6
しばらくして、二人の少女に助けを求められたブランシュ公爵夫人が、娘の部屋へ駆け付けてきた。
「リア? リア、一体どうしたの」
ソファに伏して泣きじゃくっている娘を抱き起こし、その小さな身体を抱き締めて、母は優しく問いかける。ロザリアはその胸にしがみついて、延々と泣き続けた。
一向に泣き止まない様子に慰めるのは諦めたらしく、母は黙って抱き締めた娘の頭を撫で続けていた。
かなり長いことそうした時間が続き、やがて泣き声が小さくなった頃、母はもう一度最初と同じ問いを娘にかけた。
「どうしたの、リア? 何があったの? お母様に話してみて」
「……わ、た…くし……叔父…さ……」
頭の中がぐちゃぐちゃで、言葉がまともに綴れない。それでも母は根気強く尋ね、急かすことなくロザリアの応えを待ってくれた。
長いこと待って、ようやくにして娘の悲嘆の理由を理解したらしい母は、赤ん坊にするように抱き締めたままのロザリアの身体を揺すり、優しく背を叩きながら声をかける。
「リアは、レオンが大好きなのね。大丈夫よ……レオンは、本当の叔父じゃあないから」
「え……?」
思わず顔を上げて、泣き濡れた目で母の顔を見たロザリアは、続く言葉を待った。
「レオンは、あなたのお祖父様の本当の子供じゃないのよ。縁戚から引き取って、養子にした子なの」
「……養…子……?」
「そう。だから、あなたの本当の叔父じゃあないの。リアが大きくなってもレオンが好きで、レオンもリアをお嫁さんにしたいって思ってくれたら、二人は結婚できるのよ」
「…………」
嬉しいとか安心するよりも先に、ロザリアの頭には、あの時のレオンの絶叫する姿がありありと浮かんでいた。
母親のことを聞かされて、絶望して闇に堕ちかけていた姿が──
「……叔父様…は、そのこと……」
顔を悲痛に歪める娘に、母は頭を撫でさすって優しく答える。
「心配しなくても大丈夫よ。レオンはもともと、自分が養子だってことは知ってるから」
「……そう…なんですか……?」
「ええ、まだここに居た時からね。リアは本当に優しい子ね……。自分のことより、レオンのことを先に考えてあげられるなんて」
愛おしげに撫でられて、ロザリアはやっと安心できた。心を支配していた哀しみが消え去り、母に甘えるようにしがみつく。
更に撫でてくれる手を心地よく思いながら、先ほどの母の言葉を噛み締める。
『わたくしは、大人になっても叔父様のこと、絶対好きでいるわ。だから……叔父様がわたくしをお嫁さんにしたいって、思ってくれれば良いのね……』
漠然としていた将来の夢が、少しだけ具体的になった気がした。
希望を取り戻した明るい心に呼応するように、ずっと隣に寄り添っていたブランがクゥンと嬉しそうに鳴いていた。
「叔父様、わたくし……ずっと叔父様のことをお慕いしておりました。初めて会った時から、ずっと……。わたくしの初恋なのです」
七歳のあの日に出会って以来、十五の年を迎えるまで、ずっと一緒に暮らしてきた。
いつも傍で守ってくれていて、自分のために生きるとまで誓ってくれたレオンに、ロザリアが自分の想いを言葉にして伝えたのは初めてだった。
やっとの思いで恋心を口にしたものの、いつまで待っても返答はもらえない。ふと気づくと、ずっと背中を撫でてくれていた手も止まっている。
訝しく思って顔を上げると、ロザリアの目に映ったのは、明らかに狼狽したレオンの表情だった。
「叔父…様……?」
戸惑いながらも声をかけると、レオンははっとしたように我に返って、ロザリアから離れて正面に向き直り、そのまま頭を抱えてしまった。
「……叔父様?」
レオンは答えない。しばらくの間、俯いていたかと思うと、ようやくにして向けてきた顔にはありありと困惑の色が浮かんでいた。
「すまない……ロゼ。私はそんな風に君を見たことが無くて、その……」
愕然とした。愕然とはしたが──心のどこかで、そうではないかと思わないでもなかった。ロザリアは苦い思いで、小さく息を吐く。
「そう……ですわね。そんな気がしていましたわ。わたくしは、叔父様にとって対象外なのかもしれないと……」
「対象とか、そう言ったことではなくて──」
どう答えて良いものか必死に模索している様子で、レオンはまるで子供のように辿々しく、自分の心の裡を言葉にしていく。
「──私は、もともと……感情というものが薄かった……ように思う。何に対しても冷めていて……何にも執着することなく……自分がどうしたいのか、どう…なりたいのかも良く分からずに……ただ、公爵領で漫然と生きていた……」
レオンが心の裡を吐露するのは珍しい。何を感じ、何を考えて生きていたのか。生きてきたのか。初めて聞かされる想いに、ロザリアはじっと聞き入っていた。
「……あれほど色彩豊かな地で……なのに、私の目には色など全く感じられなかった……。普通の人間にはあるはずの“家族”と言う存在……形式上は父上や兄上も家族なのだろうが、そんな風に感じたことはなかった。自分が養子だと言うことは物心ついた頃から知っていたから……。だから、自分には価値なんてないと思っていた──」
それは、ロザリアには想像もつかない孤独だった。
「──貰われるだけの価値くらいは最低限はあったのだろうが……それだけだ。養子に出した側には、もちろん私に価値などなかっただろうし……ずっと、そう思って生きていた……。ロゼ、君に会うまでは……」
苦痛に歪む顔に僅かに笑みを浮かべ、レオンは身を起こし、ソファに寄りかかるようにして天井を仰ぐ。視線を上に向けたまま、訥々と話を続けた。
