5
しばらくの間、東屋で取り止めのない話をしていると、精霊が何やらレオンの耳に囁いて離れていった。レオンは精霊が去った方をしばし見遣っていたかと思うと、徐に立ち上がり、ロザリアに手を伸ばした。
「ロゼ、聖樹が呼んでるみたいだ……。行こう」
「聖樹……?」
不思議に思って尋ね返しながら、ロザリアは差し出された手を取り立ち上がる。
「この森の主みたいなものだ」
「主……?」
「ああ、森の中心に生えてる巨木だよ」
この公爵領に来てから一ヶ月──今まで一度も、この東屋より奥へは行ったことがない。レオンに手を引かれて、ロザリアは森の奥へと初めて足を踏み入れた。
細い道だったが、途中までは石畳で舗装されていた。それが途絶え、踏み固められただけの土の道を歩いていくと、不意に立ち止まったレオンがロザリアを抱き上げた。
「きゃっ……!」
「ここからは少し、道が険しくなるからね。ロゼには無理だろうから」
にっと笑いながらレオンは、幼いとはいえ七歳にもなる少女を抱えているとは思えないほど、危なげなく入り組んだ道を進んでいく。
大きな岩が張り出していたり、大木の根が道を横切っていたり、斜面を登ったり降ったり。
途中で目に見えない壁のようなものを感じたが、レオンは全く意に介した様子もなく足を進める。
それを突き抜けると、やがて──ぽっかりと開けた広い空間に出た。
「わぁ……!」
思わずロザリアの口から感嘆の声が漏れた。そこは異質な空間だった。森の中であって、森の中ではない。空気が全く違う。
時間が止まっているかのように錯覚するほど、静謐な空間だった。
波一つ立っていない水鏡のような小さな湖の中に、白い小さな島のような平らな地があり、そこに驚くほど巨大な樹が悠然と聳え立っていた。
それを見上げてレオンが言う、
「聖樹だ。ブランシュ家が代々護ってる。ここに入れるのは、私の他は父上と兄上だけだった。多分、ロゼも入れると思ったんだ。さっき……結界を抜けたのは、気づいたかい?」
あの目に見えない壁のようなもののことだろうと、ロザリアは頷く。じっと聖樹とレオンが言った大樹を見上げていると、不意に呼ばれた気がした。
「呼んでる……」
「ああ、やっぱりロゼには分かるんだな」
小さく頷いたレオンは、ロザリアを抱えたまま湖へと足を進めていく。どうするつもりかと思っていると、進む先に聖樹への真っ直ぐな白い道が現れた。
それを渡りきってから、ロザリアはそっと白い地に下ろされた。
レオンから離れて、ロザリアは引き寄せられるように聖樹へと向かう。辿り着いた木肌に、そっと左手を添えた──
手に温かいものが伝わってくる。清らかな光の波動のように感じた。光の波動は、意外と雄弁だった。
悲しみ、怒り、不快感、焦燥、恐怖。そして安心、喜び、快さ、様々な感情が伝わってくる。
「……そう、穢れてしまったのね」
眉を寄せて、額をそっと樹に押し当てる。
「……ごめんなさい。わたくしの力が足りなくて……」
聖樹が発する神聖な気の中に、少しだけ黒い穢れのようなものが混じっているのが感じられた。
「……これで、良い?」
あの時、闇に呑み込まれる寸前のレオンにありったけの神聖力を叩きつけた。だが、そこまでは必要ないと思えた。
だから、優しく押し流すように、洗い流すように、穢れに向けて神聖力を流し込んでいく。
自分では意識していなかったが、ロザリアの幼い身体は金色に淡く光り出し、更に身の内から白銀の光が迸る。
緩やかにうねる白銀の髪はふわりと浮き上がっていた。
しばらくの間そうしていると、いつの間にか異物の存在が感じられなくなった。
「……もう、大丈夫ね?」
