「……そんなことが……許されるんですの……?」


 母の昔語りをじっと聞いていたロザリアは、強張った顔で絞り出すように言った。


「許されるわけはないでしょう!?」


 怒りのこもった強い調子で一言答えた母の手は、強く握り締められて小刻みに震えている。


「許されてたまるものですか……」


 悔しそうに呟いた母が、先を続けるのにややしばらくかかった。


「でもね……あの当時は、それが罷り通ってしまっていたの」

「何故……ですの? 皇室が道を踏み外さないよう矯正するのも、四大公爵家の務めでございますよね?」

「巡り合わせが悪かったとしか言えないわね……。先帝の権勢が最も強かった時期と、四大公爵家の発言力が最も弱まった時期が重なってしまっていたのよ」


 その当時、筆頭公爵家の先代当主は元々が学究肌で政治力はあまりなく、次代であるレナートはまだまだ政権を掌握するには至っていなかった。

 他の公爵家もまた、当主が代替わりした直後だったり、高齢だったり、また控えめな性格だったりと、先帝の横暴を阻む抑止力が不足していた。


「わたくしは、まさかお姉様がそんな目に遭っていたなんて気づきもしなかった……。お姉様の懐妊は実家経由で知ったわ。わたくしは何も知らずに……お祝いの手紙や贈り物を送って……」

「お母様……」

「その後すぐ……お姉様は体調を崩しがちになったことを理由に、実家で出産したいと言い張って強引に辺境伯領へ移ったの。わたくしがそれを知ったのは、産み月が近くなった頃だったけど……」




 アナマリアは姉の見舞いのために里帰りを願ったが、実家のモンターニュ辺境伯領は遠く、一人での旅は夫が断固として許さなかった。

 だが、レナートが妻の願いを無下にするはずもなく、何とか職務の折り合いを付けて同行してくれることになったため、結局のところ実家に到着したのは出産間際になってのことである。


 久々に再会した姉の様子は酷い有様だった──


 瘦せ衰えているのに腹だけが大きく、目は落ちくぼんで隈が浮き出、美しかった姉の容貌は見る影もない。

 うつらうつらと浅い眠りを繰り返し、悪夢を見るらしく絶叫しながら目覚めては、蒼褪めた顔で泣き続ける。


 両親を初めとする家人たちは、長く続くマリアンヌの異常な状態に疲れ果てていた。

 アナマリアには訳が分からない。幸せに暮らしていたはずの姉が、ようやく待望の子を授かったと言うのに、何故こんな状況に陥っているのかが。


 到着した翌々日にマリアンヌは産気づき、難産に苦しんだ挙句ようやく子を産み落としたのは、更にその翌日だった。

 時間がかかりすぎたために家人は一旦引き上げ、出産の瞬間に立ち会ったのは、偶々様子を見に来たアナマリアと介助の侍女二人だけである。


 産湯を使い、おくるみに包まれた赤子を抱いて、侍女の一人がぐったりしたマリアンヌに声をかけた。


「マリアンヌ様、おめでとうございます。子爵様の跡継ぎでいらっしゃいますよ。ご覧下さいまし、とてもお美しい男の御子でございます」


 侍女は子爵に会ったことがない。だから、知らなかった。


 力なく目を開けたマリアンヌが赤子を認め、その目が大きく見開き、絶望の色に染まっていく。アナマリアもまた、驚愕のあまりに目を見開いていた。


 悲痛な叫びを上げてマリアンヌは卒倒し、それに慌てふためいた侍女が、抱えていた赤子を取り落としかけて抱き直す。

 その拍子に包んでいた布がずれ落ち、赤子の小さな背中が露わになった──


「聖印……!?」


 背に聖印を刻まれた銀髪の赤子──アナマリアは、一瞬で事情を把握した。即座に口留めをし、侍女にレナートを呼びに行かせた。


 その後はレナートの采配で、辺境伯夫妻と密談の上、マリアンヌの出産は死産だったことにされた。

 そうして、生まれた子は介助の侍女二人と共に、レナートが秘密裏に帝都へ連れ帰った。


 アナマリアは一人、実家に残ってマリアンヌに付き添い、落ち着くのを待って詳しく話を聞きだした。


 先帝から凌辱を受けた後、供奉の一人だった老侍女に身を清められながら、爵位を継承したばかりの夫のためにならないからと、口を噤むよう強く言い含められたこと。


 結局、何も言えないまま夫と共に領地に帰ったものの、心労のあまり体調を崩して寝込んだこと。医師にかかったことで懐妊が発覚したこと。


 先帝に孕まされたと絶望しながらも、夫の子であるかもしれないと一縷の望みを抱いていたこと。

 その僅かな可能性のために堕胎することもできず、十月十日の間、身を削る思いで日々を過ごしてきたこと。


 純粋に懐妊を喜ぶ愛する夫を見ているのが辛く、身を病み心を病み、ついには耐えられなくなって実家へ逃げたこと。

 そのまま床に伏し、あの悍ましい経験を夢に見てしまうがために、まともに眠ることもできずに、ますます心身を損なっていったこと。


 他の誰にも事情を話すことなく、マリアンヌはアナマリアだけに事情と心情を伝えて、そのまま短い生涯を閉じた。


 最期の言葉は──


「……お腹の子が悍ましくて……流れてしまえば良いって……そうなるよう必死で祈ったのに……神は叶えて下さらなかった……。あの時……夫に全部話して、懐妊が分かった時にすぐ堕してしまえば良かった……。そうすれば、こんな思いをしなくて済んだのに……」 