「あの日……私が、闇に呑まれかけた日……私が、何に絶望したと思う……?」
そう問いながらも、答えを期待している訳ではない。そう思って、ロザリアは無言を貫く。
果たして、レオンは視線を天井に固定させたまま、独り言のように話し続けた。
ロザリアにとっては、あまりにも衝撃的な事実を──
「……兄上や義姉上と共に書斎へ呼ばれた私は……父上から、自分の本当の出自を聞かされた……。私の母は、義姉上の六歳上の姉だったそうだ。本来は、その姉が兄上と婚約する予定だったらしい。それが学院で知り合った子爵と恋に落ち、結婚することになってしまった……。だから、公爵家へは妹の方が嫁ぐことになったんだそうだ」
母の姉の子、ならばレオンは従兄と言うことになる。だが、父親は──と疑問に思いつつ、ロザリアは待った。
しばらく口を閉ざしていたレオンは、目だけを閉じて、また話し始めた。
「子爵夫妻は、とても仲睦まじかったそうだ……。だが、子供には恵まれなかった。そして……皇宮に出かけた時に……子爵夫人は先帝に目を付けられ、個室に引き摺り込まれて陵辱された……」
「……!!」
ロザリアは思わず両手で口を抑えた。驚きのあまり、声を上げてしまいそうになった。レオンの話は尚も続く。
「……その後、妊娠した夫人は……夫の子か先帝の子かも分からないまま、心を病み……衰弱していった……。婚家にいるのが居たたまれず実家に戻っての出産……既に公爵家へ嫁いでいた義姉上が、見舞いがてら立ち会ったんだそうだ……。生まれた子の聖印を見て義姉上は事情を悟り、兄上を密かに呼んだ……。そして……私は、秘密裡に父上の養子になった。子爵夫人は産んだ直後、私を見て卒倒し……更に身を損って……出産後まもなく亡くなったそうだ──」
一拍置いて、レオンは呪詛のように言葉を吐き出した。
「──つまりは……私の父は先帝…と言うことだ……」
言われて初めて気づく。ブランシュ公爵家の縁戚からの養子──そんなはずはなかった。聖印も神聖力も、皇族か四大公爵家の直系にしか顕れない。
だからこそ、陰ではレオンは現公爵の子なのではないかと取り沙汰する者もいた。
それが違うことだけは、ロザリアは知っていた。幼い日に叔父と姪が結婚できないと知って泣く自分に、母がはっきりと否定してくれたからだ。
レオンさえその気になれば、結婚はできるのだと。本当に父の子であれば、叔父どころか兄であり、余計に結婚などできるわけがない。
そんなことを考えていると、固く目を閉じていたレオンが姿勢を元に戻し、正面を見据えたまま自嘲するように続けた。
「その話を聞かされる前までは……誰かも分からない母親だったが、赤子のうちから養子に出すような事情があったとはいえ、少しは腹の子を愛しんでくれていたのではないかと思っていた。優しく腹を撫でながら、愛おしむ言葉をかけられていた……そんな記憶がうっすらとあったんだ。だが、今思えば……自分の願望を夢にでも見たんだろうな。そんなこと、あるはずも無かったのに──」
切なげに言葉を紡いでいた顔から、ふいに表情が抜け落ちる。レオンはロザリアに向き直って、我が身を切り刻むような言葉を発した。
「──陵辱されて孕まされた子を、母はどう思っていたのか……。私は、母をどれだけ苦しめて、どれだけ追い詰めたのか……。私の存在をどれだけ呪ったのか、と……あの時思ったんだ。そして……心が闇に呑まれていき、身の内の力が暴走した。心が真っ黒に染まっていくと、何も感じられなくなった。何も見えない、何も聞こえない──」
溢れてくる涙を堪えながら、ロザリアは必死で首を振る。そんなロザリアの目元を拭い、そっと抱き締めて、レオンは柔らかい口調で言った。
「──なのに……ロゼの声だけが聞こえた。そして、一瞬で闇が吹き飛ばされ、私の中に温かい光が次々と流れ込んできて……私は、初めて満たされると言うことを知った。幼い君が……君だけが、私に無償の愛情を教えてくれたんだ」
そこまで言って、しばらく押し黙っていたレオンは、やがて困ったように続けた。
「あの時、聖樹の前で誓った言葉に嘘はない……。十年経った今でも変わらない。私も……君を愛している。それは間違いない。でも……」
思わず笑ってしまっていた。なんて不器用な人なのだろうかと。ロザリアは泣き笑いのまま、レオンを抱き締め返した。
「でも……分からない、ですか?」
レオンが続けようとしたであろう言葉を口にする。
「愛情にもいろいろあるのだと言うことを知識では分かっていても、愛し愛された経験が少なすぎて、区別が付かない……ということでしょうか?」
黙って抱き締められていたレオンが目を瞠る。
「なんで、そこまで……」
「わたくしを舐めないで下さいませ。わたくしは十年もの間、ずっと貴方に恋してきたのです。その間ずっと、誰よりも間近で貴方のことだけを見つめて参りました。ですから、他の誰よりも貴方のことは分かっているつもりでございます」
そう言い切った後でロザリアは、そっとレオンの頬に手を添え、そのまま静かに口付けた。大きく目を見開いて硬直し、驚いているのは分かったが、拒まれることはなかった。
しばらくして唇を離し、移った口紅を指先で拭いながら、にっこりと微笑んで見せる。
「もう、遠慮は致しません。わたくしが、いろいろな愛情を教えて差し上げます。覚悟……して下さいませね、叔父様」
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