第二章「神殺し」

第一話「もう歩きません。ここで休憩します」

※※※


 あの時は、雨が降っていた。木陰でもしのげないほどの豪雨。熊笹に大粒の雨がびちゃびちゃと不快な音を立てるのを聞きながら、ただうずくまっていた。

 唾を飲み込むたびに燃えるように痛む喉と、瞬きのたびに、自分の眼球の温度で瞼が火傷しそうなほどの高熱。栄養失調と不衛生な場所に居続けたせいで、とんでもない体調不良だった。

 それでも歩き続けたが、限界だった。しかし、体は動かないが、目だけは前を向いていた。浅黒くなった顔色の中で、眼だけがどろりと鈍く光る。その原動力とは、


「……殺す……」


 殺意だった。自分の全てを奪ったものに対する復讐心。

 だが、その対象がどこにいるのかもわからない。

 あてもなく探し求め、国中を放浪し、その結果は空振り。しかし絶望はしなかった。殺意が、絶望を拒絶していた。

 だが、身体がいよいよそれについて行けなくなっていた。彼の矮躯では、彼の殺意に耐えられない。

 喉の痛みに嘔吐のような咳を何度もする。その度に頭蓋が揺れ、意識が溢れそうになる。

 何度めかに咳き込んだ時、ついに限界が来た。

 前を見据えようとする眼球に強制的に瞼が下りる。同時に、意識にも重い幕がかかる。


 寸前。


「きみ! だいじょうぶ!?」


 誰かの声がした。

 ぼんやりと曇る視界を、白い影が埋め尽くす。

 声は少女、いや、その舌ったらずな声音は童女と言ってもいいくらいの幼さを感じさせるが、その姿は大きい。声の主は、無遠慮に彼の肩を掴み揺さぶる。

 しかし。

 その時の疲弊し切った彼には、身体の裡に殺意しか残っていなかった。

 だから、反射的に彼の小さな手は、声の主の喉笛に伸びていた。


「お嬢! ……こいつ、何を」


 別の女の声がする。明らかな警戒の感情。

 必死に、少女の喉を掴んだ手に力を込めるが、小石を拾うほどの力も入らない。

 手は力なく喉から滑り落ちた。


「いきなり首絞めようとするとは、やべえ奴だな」


 また違う女の声。呆れたように聞こえるが、本心はわからない。

 否定的な声を一顧だにせず、少女は彼の眼前に顔を寄せた。


「わたし、光圀。世直しのために旅をしてるんだ。あなたのこと、絶対に助けるよ。だから、もう少しだけ、がんばって!」


 みつくに。

 光。國。

 彼は、その名前に覚えがあった。


 朦朧とする意識の中、小さな灯火のように消えない殺意が、ちらり、と大きく揺れた。

 心の中の炎を感じながら、彼は決意した。

 この女たちに着いていく。悲願を叶えるために。何があっても。

 どれだけ歩くことになったとしても。


※※※


「やだあ! もう歩けないよお! もうやだ、またこの村、誰もいなあい!」


 〈煙都〉の要石を浄化したのち、光圀一行は西を目指していた。遥か後方に見える〈歪み城〉を目印に、正確には〈歪み城〉が後ろに見えるように歩き続ける。西に進路を取った根拠は、光圀が感じる、他の要石の気配である。勘とも言う。川の流れる街道に沿って丸一日歩き続けたあたりで、光圀が騒ぎ出した。原因は空腹である。

 近くの村々の情報は〈煙都〉で聞いていたため、川沿いにあるいくつかの村のうちのどこかで休憩を、と思っていたが、どこも人が一人もいない状態なのであった。川沿いに歩いて、三つ目の村。今度こそ、と意気込んで入ってみたものの、結果は変わらず。そのショックもあり、ついに光圀の空腹が限界を迎えていた。