 重苦しい余韻を残して終えた、母との二人きりのお茶会──


 母が去った後、一人で続き部屋の寝室に向かい、ロザリアは重い気分でソファに身を預けた。

 寝台の上で昼寝をしていたブランがのっそりと身を起こし、ロザリアに気づいて寝台から飛び降り、膝元にすり寄ってくる。


 普通の獣ならば三年もあれば成獣になるのだろうが、あれから十年になると言うのに、未だに幼獣のままである。

 さすがに初めて見た時のような頼りない姿ではないものの、まだまだロザリアが抱えられる程度の大きさでしかなかった。


 そのブランを膝に抱え上げて抱き締め、縋るように柔らかい毛並みに顔を押し付ける。

 

「ブラン……叔父様の気持ちを慰められるかと思って、お母様にお話を聞いたけれど……あんなこと、とても叔父様にはお話しできないわ……」


 愛情深い両親に大切に育てられてきたロザリアは、自分の考えが甘かったことを思い知らされた。

 親が子を愛するのは当然だと、そんな思い込みがあった。


 レオンは出自を聞かされて、見も知らぬ母親が腹の子を呪っていたと思い、深い絶望に捉われてしまったのだと言った。

 だが、願望を夢に見たのかもしれないと言っていた、腹の子を慈しむ母親の姿の方こそ、ロザリアには真実なのではないかと思えていた。


 レオンの心が救われる一助になればと思い、わざわざ母を問い質したのだったが、現実は残酷だった。

 そんな落ち込んだ気持ちを慰めるように、ブランが頭を擦りつけてくる。その頭を撫で続けているうちに、大分気分は浮上してきた。


「そうよね……わたくしが落ち込んでたって仕方ないわよね……」


 同調するような思念が伝わってくる。そんなブランに癒されながら、ロザリアは今後のことを考えた。


 あの舞踏会の直後、正式な聖卓会議を開くために皇宮へと資格者たちは移動したが、心労のあまり皇帝は到着するなり倒れてしまった。

 そのまま寝込んでしまったがために、未だに聖卓会議は開かれていない。


 本来の予定されていた日程ならば、教皇は聖地に戻るため発つ頃だったが、聖卓会議を経ずに帰るわけにもいかず、しばらく帝都に留まることになっている。

 当然、供奉の聖騎士団も同様で、任務に戻った聖騎士団長のレオンも皇宮から動けない。


 教皇のブランシュ公爵家への滞在が実現するかはまだ分からないが、両親の了解は取ってあり、返答次第でいつでも対応できるよう準備はされているはずだった。


「叔父様……」


 ブランの背を片手で撫でながら、そっと唇に指先で触れる。あの時、大胆にも自分から口付けた。

 レオンの唇の感触を思い出し、思わず頬を赤らめる。ふと、あの後の会話が思い出された。




 「……お嫌でしたか?」

「嫌…だとは思わなかった、多分……。正直、驚きはしたが……初めてだったし」


 あからさまに戸惑いながらのレオンの返答に、ロザリアもまた戸惑った。


「え……叔父様は口付けをされたことが無かったのですか?」

「誰とするんだ?」

「叔父様は、とても女性に人気がおありですし……その、どなたかとお付き合いされたこととか」

「一度もないよ」


 きっぱりと否定されて、心底ほっとした。


「では……今まで女性に触れたことはないのですね?」


 安心して念押しのつもりでの問いだったが、レオンは気まずそうに僅かに目を逸す。そんな態度を見咎めて、思わず強く追及してしまった。


「……あるのですか? 誰ともお付き合いしたことがないのに?」

「口付けはなかったが……そういう経験はある……」


 言いにくそうに、もの凄く言いにくそうに、ロザリアの責める眼差しに応えてレオンは口を開いた。


「……学院を卒業してすぐ、私は騎士団に入ったが……その、ああいう所では、年若い見習いに対して洗礼があるのだ。上官や先輩たちから……」

「……洗礼?」

「入団直後、訓練も始まらないうちに先輩らの引率で、有無を言わさず連れて行かれるのが恒例になっている……」


 よく分からず、更に問う。


「どちらへですの?」

「……娼館だ。私の場合は筆頭公爵家の子弟ということもあって、いわゆる高級娼館だったが、副団長に有無を言わさず連れて行かれて……そこで、その……強制的に経験させられた」


 その言葉の意味を把握するのに、ややしばらく時間を要した。理解が及ぶにつれて、ロザリアの抜けるように白い肌が朱に染まっていく。


 そうして、レオンが居心地悪そうにしているのに気づき、慌てて話を切り上げて、逃げるようにサロンを後にしたのだった。




 「どこかの令嬢がお相手でなかっただけ、マシなのかしら……」


 少々複雑ではあったが、納得できないわけではない。世襲貴族は家門の存続や血の継承を重要視している。

 後継を得るためには必要な行為なのだから、結婚前に貴族の子弟が手ほどきを受けることは必然ではあった。


 だが、納得はできても心がざわつくのはどうしようもない。

 もし、その相手が一般女性、しかも恋人だったならと思うと、心臓が焼け付くように痛む気がした。


「わたくし、やっぱりもっと積極的に行動しなくては……。聖地に戻られたら、またしばらくお会いできなくなってしまうもの。帝都にいらっしゃる間に、せめて女性として意識して頂きたいし……」


 まずはレオンにとっての、恋愛の対象内に入らなければ話にならない。

 そう決意を新たにし、父に倣って外堀から埋めていくべきか、本人の意識改革が先かなど、つらつらと考え始めた。


 いつの間にか、腕の中のブランはまた寝入ってしまっていた。

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