第四章 教皇の来訪

 神聖教会の色と紋章で装飾された荘厳な馬車が、騎馬の聖騎士に護られながら、大きく開け放たれたブランシュ家の正門を通り抜けてくる。

 

 馬車は屋敷の車寄せに停められ、聖騎士の一人が重々しく扉を開く。

 同乗していた聖騎士団長のレオンが先に降り、神の代理人を迎えるために胸に手を当てて身を屈めた。


 聖杖を手に現れた教皇は、レオンの手を借りて馬車から降り立ち、最敬礼で出迎える公爵家の一同に目を向ける。

 公爵夫妻、嫡女のロザリア。その横には聖獣ブランが寄り添うように座り、後ろに執事や侍女を始め屋敷の主だった使用人が勢ぞろいしていた。


「聖女様、お招き頂きましてありがとうございます」


 ゆったりと近づいてきた教皇は、徐にロザリアの前に両膝で跪くと、胸に手を当てて深々と頭を垂れた。

 教皇が神の御前以外で跪くことなどあり得ない。名目上は同格とされる皇帝ですら、礼を取る存在である。


 多くの者が動揺する中、最も動揺したのは当のロザリアだった。


「猊下、おやめ下さいませ。わたくしなどに──」


 慌てて立ち上がらせようと差し伸べた手を押し抱くように取り、教皇は恭しく口づける。


「先日は大層ご無礼を致しました。未だ公式に披露目をされていないが故に、あのような場では、私からご挨拶をさせて頂くわけにもまいらず……。五百年ぶりに神がお遣しになられた尊い御子だと言うのに」  


 困り果てたロザリアは、教皇のすぐ後ろに控えているレオンに、思わず救いを求めて目を向ける。

 その視線を受けて、レオンは任務中の聖騎士団長らしい厳しい表情のまま、微かに唇の端に笑みを浮かべた。


『叔父様ったら、面白がっていますわね……』


 とりあえず援護する気はないと見た。他の誰も分からないだろうが、レオンの目には悪戯な色が浮かんでいる。

 自分と目を合わせても、気まずい様子は見受けられない。それだけでも良しとした。


 抵抗を諦めたロザリアが、心中密かに溜め息を吐いていると、助け舟はすぐ隣から出された。


「猊下、このような玄関先ではなく、我が家のサロンで御腰を落ち着けられて、ごゆっくりとご歓談されては如何でしょう」


 胸に手を当てて腰をかがめながらも、父ブランシュ公爵が有無を言わさぬ様子で強く勧める。


「そうですな。聖女様をこのような場で、いつまでもお立たせ頂くのもご無礼というもの。失礼つかまつりました」


 深々と頭を下げた教皇は、レオンの手を借りて立ち上がりながら、ロザリアの傍らにちょこんと座っているブランに目を向けた。


「おお、これが聖女様に遣わされたという聖獣か。ん……? 其方……」


 いぶかし気に凝視されて、ブランはまるで疚しいことでもあるかのように、ついっと目を逸らす。そんな常にない様子に、ロザリアは小首を傾げた。


「ブランがどうかなさいましたか?」

「ほう、ブランというのですか、こやつは」


 いかにもバツが悪そうな幼獣を一瞥したかと思うと、教皇はとても良い笑顔で宣った。


「其方は、後で説教じゃ」


 ブランがびくりと身を震わせて、泣きそうな顔になった──気がした。

 公爵が教皇一行を案内して邸内に入っていくのに従いながら、ロザリアが横目で見やると、とぼとぼと付いてくる幼獣はどう見ても項垂れている。

 

「一体どうしたの、ブラン?」


 不審に思いながらも、その様子を可哀想に思って抱き上げようと手を伸ばすと、ブランは慌てたように飛び退る。

 そして前に出て、先を促すように振り返り振り返り進み始めた。




 公爵家の広々としたはずのサロンは、入り口や窓を塞ぐように立つ者や、護衛対象の傍近くに控える者など聖騎士の警護で物々しく、いつになく狭苦しく感じられた。

 それでも、皇宮からこの屋敷までを警護してきた全員が邸内に入った訳ではない。上位の騎士ばかり二十名ほどが残り、大半は皇宮に与えらえた宿所へと戻されている。


 少々緊張した様子の見受けられる使用人たちが、ソファに座す教皇と主人一家が囲むテーブルに、様々な菓子と共に香りの高い茶を配していく。


「改めまして、お招き頂き恐悦至極、身に余る光栄でございます」

「教皇猊下にご逗留頂けるなど、我がブランシュ家にとっても光栄の至りでございます」


 教皇の目は、当然のことながら公爵家当主ではなく、聖女であるロザリアに向けられている。公爵は気にした様子もなく、苦笑気味に屋敷の主人として挨拶を返した。


 しばらく社交辞令が続いた後で、教皇は背後に立つレオンに目を向ける。


「聖騎士団長、ここではこのような警護は不要じゃろう? 其方以外は休ませて構わぬぞ」

「畏まりました。扉前の警固に二人を残し、後は休ませます」


 僅かに考えるそぶりを見せた後、レオンは恭しく礼を取って、副官と思われる年嵩の聖騎士に指示した。若い執事の案内で、聖騎士たちは静かにサロンを出ていく。


 この場に残ったのは、公爵家一族と教皇とブランのみ。執事長と侍女たちも茶の用意を終えて、それぞれ出ていった。


「ブランシュ公爵、聖卓会議開催の目途は付きそうかのう?」

「いえ……皇帝陛下におかれましては、未だ枕も上がらぬご様子で。よほど、此度のことが応えられたと思われます」

「まぁ、そうであろうな……」


 そう頷いて、教皇はレオンも席に着かせ、顔を引き締めて話を続けた。


「あの皇子は、不義の子ではない。間違いなく現皇帝の血を引いておる」

「え……」


 テーブルを囲む者すべてが虚を突かれた顔になった。それをちらりと見まわした教皇は、更に厳しい表情で続けた。


「だからこそ、余計に問題なのじゃ……」

「それは──」


 おそらくは、この中で一番聡く最も事態を把握しているはずの、帝国宰相であるレナートが、強く眉を顰めて苦々しく答えた。


「今後、皇室の血筋には神は恩恵を与えられないと……そういうことですか」

「うむ……あれが不義の子であれば、まだ問題は無かったのじゃがな。どれほど愚かであろうと、本来ならば初代皇帝の直系の血筋なら、微弱でも神聖力は与えられる。いや、与えられてきた。それが、あの者にはない。神は、現皇室をとうに見放しておられたと言うことじゃ」


