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そうして、マリアンヌの卒業が間近に迫り、正式な婚約手続きが取り沙汰され始めた頃、アナマリアは姉から相談を受けた。
他に相談相手もなく、まだ十二歳でしかない妹に頼るほど、マリアンヌは追い詰められていたのだろう。
「……わたくしには、レナート様のお相手なんて無理だわ。こんな気の弱いわたくしが、あの公爵家の女主人なんて務まる訳がないでしょう……?」
それは間違いない。実のところ両親も、内々に婚約しているとはいえ、マリアンヌでは筆頭公爵家の夫人は相応しくないと悩んでいた。
だが、公爵家から何も沙汰がない以上、格下の辺境伯家から破談を申し入れる訳にはいかない。
「それに、わたくし……お慕いしている方がいるの……」
「ええ!? お姉様ったら、いつの間に……」
アナマリアの問い詰めに、姉はぼそぼそと涙ながらに答える。
「学院に行ってもお友達もできなくて……居場所がなくて……講義以外はずっと図書室にいたの。一人で本を読んでいれば、気持ちが落ち着いたから……。わたくしみたいに毎日、図書室に通うような方なんていないのだけど……それでも、よく図書室に来ている方がいて……」
いつも来ていますね──と声をかけられ、それから少しずつ少しずつ話をするようになったとのこと。
入学してから半年目くらいに声をかけられて以来、数年かけて、本当に少しずつ少しずつ関係を深めていったのだと。
「とても物静かで、お優しい方で……一緒にいても怖くないの。あの方となら、無理をしなくても自然でいられるの……。レナート様とは違う……。わたくし……最初にお会いした時から、レナート様が恐ろしくて……」
「レナート様だって、お優しい方だと思いますけど……。わたくしみたいな子供にも、きちんと向き合って対等にお話しして下さる方ですよ?」
「それは、アナマリアだからよ……。貴女はわたくしとは違うもの……」
結局、アナマリアは姉に頼られて無下には出来なかった。それで──手っ取り早く、当の婚約相手であるレナートに突撃したのである。
「レナート様は、お姉様のことをどう思っていらっしゃいますの?」
「どう、とは?」
「正直申し上げて、姉ではレナート様には不釣り合いでございましょう?」
明け透けな物言いに、レナートは目を丸くしながらも面白そうに答えた。
「妹の君がそんなことを言うのもどうかと思うけど」
「この場には、子供のわたくしだけなのですから、建前は結構でございます。本音をお聞かせ下さいませ」
「本当に君は、面白いな。そうだな……本音を言うと、君と姉君の年回りが逆だったら良かったのに、とは常々思っていた」
「は……?」
唐突な本音に、アナマリアは面食らった。そして初めて、レナートをそういう対象として考えてみた。
初恋もまだで、誰かを異性として意識することもなかったが、悪くない──そう思えた。
「わたくしも、結婚するならレナート様のような殿方が理想ではございますけど……」
思わず二人して、はたと見つめ合ってしまい、二人揃って苦笑する。
「正直、マリアンヌ嬢には、四大公爵筆頭家の当主夫人という立場は荷が勝ち過ぎていると思う。最初に会った時から、彼女は私を恐れていただろう? 私と目を合わすこともできず、話をすることもできず……毎回、会う度に委縮しているのを気の毒に思っていた。だから一度、モンターニュ辺境伯と相談した方が良いかとは思っていたんだが……なかなか機会がなくてね」
「そうですわね……父には国境を護るお役目がありますもの。滅多に帝都には来られませんし」
「ああ。私も皇宮で宰相を補佐する仕事に就いているから、領地に帰ることもままならないしね」
そう思案しているレナートを見つめて、アナマリアはじっと考え込む。本当に悪くないかも──そう思ってしまった。
「レナート様、今はお仕事が大層お忙しそうですが、当分はご結婚なんてなさるお暇もないのではないですか?」
「まぁ、確かにそうだね。今は仕事を覚えるのに忙しいし、いずれは政権を掌握するための道筋を付けなきゃならないしね。当分は、そんな気にはなれないかな」
「そんな気になるまでに、六年ほどかかりませんか?」
アナマリアが悪戯っぽく笑った。虚を突かれたような顔をしたレナートが、探るような目を向けてきた。
「何が言いたい?」
「わたくしが学院に入って卒業する頃には、そんなお気持ちになっていらっしゃらないかしら、と」
「本気で言ってるのか?」
「けっこう本気でございます」
そう笑ってみせると、レナートはぷっと吹き出し、大笑いし始めた。
その後、両家の話し合いが行われ、内々だったレナートとマリアンヌの婚約は立ち消えになり、代わりにアナマリアとの正式な婚約が結ばれることになった。
