第三章 束の間の日常
1
「わたくし、叔父様にふられてしまいましたの──」
紅茶を一口飲んで、ティーカップを手にしたまま、ロザリアはこともなげに紡ぐ。
「──ですから、慰めて下さいませ、お母様」
そう、にっこりと優雅に微笑む娘の爆弾発言に、母アナマリアは珍しくも取り乱した様子を見せた。
ソーサーに戻そうとしていたティーカップが、不作法にもカチャンと音を立てている。
「え? ええっ!? リア? どういうこと!?」
二人きりでティータイムをと望んだのはロザリアだったが、母は娘の様子に何か思うところがあったらしい。
侍女に命じて、ティールームではなく娘の自室にお茶の準備をさせた。
そうして、しばらく部屋に立ち入らぬよう侍女たちに申し付けて、二人きりで始めたお茶会──
卒業記念舞踏会の翌々日、レオンが休暇を終えて、朝早くに教皇が滞在している皇宮へ向かった日の午後のことであった。
そんな慌てた母の様子がおかしくて、ロザリアは悪戯っぽくクスリと笑う。
「リア? もしかして、わたくしをからかっているの?」
少し拗ねた声になったのに気づいて、ロザリアは表情を戻し小さく首を振る。
「いいえ、本当のことですわ。舞踏会の日、ヴィーたちを見送った後で、叔父様と二人きりでお話しする機会がありましたの。お手紙は頻繁にやり取りしていましたし、猊下が帝都で儀式をされる際にお姿を見ることもありましたけれど……この二年あまりの間、顔を合わせてご挨拶する機会すらありませんでしたわ。だから──」
ティーカップをソーサーに戻して、目を伏せながら自嘲気味に言った。
「──久々に間近でお顔を見て、お声を聞いて、寄り添って温もりを感じて、我慢できなくなってしまったのかも知れません」
「それで、告白……してしまったのね?」
「はい」
綺麗な微笑みを浮かべて返すと、母は溜め息を吐いて紅茶を口にしてから、娘の顔をまじまじと見つめてきた。
「その割に、あまり落ち込んではいないようだけど? わたくしが慰める必要があるのかしら?」
「ええ、落ち込んではいませんわ。ただ……時期尚早だったなと思いまして。わたくしとしたことが、少々焦ってしまいました。やっと重荷から解放されて、間近に叔父様を感じて、浮かれてしまっていたのです、多分……」
「そう……それで? レオンへ長年の想いを告げて、そのレオンはなんと答えたの?」
思わず苦笑いが浮かぶ。
「そんな風にわたくしを見たことがなかったと、思いっきり困惑されてしまいましたわ」
「まぁ、そうかもしれないわね……」
「叔父様は、わたくしの向ける愛情を疑ってはおられませんし、わたくしのことも愛して下さっています。でも、愛情にもいろいろありますでしょう? それが叔父様には分からないのです。叔父様には、愛情を受ける機会も愛情を向ける機会もなかったのですもの……わたくし以外には」
母は目を瞠って、いぶかし気に問う。
「リア?」
「ご自分が養子であると小さい時から……初めから知っていた叔父様は、とても……とても孤独だったのです。だから……愛情というものが分からないまま育ってしまったのですわ」
「待って、リア。わたくしは……」
「お母様を責めているわけではありません。ましてや、お父様やお祖父様もです。お父様はともかく、お祖父様は確かに親というよりは、師のようでしたけれど……でも、叔父様を大切にしていらしたのは、わたくしだってちゃんと分かっています」
そう宥めるように言って、ロザリアは推測を述べる。
「多分ですが……叔父様がご自分で線を引いてしまっていたのだと思いますし……。自分は貰われるだけの価値くらいはあったのかもしれないが、養子に出した側にはなんの価値も無かったのだろうと、それは低い自己評価でございました」
「レオンがそう言ったの?」
「はい……少なくとも、わたくしと出会ったあの頃までは、そう思っていらしたようです」
「なんてこと……」
母は、片手で顔を覆って消え入りそうな声で呟く。そんな姿を見つめながら、ロザリアは本題に入るべく表情を引き締めた。
