋に入ってきた人影は、確かに三人だった。大立ち回りをしてみせた女傑二人に、残る一人が、この。少年は目を泳がせて、怯えたように微笑んでいる。手に持った小刀で鎖をどうにかしてくれたようだった。


「ありがと……あんた、さっきのお嬢ちゃん達の連れ?」

「ま、まあ、そんなとこ。て言っても、荷物持ちみたいなもんだけど」


 そう自嘲するように笑う少年の両肩を、太夫は強く叩いて言った。


「だったら、あの子達を追いかけて、絶対に伝えて。とっとと逃げろって。この街は、もうダメかもしれない」



※※※


 隠し扉からの通路を進むと、道は程なく延々と続く降り階段になった。所々にある蝋燭がわずかに照らすだけの暗い道だったが、慣れているのか、楽太郎の足は存外早く、その姿は奥の暗闇に呑まれて見えない。しかし、


「 逃げちゃダメです! ちゃんと世直しさせてくださーい!」

「ふざけんな! とっ捕まったら、俺を殺す気だろうが!」

「殺しじゃないです! 世直しです!」

「どうちげえんだよ、畜生!!」


 光圀は暗闇を全く恐れず、その健脚で駿馬のように駆けていく。


「お嬢、あまり……先に行かないでください……」

「みっちゃーん、転ぶと危ないから、気をつけなよ〜」


 助さんは息を切らしながら、格さんは緊張感なく声を発しながらその後を追っていた。ふたりは目を見合わせると、わずかに頷く。この通路、古いもののようだが、照明の蝋燭に長いものが混じっているのを見るに、定期的に誰かがここを通っていることは間違いない。そして壁面を伝う、独特の編まれ方をした注連縄は、この通路の先にあるものが何なのか、一つの答えを示していた。それは。

 ずるっ。


「おあーーっ!!」


 暗闇の奥から光圀の悲鳴が響いた。どうやら足を滑らせて転んだらしい。地下通路にしては湿り気がほとんどなかったが、乾いた砂が却って足元を滑りやすくさせていたようだ。


「だーから言ったのに……」


 格さんが失笑しながら階段を十段ほど急いで降りると、すぐにその笑みは消えた。

 そこには、天井まで10メートルはあろうかというほどの広大な空間が広がっていた。異様な空間が。


「いたた……え、何これ……? 鳥居……?」


 光圀が身を起こしながら辺りを見回し驚きの声をあげる。

 天井から壁から、夥しい量の鳥居が屹立していた。大きい鳥居から小さな鳥居が何重にも〈生え〉、何かの菌類のように狂った増殖を重ね、しかし、群体としてのそれは、悍ましいほどに正確な幾何学的な形状をしていた。人工物としか説明ができないが、人の手が及ばないほどに精緻に並ぶ様は人工物にはおよそ見えない。


「願いの結晶化現象……こんなに大きな」


 助さんが口中で呟くが、光圀と格さんはそれに気づかなかった。二人が見据える鳥居の群体。その中心部には、青紫色に光る何かがあった。

 そこに声が響く。


「〈大煙石〉は願いを叶えると言われている。だから俺は神様に祈った。何度も何度も。その度に、ちょっとした願いが現実になっていったんだ。失せ物がでてきたり、博打で勝てたりな」


 青紫色の石の前に、楽太郎が立っていた。


「次第に、叶う願いは大きくなっていった。気に入らねえ商売敵の店が急に火事になった。家督を継ぐのに邪魔だった兄貴も死んだ。そんで、親父もピンピンしてたのに、いきなり大病を患った。本気で願ってた訳じゃねえ。でも、心のどこかで思ってたことには違いない。でけえ願いが叶うたび、この部屋に、わけのわからねえ鳥居が増えていった」


 助さんは眉を顰める。


「〈要石〉の暴走……」


 きょとんとした顔を向ける光圀に、助さんは続ける。


「あの男の暗い思いを浴び続けたせいで、石が人の苛烈な願いを自ら求め始めているようです。早く、〈印籠〉で浄化しないと」


 頷くと、光圀は拳に装着した〈印籠〉を再び強く握る。構えを取ったその時、


「〈大煙石〉! また俺の願いを叶えろ! この化け物女どもをぶっ殺して、〈煙都〉の全てを手に入れる力を……俺によこせ!!」


 楽太郎の大音声が響く。それに呼応するかのように石は光を強くしていった。辺りに青紫色の光が広がる。


「いけない、これは……!」


 光に包まれた楽太郎の身体が石と共に宙に浮かびあがる。と同時に、整然と並んでいた大小様々な鳥居達がその隊列を変え、辺りをめちゃくちゃに飛び回り始めた。鳥居どうしがぶつかり合う重い金属音が、地下空間を暴れ回る。光圀は慌てて身を屈めた。助さん、格さんも、近くの岩の陰に身を潜める。