「どういうこった、こりゃあ。川沿いの村、軒並み廃村になっちまったのか?」

「……にしては、畑の作物が育っています。廃村になるような状況では……」


 眺めると、確かに、水瓶や農作業具などの日用品はつい最近まで使われていたような痕跡があり、長いこと放置されていたとは考えづらい。まるで、村民全員が連れ立ってどこかに出かけたかのような。

 そんな様子に一同が首を傾げていると、


「もう歩きません。ここで休憩します」


 光圀がいきなり座り込んだ。


「もう我慢の限界です。誰ですか、こんなところまで来ようって言ったのは」


 なぜか敬語で怒り始めていた。


「みっちゃんだね」

「言ったけどさあ〜! 言ったかもしれないけどさあ〜!」

「っていうか、次の〈要石〉がこっちにあるって、お前が言ったんじゃねえか」

「そうだけどさあー! でも、こんなに誰もいない村ばっかりだなんて思わなかったんだもん!」

「まあ、そりゃそうだけどさ。〈要石〉は往々にして、人の願いに触れやすいところに出現する、って言ってたっけか。光圀……周り、人の気配すらねえけど」

「知らないよお〜! この辺りの村のどこかにあるんだもん、絶対! でももう歩きたくなあい!」

「お嬢、早く行きますよ」

「助さんがいじめるう! もういや! お腹すいたよお!」


 助さんは短くため息をつくと、八兵衛に目配せした。

 やむを得ません、あれを出してください、と口調まではっきり伝わりそうなアイコンタクト。八兵衛は気まずそうに頷くと、背中に背負った荷物からゴソゴソと包みを取り出した。〈煙都〉で(大量に)持たされた弁当だった。

 が。


「八兵衛……何か少なくないですか」

「え、な……何が?」

「お弁当です」

「す、少なくねえよ」

「少ないですよね。煙都を出た時には、一人一日三個、お嬢は六個で計算して、大体3日分あったはずです。丸一日歩いてますから、後二日分はあって然るべきなのですが」

「……うん」

「あといくつ残ってますか?」

「……二つ」

「何故ですか」

「……食べちゃった」

「……」


 助さんは数秒黙ったあと、背負った荷物を丁寧に地面に置いた。

 次の瞬間。


「ちょっとちょっとちょっとちょっと! やめろやめろやめろ!」


 目にも止まらぬ速さで抜刀した助さんの腕を、格さんが止めていた。


「何故止めるんです。この男、お嬢に拾われたご恩を仇で返すとは無礼千万。止めないでください。これも世直し」

「気持ちはわかる! 気持ちはわかるけど、落ち着けーっ! ほらおチビ! あんたがとっとと謝るんだよ!」


 しかし格さんが振り向いたその先には八兵衛の姿はなく。遥か彼方の民家の陰から恐怖に震えつつこちらの様子を伺っていた。


「いねえし! まじでふざけんなお前!!」

「どいてください。追いかけて、斬る」

「やめろってんだろうが!」

「おなかすいたー! ごはんー!」

「ああもう、最悪だあ!」


 怒れる助さんを食い止めるも、恩知らずの少年は逃げ出し、チームの中心たる巨躯の少女は駄々をこね。

 世直しの前に、自分たちの仲を直したほうがいいんじゃないかと思う格さんであった。


※※※


 数分後。

 落ち着きを取り戻した助さん、頭をぶん殴られて項垂れる八兵衛。残るお弁当二個を平らげ、ひとまずお腹の膨れた光圀。


「「「すみませんでした……」」」


 声を合わせる三人は、腕を組んで仁王立する格さんの前で正座していた。


「こういうの、本来あたしの役割じゃねえだろうが。あたしはもっとテキトーに楽して旅したいんだよ! 仏頂面、あんたが取り乱してどーすんだよ! この一行、あんたがシャキッとしてないともう、全然ダメだってわかってんだろ!」