額を離して微笑むと、身体を押し包んでいた光が収束を始め、やがてその小さな背中に翼のような残滓を見せた後で消え去った。
そんな聖樹と幼い少女とのやり取りを黙って見ていたレオンは、満足げに笑って、もと来た道を振り返る。
すると、外で待ち構えていた精霊たちが一斉に、この空間へと流れ込んできた。
精霊たちが嬉しげに乱舞する中、聖樹が金色に光り出した。その波動のようなものが、聖樹を中心として外へ外へと広がっていく。
やがて、森全体が呼応したかと思うと、更に波動は森の外へと伝わっていった。
目を閉じて、天を仰ぐようにずっと上を向いていたレオンが、ややしばらくしてから細く長く息を吐き出す。それから、ゆっくりと辺りを見回して自嘲気味に言った。
「私のせいだ……。もう少しで私は、この森を死なせてしまうところだった。聖樹も、精霊たちも、森に生きる獣や木々、あらゆるものたちを……」
聖樹から手を離し、振り返ったロザリアは、自分を責めているレオンの傍へと急いで戻った。何と声をかけようかと悩んでいると、不意にレオンがロザリアの前に跪いた。
そして──恭しく推し頂くようにロザリアの手を取るや、痛いほどに真剣な目を向けてきた。
「ロゼ、私はここに誓う。これから先、私の命は君のために……私は君を護るためにだけ生きる。もう二度と、あんな闇に呑まれたりはしない。私には、君と言う光があるんだから」
そう誓いの言葉を真摯に述べ、ロザリアの手に口付ける。そんな、騎士の忠誠を捧げる儀式のような誓いを、聖樹と精霊たちが静かに見届けていた。
どのくらい、そうしていたか。長いようにも短いようにも感じる間、二人はずっと見つめ合っていた。やがて、聖樹が発した波動が収まった時──
「え……?」
聖樹の陰からのっそりと、少し体格差のある二頭の獣が現れた。白銀の毛並みに青紫の眼、レオンを思わせる美しくしなやかな豹のような獣だった。だが、多分違う。
ロザリアはそう思い、立ち上がったレオンを見上げた。
「叔父様、あれは……」
「ああ、聖樹を護る聖獣だ」
やはり──どう見ても普通の獣ではない。神聖な気を発する二頭は、ゆっくりと二人に近づいてくる。二頭の体はひと回りほど大きさが違う。
そして二頭だけでは無かった。後ろから、毛玉のような小さな子供がよたよたと付いて来ていた。
「やっと生まれたんだな……」
小さな幼獣の姿に、レオンが目を瞠る。その呟きに応えるように、番いの聖獣は嬉しげにレオンに頭を擦り付けた。
ひとしきり頭を撫で回された後、二頭は満足したのか、ついっとロザリアに顔を向けてきた。そうして、二頭ともがロザリアにも頭を差し出す。
戸惑っていると、レオンが笑いながら言った。
「ロゼ、撫でて欲しがってるんだ。今まで、私以外には懐かなかったのにな。父上や兄上には近づいたとしても、絶対触らせようとしなかったのに。やっぱり、ロゼは特別なんだな」
「わたくしが撫でても良いんですか? 怒らない?」
本当は触ってみたくて堪らなかった。レオンが撫で回しているのが、とても羨ましかった。
ロザリアはおずおずと手を伸ばし、ビロードのような美しい毛に覆われた頭をそっと撫でる。驚くほど、滑らかな手触りだった。気づいたら、夢中になって撫で続けていた。
そんな交流がしばらく続いた後、二頭が近づいて来ていた子供を振り返る。番いの二頭はふいに聖樹を見上げていたかと思うと顔を見合わせ、次いで体の大きい方の聖獣が子供の首元を咥え、ロザリアに差し出してきた。
「……?」
意味が分からずに躊躇していると、ぐいっと子供を押し付けられた。子供の方も撫でろと言っているのだろうか。
とりあえず受け取って抱き上げてはみたものの、どうしていいか分からない。戸惑って見上げると、レオンもまた困惑しているようだった。