 やがて音が止んだ。

 光圀が自分の腕の隙間から様子を伺うと、そこには想像だにしないものが在った。

 朱色の巨人。

 夥しい数の鳥居を分解して、無理やり人の形に組み上げたかのような、無機質の異形。

 その胸に当たる位置には、紫に光る巨大な石と、そこから上半身だけを覗かせた楽太郎の姿があった。


「あれ……石にめり込んでない? 下半身」

「石が人の願いに飽きたらず、人体そのものを欲し始めたのでしょう。願いを食わせすぎた代償です」

「おっかねえ」


 格さんは肩をすくめるが、その笑みは引き攣っている。

 願いを叶えるという〈大煙石〉。それに願い続けた者は、代償としてその身を食われる。その恐ろしさもあるが、


「実際、どうすんだよ、これ」


 思わず口から弱音がこぼれる。それが耳に入ったかのようなタイミングで、巨人の胸に埋まった楽太郎が目を開いた。朱色の巨躯の挙動を確かめるかのように、手足を動かしてみる。程なく要領を得たのか、力任せに右腕を岩壁に叩きつけた。硬い岩肌が、豆腐か何かのように、容易に抉れ崩れた。


[[ははは、すげえ。これが石の力か]]


 楽太郎は高揚を隠そうともせず、破顔した。哄笑しながら、あたりの壁をめちゃくちゃに殴りつける。大地震のように地下空洞全体が震える。岩壁や天井が次々と崩れ、大小様々の岩石があたり一面に降り注いだ。光圀達はそれを必死でかわし続ける。


「おいおいおい、マジで洒落になんねえって!」

「格さん、弱音はダメだよ!」

「つってもよお……!」


 避ける。迎撃する。降り続ける岩石に翻弄される光圀と格さんとは打って変わり、助さんただ一人は、前髪から覗く左目を鋭く光らせ、あたりを観察していた。

 退路を。

 目の前の巨人相手に戦闘手段がない訳ではない。が、この狭い空間では極めて困難。なんとか地上に戻り、広い場所で迎撃を試みたかった。

 が。通ってきた通路はとうに崩れ去っている。しかし、音の反響や、どこからともなく風を感じることから、どこかに地上へ続いている穴があるはず。それを探す。


「……?」


 視界の端に、何かがちらりと映った。素早く動く、何かの影。

 それは人のようで、何かを叫びながら、降り注ぐ岩の雨を潜り抜けている。

 先にその影の正体を判別したのは、光圀だった。

 大きな目を見開いて、恐怖の表情で逃げ惑う、小柄な少年。

 光圀はその名を呼んだ。


「はちべえ!」



※※※



「もう手遅れじゃねえかよおおお!!」


 八兵衛、と呼ばれた少年は絶叫しながら走る。

 階上で紅蛾太夫にことづかった「逃げろ」という伝言は、もはやなんの意味もなかった。

 地下空洞への階段を駆け降りている最中に通路が突如崩落。全速力で走った結果なんとか潰されずに地下空洞に辿り着くも、そこには見上げんばかりの謎の朱色の巨人が暴れ回り、降り注ぐは岩石の雨。