そうして、マリアンヌは密かに慕い合っていた子爵令息と卒業記念舞踏会に出席し、そのまま婚約、結婚へと至ったのであった。
子爵領は畜産を主産業とする温暖な南寄りの領地で、田舎ではあるものの、のんびりとした風土がマリアンヌには合っていたらしく、慎ましくも幸せに暮らしていた。
一方のアナマリアも、元々気の合っていたレナートとは好ましい関係を築き、その成長に伴って恋愛感情もいつしか芽生え、順調に育っていった。
学院を卒業した翌日、待ちかねていたレナートに強引に押し切られ、式を挙げることになるとは夢にも思わなかったが。
いつの間にやら外堀は完全に埋められ、後は花嫁を連れてくるだけといったほどに用意周到、準備万端に整えられていた盛大な結婚式には、ただただ驚くやら呆れるやら──
だが、忙しい執務の合間を縫って、自分のためにそこまでしてくれたことは、アナマリアも素直に嬉しかった。
幸せに暮らしていたマリアンヌだったが、結婚から五年経っても子には恵まれておらず、それが気になり始めていた。
そして、アナマリアの結婚式には折悪しく、舅である子爵が病の床に就いており、領地を離れることができなかった。
やがて間もなく舅は身罷り、子爵位継承のため皇帝へ謁見する夫に伴い、マリアンヌは久しぶりに帝都を訪れた。
丁度この頃、老いた皇帝が異国から献上された美姫に篭絡されて以降、人の道を外れた行いが加速しつつあった。
気に入った者を皇帝命令で寝所に引き込み、それが問題となって四大公爵家から強く非難されるや、既婚未婚を問わず隠れて女性を襲ったり、外から密かに若い女性を攫ってこさせたりと乱行は留まるところを知らない。
皇宮では、既に女性が一人で歩くことは危険視されつつあり、帝都に住む貴婦人たちは公式行事でもなければ皇宮に寄りつくこともなくなった。
どうしても皇宮に出向かなければいけない場合には、必ず身内の男性か護衛を同行させるよう、貴族の間で密かに注意し合ってもいた。
そんな不穏な情勢など全く知らないマリアンヌと夫は、何一つ警戒することもなく皇帝に謁見し、爵位の継承を許された。
その場で皇帝に目を付けられたことも気づかずマリアンヌは、夫が役人と手続きをしている間、一人で控えの間へと向かった。
そして──
「おや、子爵夫人ではないか」
滅多に来ない皇宮で迷ってしまっていたマリアンヌは、途方にくれていた。そんなところへ、先ほど謁見した皇帝が供奉を引き連れて通りかかり、そう声をかけてきた。
「へ、陛下……」
「子爵の姿が見えないようだが?」
「は、はい……や、役人と爵位継承の手続きを……」
慌てふためいて礼を取り頭を下げたまま、しどろもどろに答えるマリアンヌは気づかない。
皇帝が自分を舐めるように見ていたことに。
「それで、其方はこんなところで何をしているのだ?」
「もっ、申し訳ございませんっ……。ひっ、控えの間へ行こうとして……まっ、迷って……」
咎められたのだと青くなったマリアンヌは、必死に言い訳した。
そんな様子を見ていた皇帝の口元に下卑た笑みが浮かび、目に獰猛な光が灯る。
「そうか、それでは付いてくると良い」
「え……?」
「余が案内してやると言っておるのだ」
「そっ、そんな滅相もございませんっ……。陛下にそんなっ……」
「良い、良い。どうせ、通り道だ」
好々爺然とした物言いに、何も知らないマリアンヌが、その善意を疑うことはない。
ただ、皇帝に道案内をさせるような大それたことをさせるわけにはいかないと、縋る思いで供奉の者たちに目を向けた。
目の合った侍従は目を逸らし、たった一人の年老いた侍女はずっと下を向いている。他の侍従や近衛騎士たちは、誰もが苦しげに顔を背けていた。
平静を欠いていたマリアンヌは、彼らのそんな様子に気づけなかった。
「それ、そこだ」
しばらく歩いた後、一つの扉を示されて礼を言おうとすると、皇帝は優し気に言った。
「少し、話をしよう。子爵領の様子を聞かせてくれないかね」
「え……で、でも……わたくしは、その……あまり領地のことには……」
「まぁ、そう言わず──」
慌てて固辞したが、有無を言わさぬ強引さで部屋に押し込まれ、マリアンヌが動揺しているうちに、背後で扉が閉められる音がした。
振り返ると部屋に入ったのは、皇帝一人。供奉の者たちは誰もいなかった。
「え……? あ、あの……?」
様子を一変させてギラギラとした目を向けてくる皇帝に、マリアンヌは恐怖を感じて後ずさる。
ふいに腕を掴まれ、部屋の奥へと引きずるように連れていかれ、初めてここが控えの間ではないことに気づかされた。
そこには沢山のソファはなく、大きめの寝台が一つあるだけだった──
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