「面目ない……私がおにぎり屋さんで秘密裏に注文していたスペシャルなおにぎりまで食べられてしまったかと思うと、自制が効かず」

「なにそれ」

「それはその、こう、一つのおにぎりに、前菜、主菜、食後の甘いもの、全てを封じ込めた完全なる」

「あ、もういいです」

「何ですって……!」


 そんな和気藹々とした会話の最中、突然光圀が立ち上がった。

 大きな目をさらに見開き、村の奥の山の方を見る。


「! お嬢、どうしました」

「いる。困ってる人が……!」

「何だそりゃ。あっちは山だぞ」

「おチビ。みっちゃんの〈コレ〉は、外れた試しがない」

「マジかよ……」


 一同も同じ方角に目を凝らす。すると、山を覆う木々が不自然に揺れているのが見えた。

 風が吹いているわけではない。見ると、木々の間から何かが近づいて来るのが見えた。

 走る、小柄な人影。少女のように見える。

 それと。


 その少女を追いかける、あまりにも巨大な猪だった。

 その肩までの高さは、光圀の頭よりも高い。


「たいへん、助けなきゃ!」

「応!」


 弾かれたように、一同は少女の方へ走り出した。ただし、


「はちべえ、どこ行くの!!」


 一名を除く。


「嫌だあッ! あんなのに襲われたら、俺は死んじまうッ!」


 一同と逆方向に猛ダッシュする八兵衛(すでに見えない)を尻目に、光圀一行は接敵した。

 格さんが木々の間を軽々と走り抜けると、少女の身体をひょいと持ち上げ、巨猪の動線から外す。

 助さんが目にも止まらぬ抜刀術、峰打ちで前脚を打ち据え。

 痛みにのけ反った猪の鼻面を、


「わたしの正義を拳に乗せて! 叩いて直そう、この世界!」


 光圀の鉄拳が、


「必殺! 印籠……ぱあああんち!!!」


 正面から打ち砕いた。

 分厚い頭蓋骨の中の脳髄が強かに揺れ、巨猪はその場に倒れ伏した。

 格さんに抱えられた少女は足を地に下ろすと、巨獣を一瞬で沈黙させた、三人の女傑の顔を驚きに満ちた表情で見回した。


「ありがとう……あんたら、すごいな!」

「どういたしまして。ねえ、どうしてあんな大きいのに追いかけられていたの?」

「あはは、ちょっと失敗しちゃってさ」


 見ると、少女は背中に弓や矢筒を取り付けている。


「あたしらの村……この先の山間にあるんだけど、そこは人を襲う獣が増えちゃったから、山菜も取りに行けなくって。でも、いつも山菜を売りに来てくれる東の村の人を待ってたんだけど、全然連絡来なくってさ。だから自分で狩りのために東の山まで行ってたんだけど、三日三晩山にこもってたら、あそこのヌシの巣穴に間違えて入っちゃったみたいで」

「ずっと走って逃げてきたんだ。す、すごいね……!」


 言われて、少女は自慢げに、にやりと口元だけで笑った。赤みがかった癖っ毛が揺れる。


「へへ、足の速さは自慢なんだ……山菜も獣も全然獲れなかったけど、走ったら腹減っちまった」


 と、少女が言い終わるが早いか、光圀と八兵衛のお腹が同時に鳴った。


「あんたらも腹へってんのか……ここの山を一つ超えて、ちょっと登ったとこがウチの村。助けてもらったお礼もしたいし、案内させてよ。 ちょっと今、いい雰囲気じゃないんだけど」


 よだれを慌てて拭う。


「え、どういうこと? ごはん無いの?」

「お嬢……」

「飯なら少しはあるよ。そうじゃなくて、ウチの村、今ちょっと揉めてんのさ」

「揉めてる?」


「山の神様が死んだ。殺されたんだよ、最近。だから村中大騒ぎ。ウチの村は、なんでも神様頼みだったからね」


 少女は少し嬉しそうに笑った。

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