「どうしろってんだよ、これええ!」


 こんなつもりじゃなかった。光圀がさくっと子悪党を懲らしめて、この街での世直しを完了。美味い団子を頂いてとっととずらかる、はずだったのに。

 などと考えていると。

 つまづいて転ぶ。まずい。止まったら石に潰される。慌てて立ち上がろうとしたその時。


「!!!」


 目の前に、一抱え以上はある岩石が落下した。そこでつまづいてなかったら、今頃は。自分の眼前に落下した岩の禍々しい形を見て、涙が滲む。

 怖い。怖い怖い怖い。

 すぐに立ち上がらなければ、また岩が降ってくる。そう思うのに、足に力が入らない。

 やばい、腰が抜けている。青ざめる。

 立て続け、視界に大きな影がかかる。慌てて見上げると、先ほどのよりもさらに二回りはあろうかというほどの丸い岩石が落下してきた。

 完全に直撃コース。

 死ぬ。

 恐怖のあまり八兵衛は目を固く閉じる、ことすらできなかった。

 迫る岩石から視線を外せない。

 だから。

 その様をはっきりと見ることができた。


「はちべえーーっ!」


 巨躯の少女が、全力疾走からのドロップキックで巨岩を粉砕する様を。


「光圀……!」

「大丈夫? けがはない?」


 舞い散る石片のなか身を起こしながら微笑む光圀に、しかし八兵衛は笑顔を返せない。恐怖の表情のまま、無言で頷いた。


[[すばしっこい奴らだなあ。もう逃げ場なんざどこにもねえんだ、とっとと諦めればいいものを]]


 巨人から聞こえる大音声に、光圀は身構える。落石をなんとか掻い潜った助けさん、格さんも息を切らしながら光圀の傍に合流した。


「まだるっこしいのはもう終わりだ。この俺が、直接叩き潰してやる」


 吠えると、朱の巨人が歩き始めた。巨体の割に、動きが速い。振り下ろした腕が、光圀達がいた床の岩盤を叩き割った。すんでのところで飛び退く。


「くそ、デカブツのくせに速え!」

「なんとか注意を逸らしましょう。その隙に、お嬢はあの胸の石に取り付いて、印籠で浄化を」

「だね!」


 光圀は強く頷く。が、しかし、どうしたものか。暴れ回る巨体が繰り出す攻撃を凌ぎながら胴体まで辿り着くのは至難の業。

 格さんは何かを思いついたように、八兵衛を呼んだ。


「おチビ! あんた、めちゃくちゃに走り回ってあいつの注意を引いてくんない?」


 返事はない。辺りを見回すと、遥か遠くの物陰に隠れて震えているのが見えた。


「逃げ足、早!! お前ふざけんな!!」


 格さんが苛立たしげに罵声を飛ばすのを、楽太郎が嘲る。


[[随分と仲がいいんだな。まあ、あんなチビ一人逃したところでなんの影響もない]]


 わかりやすい挑発に歯噛みするが、決定打を叩き込む算段がつかない。


「ううん、少しだけでも動きを止められればいいんだけど……!」


 光圀は悔しげに印籠を握る。


「あれ」


 何か違和感を覚え、印籠を何度もにぎにぎする。力を込めて握り込めば、必殺ぱんちを打つためのナックルガードに変形するはずのそれは、平たい円筒形のままだった。その様子に、助さんが眉を顰めて問いかける。


「お嬢……ひょっとして」

「う、うん……力、使いすぎちゃったみたい。さっき、はちべえの上に落ちてきた岩を壊すのに、全力出しちゃった」


 光圀は気まずそうに微笑んで、自分の頭を拳でこつんと叩いてみせた。


「おいいいい!!!」


 助さんと格さんが、同時につっこんだ。


「どうするんですかお嬢……! あの巨人を、我々の武器だけで倒すのは不可能ですよ!」

「みっちゃん頼むよお! お願いだからペース配分考えよ? もう何回目だよこのやり取り! 行く街行く街、毎ッッ回同じこと言ってるよねえ!?」

「うわああん、怒んないでよお!」


 そんな三人の応酬は、猛烈な風を感じたところで途切れた。

 瞬時に身構える。

 見ると、朱色の巨人が、その巨腕を目一杯まで振り上げたところだった。拳の先端が地下空洞の天井にふれ、穴が空いたのか、わずかに灯りが差し込むのが見える。


[[子虫ども。俺を無視してキャイキャイやってんじゃあねえ]]


 問答無用。光圀達の反応を見ることさえせずに、振り上げた拳を叩きつけた。

 はずだった。

 朱色の巨人は、びたり、とその動きを止めていた。


[[なんだ! 急に身体が動からくらって……]]


 楽太郎は取り乱すが、自分の呂律が回らなくなっていることを自覚した時、何かに気づいた。


「これは……まひゃか……」


 朱色の巨人の胸から上あたり、巨大な地下空洞の天井付近に、もうもうと煙が立ち込めていた。白煙ではない。青みがかった薄紅の。たなびく様は、紫色の蛇のような。

 不思議そうにその様を見つめていた光圀の視力は、頭上遥かにある人物を見つけた。長く艶めいた黒髪を靡かせ、真紅の瞳を爛々と光らせ、不敵に笑う一人の女性。

 巨人の拳が天井に空けた穴。その淵に仁王立ち。背後には干し草のようなものが大量に積まれた荷台がある。煙はそこから発生しているようだった。


「あーっはっはっはっは! 楽太郎ぼっちゃん、お味はどうだい? これがあんたの望んでいた〈紫蛇香〉だよ!」

[[紅蛾……太夫!!!]]