「その十年前に公爵領で、叔父様が力を暴走させたことを覚えていらっしゃいますか?」
顔から手を放し、眉をきつく顰めて目線を下げまま、母は苦し気に答えた。
「ええ……覚えているわ。何故、そうなったのかも……」
ロザリアが母と二人きりで話をしたかったのは、問い質したいことがあったからだった。
レオンが呪うように吐露した己の出自について、おそらくは一番詳細に知っているのは母のアナマリアだろうから。
「わたくしの想いへの答えを返して下さった後、叔父様は教えて下さいました。あの時、叔父様が何に絶望したのかを」
「……そう、レオンが話したのね」
「はい。でも、叔父様がご存じなのは、断片的な事実の羅列でしかありません。お母様なら……出産に立ち会われたお母様なら、もっと詳しいことをご存じでしょう?」
「ええ、そうね……」
ぽつりと返して、しばらく母は押し黙っていた。やがて、窓の方に顔を向け、遠い目をしながら口を開いた。
「レオンを産んだのはマリアンヌ……わたくしの六歳上だった姉よ──」
ブランシュ公爵領の北、帝国の最北端に位置するモンターニュ辺境伯領。山脈と山脈の合間にある平野で、古来より外敵の侵入から帝国を護ってきた。
その更に北には、今は帝国の支配下にあるとはいえ、他国である小さな国が幾つかある。
そこで、アナマリアは六歳上の姉と共に育った。幼い頃から気が強く明るく開放的だった妹とは違い、姉のマリアンヌはそれなりに美しい容姿ではあるものの、酷く気弱で内向的な性格だった。
積極的に領城から出て領民と触れ合ったり、貴賤問わず友人を作るようなアナマリアと、城に閉じこもって、食事や図書室に出向く以外はほとんど自室にいるようなマリアンヌは、正反対と言っていいほどに対照的であった。
そして領地を接し、古い時代からの盟友でもあったブランシュ公爵家とモンターニュ辺境伯家の間には、何百年も前から、契約というほどの固いものではないが取り決めがあった。
辺境伯家に女児が生まれて、公爵家の跡取りに年回りが見合えば嫁がせるといった、慣習めいた取り決めが──
そのため、マリアンヌは生まれた瞬間から、四歳上の公爵家嫡子レナートとの婚約が内々に決められていた。
あくまでも家同士の拘束力のない緩い取り決めだったため、実際に二人が顔を合わせたのは、マリアンヌが十歳になった頃だった。
だが、既に引きこもりがちの生活を送っていた気弱な少女には、のちの辣腕宰相と恐れられるレナートの相手が務まるはずもなかった。
当時まだ学院に入学前の少年の頃から威風堂々として、人を従える覇気は凄まじく、一を言えば十を知るような敏さは、マリアンヌにしてみれば恐怖でしかない。
その後もレナートと会う機会はほどんどなかったものの、それでも皆無というわけではなく、マリアンヌの心的な負担は大きくなっていく。
「お願いよ、アナマリア。一緒に来て」
アナマリアが八歳になった頃から、姉は公爵家への訪問にアナマリアを伴うようになった。
最初は渋っていたアナマリアも、姉があまりにも悲壮な顔で必死に頼み込むために仕方なく了承し、それ以降、姉への同伴は通例になっていく。
実際、十も離れているにも関わらずレナートは、ほとんど口を開かず下ばかり見ているマリアンヌより、溌剌としていて好奇心旺盛で、何でも楽しもうとするアナマリアと接している方を好むようだった。
本来ならば、学院に入学する年になって帝都の屋敷に移るのが、一般的な領地持ちの貴族家子女の慣例だったが、アナマリアは姉の入学に合わせて一緒に移らざるを得なかった。
あまりにも必死に姉に請われたからである。涙ながらに訴えられた両親も、仕方なく許すに至った。
当然ながら帝都に移ってからというもの、公爵家との交流の機会は目に見えて増えていき、マリアンヌは更に引っ込み思案になっていく。
酷い時には、アナマリアが姉の代理として一人で出向くことさえあるくらいだった。
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