 重い沈黙が訪れる。やがて、おずおずと公爵夫人のアナマリアが口を開いた。


「神が見放されたのは……先帝の乱行が原因……でしょうか?」

「そうさな……おそらくは」


 そんなやり取りに、ロザリアはそっとレオンの様子を窺った。その表情は全く変わらない。

 帝国で最も強い神聖力を与えられたレオンの誕生が、その乱行の結果であると考えれば、これほど皮肉なことはない。


「先帝は、神が神聖力を与えたもうた御子を誕生前に殺させたのじゃからな」


 女二人は蒼褪めた顔で口元を覆い、男たちは目を見開いて教皇を見つめる。


「廃された皇太子妃……現陛下の皇太子時代の妃が宿されていた御子のことでございますな?」


 問いに教皇が頷くのを待って、レナートは更に言葉を続けた。


「当時から妃の不義は、どれだけ証拠が挙がろうとも皆、疑いを持っておりました。証拠とされたものは、どれも状況証拠でしかなく、罪を確定させたとされる不義相手の自決と遺書も、真偽のほどは怪しいものでした」


 ロザリアの世代では、皇太子妃の密通事件の詳細はあまり伝わっていない。せいぜいが、先帝の命により、堕胎後に妃が幽閉されたことくらいだ。

 だが、次期公爵であった当時のレナートは、宰相の側近として、政権の中枢で事態の詳細を知る立場にあった。


「先帝は妃の堕胎を命じられた。産み月を控えた時期であり、出産を待って検分すべきだと諫める声が大きかったにも関わらず、先帝は断固として強行された。その胎児は、やはり現陛下の御子であったということなのですね。神が神聖力を授けられ、英雄の血脈を継いだ──」

「そうじゃ」


 その肯定に、宰相たる筆頭公爵家当主レナートは重い溜め息を吐く。


「それは……由々しき事態でございますな。これから混沌を迎えるであろう、まさしく聖女が必要とされるようなこの時期に……」


 そう唸るように呟きながら、傍らに座るロザリアを労しげに見つめた。愛娘のこれからに、父として不安を抱いている様子がありありと見てとれる。


 辣腕宰相と恐れられるレナートも、溺愛する妻子に関してはただの夫、ただの父親だった。

 公では絶対に見せないあからさまなほど心配げな様子に、教皇は苦笑しながらも隣のレオンと、ロザリアの足元に蹲るブランを見やって応える。


「そちらは心配あるまいて。聖女様には、新たな英雄と聖獣が付いておるからの。神のご采配に不足があろうはずはない」


 そこまで口にして、教皇は深々と溜め息を吐いた。その目はじっとブランに向けられている。


「ご采配に不足はないものの……そやつ自体は不足だらけじゃの、全く……」


 何故か身を竦ませるように小さくなっているブランを見下ろし、ロザリアは小首を傾げる。


「先ほども仰っておられましたが、この子がどうか致しましたか? 何か粗相でも?」

「粗相だらけでございまするよ……。ブラン、でございましたかな?」

「はい、さようでございますが……」


 教皇は険しい目でブランに命ずる。


「ブラン、こちらへ来るのじゃ」


 びくりと身を跳ねさせ、ブランは情けない顔で──少なくともロザリアにはそう見えた──助けを求めるように見上げ、次いで項垂れた様子でそろりと教皇の足元に歩み寄った。


「自覚はあるようじゃな」


 上目遣いで見上げる幼獣を、教皇は厳しく責め立てた。


「何故、未だにそんななりなのじゃ。神より使命を帯びてから、既に十年は経っておろう。其方、まさか──」


 その頭を右手で抑えつけ、叱りつける。


「──よもや聖女様に甘えたくて、己の使命を放棄しているのではあるまいな」


 更に身を縮めるのを見ていられなくて、ロザリアは何とか諫めようと口を挟んだ。


「猊下、ブランを虐めないで下さいませ。まだ幼いのに可哀想ではありませんか」

「いえ、これはもう幼くはないのですよ。とうに成獣になっていなければならぬのです。こやつの役割は、聖女様の守護獣なのですからな。いつまでも幼獣のままでは、何の役にも立ちますまい」

「そんなことはございませんわ。ブランは可愛いですし、わたくしの癒しになってくれています。ですから──」

「こやつは、愛玩動物として授けられたのではないのですぞ……」


 ロザリアの反論に、聖女を崇める立場としては強く返せないのであろう。教皇は、困ったように隣のレオンに目を向けた。

 レオンは深々と溜め息を吐いて、ブランを見やる。


「確かに、成長が遅すぎるとは思っていたが……二年前に見た時と全く変わっていないしな。このままでは訓練もできず、ロゼの学院卒業には間に合いそうもない。公爵領に送り返して、訓練済の聖地の若い聖獣に替えてもらった方が良いかもしれないな」


 その言葉を聞いて、伏せていたブランがぎょっとしたように立ち上がった。

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