「今燃やしてんのは、特濃の〈紫麻〉。本来は他の香り付けの葉っぱに細かく混ぜて、限界まで薄め使うもんさ。そうでもしないと、ひと嗅ぎで脳みそが参っちまうからね」

[[どこだ……その大量の乾燥〈紫麻〉、どこに隠していやがった!]]


 問われて太夫はもう一度嗤う。


「ここの地下通路をいつも通ってたってのに、全然気づかなかったのかい。あんたは何度も見てたはずだよ。〈紫麻〉は日光に晒すと香りも薬効も飛んでっちまう、特殊な麻だ。日陰で、適度な気温を保ちつつ、おまけに乾燥している場所なんて、そうそうない。しかもこの〈紫麻〉は煙都にとっては神聖なものだ。保存一つするのにも、験を担ぎたいってのが人情じゃないか」

[[……地下通路の、注連縄……か……!]]

「あっはっは、流石に気づいたかい。でも、もう遅い!」


 太夫は、きっ、と光圀を見た。距離は遥か遠く。厳密には表情さえ判然としない。しかし、光圀はその視線をまっすぐ受け取った。

 今だ、やっちまえ。

 そんな言葉を受け取った。

 助さん、格さんの方に視線を飛ばすと、光圀は走り出した。


「お嬢! しかし、印籠がまだ!」 


 光圀はにっと笑う。


「大丈夫、なんとかなる!」

[[この……腐れ女があああ!!]]


 まだ不安定な声色で、楽太郎が吠える。振り上げたままの巨腕の指を伸ばし、天井の穴の淵、太夫が立っているあたりの岩盤を弾き飛ばした。


「!!」


 衝撃に煽られ、太夫と、干し草を積んだ荷台がふわりと舞い上がり、落ちる。掴まるところなど一つもない中空へ投げ出された。地面に激突すれば助かるはずもない。すなわち、放り出された瞬間に、即死が確定している。

 その事実を。


「お姉さん!!」


 光圀が理解した時、首筋あたりに電撃のような衝撃が走る。

 助けなきゃ。苦しんでいる人を、人の命を。

 自分の命を投げ打ってでも、救わなきゃ。

 救いなさい。


「うわああああああっ!!」


 光圀は足を止めない。それどころか、更に早く、力強くその脚は駆動する。

 踏みしめた地面は一歩ごとに大きく砕ける。人の身を超えた脚力。

 少しも速度を緩めぬように、全身に力を込める。手に持った印籠も、強く、強く握りしめる。その時。


「印籠が……!」


 形を変えた。拳全体を覆うナックルガードの形状。

 ではなく。


「でっかくなった!?」


 脈動。

 漆塗のただの道具であるはずの印籠が、心臓のように脈動した。二度、三度、拍を打つ。その度に、大きくなる。

 それは拳を覆うだけにとどまらず、手首まで、肘まで、肩の辺りまでを覆う、さながら甲冑のような形状に〈進化〉していった。


「今! 助けまああああす!!」


 光圀の叫びに応えるように、肘の辺りから伸びた装甲板の隙間から、青紫色の炎が爆発した。その反動で、光圀は土煙を上げながら高く飛び上がる。


「うおおおおおおおっ!!」


 光圀の咆哮に、軽く気絶していた太夫が目を覚ます。


「 えっ、お嬢ちゃん!!?? 何その腕、飛んでる!?っていうか私、落ちてる!!」


 悲鳴をあげる太夫に軌道を合わせて飛び、光圀は太夫の腰あたりをしっかりと抱えた。


「お姉さん、大丈夫ですか!」

「え、は、はいっ!」

「なら、このまま行きます!」

「えっ、ちょ、ちょっと待って!!!」


 そのまま。

 左腕に太夫を抱えたまま、光圀は甲冑に覆われた右拳に在らん限りの力を込めた。意志に応えるように、再び肘の辺りから炎が上がる。巨人の胸元、楽太郎がいる〈大煙石〉に向かって、まっすぐ、矢のような速さで一直線。

 あまりにまっすぐ、真正面から突っ込んでくる少女に、楽太郎は胡乱な視線をむけ、ニタリと笑う。


[[マヌケが! 返り討ちにしてやる!!!]]