「本気か……?」
その問いに聖獣が頷く。
「叔父様……?」
「ああ……うん。その子をロゼに任せるって言いたいらしい……」
「は……? え……? ええっ……!?」
戸惑いを顕に意味を為さない声を発していると、不意に聖樹が葉ずれの音を立てた。
──其方の守護獣として育てよ。其方にはいずれ必要となる──
そんな言葉が直接、ロザリアの頭の中に響いた。後で確かめたが、レオンも同じ言葉を聞いていた。聖樹の声ではなかったらしい。
丸一ヶ月の長い休暇を領地で過ごし、ロザリアは両親や祖父、叔父、そしてブランと名付けた聖獣の子と共に帝都へと戻った。
帰宅して早々、ブランシュ家のサロンには、帝都にいる四大公爵家の嫡流の者たちが全て集められた。レオンの帰還の報告と、聖獣の子であるブランの披露目のためだった。
会合の目的が果たされた後は、ただのお茶会の様相を呈する。レオンが十年ぶりに再会したミカエルに絡まれているのを横目に、ロザリアはブランを連れ、レベッカとヴァネッサと共にそっとサロンを抜け出した。
「レベッカ姉様、ヴィー、聞いて!」
幼馴染みの姉代わりと親友を自室に連れ込み、ロザリアは興奮気味に訴えた。どんな風にレオンと出会ったか、公爵領でどんな風に過ごしたか。
レオンがどうした、レオンがこう言ったと滔々と話し続ける。
最初は呆れていた二人も、ロザリアが経験してきた特異な事象に、いつしか真剣に聞き入っていた。
一ヶ月間の思い出を全て語り尽くした後、ロザリアは、侍女が用意してくれたジュースを飲んでひと息吐いた。
そうして、頬を染めて徐に宣言する──
「わたくし、大きくなったらレオン叔父様と結婚するの!」
一瞬、静寂が訪れた。少々長い静寂だった。思うような反応を返してもらえず、ロザリアが二人の顔を交互に見つめると、二人は互いに顔を見合わせ、揃って大きく溜め息を吐いた。
「姉様? ヴィー?」
小首を傾げるロザリアに、一方は残念そうな目を向け、一方は気の毒そうな目を向ける。戸惑っていると、残念な子を見る目を向けていたヴァネッサが、腰に手を当てて言った。
「リアったら……何言ってるの? レオン兄様と結婚なんてできるわけないじゃない」
「え……?」
いきなりの否定に、ロザリアはぽかんと口を開けた。気の毒そうに見ていたレベッカが、ロザリアの肩を撫でながら言いにくそうに言う。
「あのね、リア……叔父と姪はね、結婚できないの」
「え……?」
大きく目を見開き、ロザリアはやっとの思いで疑問を口にする。
「……どうして……?」
「どうしてって……決まりだからよ。親子や兄妹が結婚できないのと同じ」
「……嘘……」
それだけ言うのがやっとだった。ショックのあまり頭の中が真っ白になった気がした。
そんな主を心配げに見ていたブランに手を舐められた途端、我に返ったロザリアの、大きく見開いていた目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「え、リア? ちょっと……」
そんな姿に呆気に取られた様子のヴァネッサが慌てふためき、いつもは子供の割に落ち着いているレベッカが、珍しくおろおろとし始める。
止まらない涙が次々とこぼれ落ちていくうちに、ロザリアはしゃくり上げ、遂には泣きじゃくり始めてしまった。
少女たちは何とか慰めようとしていたが、泣き声は酷くなるばかり。
結局、どうしようもなくなったのだろう。ブランが敵意を見せて威嚇し始めたのを期に、二人は慌てた様子で部屋を出て行った。
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