 巨人は、飛来してくる光圀をまっすぐ迎え打つ軌道で、巨大な拳を突き出した。


[[死にやがれえええっ!!]]


 抱えられたままの太夫は半泣きで絶叫する。


「無理無理無理無理! 死んじゃう、死んじゃうってーー!!!」

「大丈夫です、私は、絶対に負けません!」

「あんたの心配じゃなあああい!!」


 光圀は身体の中に満ちる力を、


「わたしの正義を拳に乗せて……叩いて直そう、この世界!」


 拳に集め解き放ち、叫んだ。


「必殺……印籠!! ぱあああああああああああんち!!!!!」

「ちょっと待ってってばああああああああ!!!!!」

 

 拳と拳がぶつかる。

 かたや、巨躯とはいえ人間の少女。対するは、人の域を超えた、城の如き巨体。

 どちらが強いか、などと一顧だにする必要がないほどのサイズ比。

 しかし。


「うおおおおおおおおっ!!」


 光圀の拳が、巨人の拳を叩き割る。そのままの勢いで手首を砕き、肘を砕き、片腕を丸ごと粉砕した。


[[バカな!!]]


 光圀は止まらない。拳が一直線、楽太郎に迫る。


[[ちくしょう、こんなところで……ちくしょおおおおっ!!]]


 拳が楽太郎の胸に届く。上半身は生身に見えたが、もはや完全に同化していたのか、石のようにひび割れ、


「ちく、しょう……」


 砕け散った。そこには、紫色の光を放つ〈大煙石〉だけが残った。

 石に突き刺さった拳に、光圀はわずかに力を込める。


「これで、この街の〈要石〉も浄化できます」

「浄化……?」

「この石が溜め込んだ人々の意思を取り除いて、元の綺麗な状態に戻すんです。この……印籠で!」


 そう光圀が言うと、石の光が強くなる。が、その光は煙のように石の表面から解き放たれ、見るまに光圀の拳に吸い込まれていく。次第に、〈大煙石〉の光は禍々しい紫色から、静謐な青白い色に変わっていった。


「綺麗……」

「この石は、本来、この土地の霊気の流れを滞りなく流すためのものだったんです。でも、人の願いを溜め込みすぎて、土地全体の霊気の流れを止めてしまっていた。……って、助さんが言ってました。だから、これで、元通り」

「よくわかんないけど、確かにここんとこ煙草の育ちもよくなかったし、街の奴らもギスギスして、なんか嫌な感じだったっけ。それも関係あったってことか」

「わかんないです」

「即答すんなよ……って、わあっ!?」


 足元がぐらぐらと揺れ始めた。

 主人たる楽太郎を失い、石が色を変えたところで、どうやら朱色の巨人の身体が崩れ始めたようだった。その巨躯を構成していた大小様々無数の鳥居同士を繋ぎ止めていた力が失われ、ボロボロと落下し始めていた。

 手近なところにあった鳥居になんとか掴まると、太夫は真顔になりつつ問いかけた。


「えーと……お嬢ちゃん?」

「光圀とお呼びください!」

「光圀ちゃん。これ、どうやって脱出するの?」

「あっ」

「あっ、じゃないのよ。ねえ、このままだと私たちも落っこちちゃうけど。この高さだと、どう考えても死んじゃうけど」

「多分、なんとかなります!」

「わかった。あんた、結構アホなんだ」

「違います!」

「違わねえよ! どうすんだよこれ!」

「大丈夫です……ほら!」


 光圀がきらきらとした視線を投げる先を、太夫は訝しげに見遣った。

 そこには。


「お嬢ーーーーーっ!!」

「みっちゃーーーん!!」


 崩れ続ける鳥居を足場に、凄まじい速さで駆け寄ってくる、助さんと格さんの姿があった。


「おら、おチビ! あんたもサボってんじゃない!」

「嫌だあっ! 足を滑らせたら落ちる! 死ぬーっ!」


 その後方には、泣き出しそうな顔で走る八兵衛の姿も見えた。


「お嬢! 紅蛾太夫は私と八兵衛が受け止めます! 早く! もうそこは持ちません!」

「みっちゃんはあたしの胸に飛び込んでおいで!」


 紅蛾太夫は驚いて光圀の顔を見る。光圀はきらきらとした笑顔で力強く頷くと、


「お姉さん、お気をつけて!」


 太夫の腰あたりを抱えて持ち上げ、放り投げた。


「あーーーーーーっ!!」


 助さんは走りながら太夫の落下地点を予測し、自らも飛び上がる。


「失礼……!」


 そう呟くと、空中で太夫の上体をふわりと捕まえた。八兵衛はその様子を右往左往しながら見ていたが、落ちてくる二人の着地地点で待ち構えキャッチしようと試みた。が、華奢な女性二人とはいえ人間二人を抱えるのは自分には不可能だと瞬時に判断して、やめた。

 軽やかに着地した助さんは何か言いたげに八兵衛を片目で睨みつけていた。

 その様子を見て安堵の息をついた光圀は、少しだけ屈伸したのち、


「よし、世直し、完了!」


 口中に小さく呟くと、飛び降りた。



※※※


「おいふぃいれふ。もうひとふぁらふらふぁい」

「お嬢、口に物を入れたまましゃべってはいけませんよ。〈美味しいです、もう一皿ください〉と、もう一度ちゃんとお願いしてください。ああほら、口の周りにあんこが」

「口ぐらい自分で拭かせなよ、仏頂面。っていうか、よくわかったな、今ので」


 崩壊する元・楽太郎の屋敷、通称〈煙城〉から命からがら脱出した光圀達がまずしたことは、埃まみれになった服を着替えるでもなく、身を清めるでもなく、食事だった。しかも、


「じ、尋常じゃねえ……もう100皿目だぞ……太夫さま、ほんとにこの嬢ちゃん達が街を救ってくれたんで……?」


 団子屋の主人が涙目になるほどの量を、着席してから延々と食べ続けている。

 助さんは少食、格さんも女人にしては健啖な方だが人並みの範囲内。問題は、光圀だった。


「そう。この光圀ちゃんご一行がさ、私を助け出してくれた上に、楽太郎坊ちゃんの悪しき野望まで打ち砕いてくれたってわけよ。正直、酷い目にあったけどね。っていうか、今は団子屋が酷い目に遭いかけているけれど」


 光圀の座る傍には、団子を食い終えた皿が高い塔を築いている。上に重ねて置き続け、どうしてこれが倒れずにいるのかが不思議なくらいの高さ。

 遥か彼方にあって、尚もこの国どこにいても見えるほどに高い、〈歪み城〉のように。


「太夫さまの頼みとあっちゃあ、仕方ねえ。しかし、いよいよ仕入れた粉が足りなくなっちまう。こりゃ、明日は仕入れのために店じまいだな」

「悪いね。この子らの分の代金は、私が払っとくから」


 店主は恭しく頭を下げると、追加の団子を作りに厨房に戻って行った。口いっぱいに頬張った団子を光圀が飲みこむタイミングを見計らって、太夫は話を切り出した。


「その、ありがとうよ。おかげで命拾いした」

「いえいえ。当然のことをしたまでです。世直しするのが、わたしの務めですから!」


 きらきらとした笑顔で得意げに胸をそらす光圀を、紅蛾太夫は少しだけ呆れたような笑顔で見つめた。


「世直し、ねえ。あんたたちの世直しって、いっつもこんなに街をめちゃくちゃにしてんのかい……?」

「そ、それは……」


 笑顔が引き攣る光圀に代わって、その問いには助さんが湯呑みを片手に淡々と答えた。


「正直、ここまで大規模の要石の暴走は初めてでした。構造物を操り、意のままに動く巨大な身体を作り上げるようなものは、特に」

「要石……さっき光圀ちゃん、〈この街の要石も〉とか言ってたけど、そんなのがこの国にはまだたくさんあるってことかい?」

「はい。人が集まり、街を築くような場所には、必ずあります。そして、今この世に存在する要石はほとんどが、この街の〈大煙石〉のように人の願いを溜め込み、汚れてしまっている。我々は、それを浄化する……世直しのために旅をしているのです。ですが、小さな要石は浄化しても、すぐにまた汚れてしまう。だから、特に強力な要石……〈大要石〉を全て浄化することが、我々の目的なのです」


 助さんの説明を、光圀はうんうんと頷きながら聞いていた。格さんはその頷き方に違和感を覚え、光圀の脇腹を肘で軽く突いた。


「みっちゃん、みっちゃん。わかってる? 説明」

「完全に理解しました」

「わかってないやつの言い方」


 そのやりとりに笑みを引き攣らせながら、紅蛾太夫は話を整理してみる。


「確かに、穢土(えど)のお城が消えてなくなってから、どこもかしこも大混乱だ。それだけ、人々が切実に何かを願ってれば、石も願いを溜め込む、ってわけか」

「その通りです。そして、残る〈大要石〉は、おそらくあと二つ」

「! もう直ぐじゃないか。その二つを浄化したら、この世は良くなるって?」

「……それは」


 助さんは一瞬表情を曇らせる。が、その空気を吹き飛ばすかのように、ぱあん、と手を打つ音が響く。


「なります! 絶対にこの世は、よくなります。だからお姉さんは、安心して待っていてください!」


 具体的なことは何一つ出てこない。

 太夫は呆れて笑ったが、このきらきらした笑顔とまっすぐな瞳に、少しだけ説得力を感じていたのも事実であった。


「ところで、あんたらどこの生まれだい? 妙なナリだし、なんか全員でかいし」

「微妙に失礼じゃない? あたしは山ん中の流浪の民の出さ。山にはなんでもあるけど、何にもなくって、飽きて出てきちゃった」

「私は、穢土の近くの生まれです。何年か前のあの件で、故郷は消えてしまいましたが」


 サラッと答える格さんと助さんに、いや、温度差よ、と太夫は突っ込みたくなったが堪えた。


「光圀ちゃんは?」

「分かりません!」


 良い笑顔でとんでもないことを言う。


「わたし、3年前に助さんに拾ってもらうより前のこと、何も覚えてないんです。いつかは何か思い出せると良いんですけど」


 あっさりと明かされた衝撃の事実に太夫は絶句したが、努めて明るい声色を絞り出す。


「そ、そうかい。とりあえず、私はこの街を立て直すとするよ。坊ちゃんにベッタリだった大店からは嫌われてるけど、味方も大勢いる。何せ、ただでさえ仕事ができるのに加えて、この美貌だ。私の言うことなら何でも聞く男どもを働かせて、あっという間に元の煙都に戻してみせる……いや、もっと豊かな街にしてみせるよ。だから、旅が終わったら、また寄っておくれ。たっぷりもてなしてやる」


 光圀達は口元に残ったあんこを指で拭い、笑顔で頷くと立ち上がった。


「じゃあ、次はお蕎麦屋さんをお願いします!」


 太夫は、次に光圀一行が来たときのもてなし方を再考することに決めた。


※※※


 光圀一行を見送った後、紅蛾太夫の右肩あたりに、青い蝶が停まった。

 いや、蝶のような形に見えたが、それは正確には蝶ではない。いや、生物ですら、物体ですらなかった。

 肩のあたりの空間が歪み、屈折した光が縁取る形状が、偶然にも蝶の羽のように見えただけであった。

 太夫はそれに驚くこともなく、目を閉じていた。何かを聴いているように。

 やがて目を開くと、口元に微笑みを湛えながら呟いた。


「ええ。確かに、〈光圀〉と名乗る女とその一行が来ました。あなたの言うとおり。……もうすぐ始まるんですね、あなたの〈世直し〉が」


 蝶が空間に溶けて消える。

 太夫は嫌な汗をかくのを感じていた。

 話している相手が恐ろしかったのもあるが、去り際に見えた、光圀の姿。

 風に煽られ、豊かな銀髪が翻った際に、一瞬だけ見えた首筋。

 そこには、背骨に沿って何かを抉ったような酷く大きな傷跡があった。

 この国ではほとんど見られないような巨躯に、その肉体と不釣り合いな程にあどけない表情や言動。

 いや、不釣り合いというよりも、

「不自然……だよね」

 太夫は口中に呟く。


 世話になったし、悪い子ではない。

 しかし、また会いたいという気持ちと同じ程度に、もう会いたくないと感じている。

 不気味だったから。


「何者なんだい、あの子は」


 首筋の酷い傷を思い出し、背中が冷えるのを感じた。



 これは、光圀の首の傷に纏わる物語である。

 傷の奥に埋められた秘密と悲劇によって始まり、そして終わる物語。 


 秘められたものの正体さえ知らずに、光圀は世直しの旅を続ける。

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