そうして、サロンには三人だけが残った。朝食までには、まだ一時間近く時間はある。

 雑談に興じる中、皇室の話が出た時に、ロザリアは気になっていたことを率直に口にした。


「実はわたくし、一度も皇妃殿下にはお会いしたことがありませんの」

「え……? 后妃教育とかで、二年以上も皇宮に通っていたのにか?」

「ええ。皇宮には確かに足繫く通わされておりましたが、外宮までで内宮に入ったことはございませんの。皇子殿下との婚約が正式なものではなかったためと思われますが、一度も皇妃殿下からお召しはございませんでしたわ。皇帝陛下へは、何度もご挨拶させて頂いておりましたが」


 レオンは怪訝な顔ながらも、興味深そうに聞いている。


「お二人は、お会いになられたことがございますか?」

「ございませんな。皇妃は異教徒ゆえ、皇子の十五歳の謁見式さえ、認めなかったくらいですからな」

「そう言えば、私もないな。聖騎士になる前は、帝国騎士団の近衛隊に配属されていたが……皇妃は公式行事に出席したこともなかったし。内宮の警備は近衛隊の役目だが、皇妃の住む宮殿は警備対象に入っていなかった。あそこだけは、近衛ではない他の騎士隊が担当していたんだ」

「何故ですの?」

「さぁ? 私が騎士になった時からそうだった。だから、特に深く考えたことはなかったが──」

「近衛が警備対象としないのは当然じゃな。皇族ではないからじゃ」


 教皇が切って捨てるように言う。


「ええっ?」

「え?」


 ロザリアとレオンは、同時に驚愕の声を上げていた。思わず顔を見合わせた二人は、次いで同時に顎ひげを撫でている教皇へと、続きを請うように目を戻す。 


「聖女様はともかく、其方まで知らぬとはな」


 レオンに苦笑を向けて、教皇は続けた。


「神聖帝国は、神の思し召しによって建てられた国。神が示された一夫一婦制も、国法によって定められている。本来、皇妃などと言う地位は帝国にはないのじゃ」

「皇帝の妻は皇后──と言うことですか」

「そうじゃ。じゃがのう、皇子を産んだとはいえ、あの者が皇后となるなど誰も認めまいて。改宗を拒んだ異教徒である上、それまでの経緯もあるからのう。苦肉の策だったのじゃろうな」

 

 小さく息を吐いて教皇は首を振り、更に話を続ける。


「本来は、妃は皇太子や皇子の妻のことを指しておった。当然、皇后よりも格下となる。そこから流用したのじゃろうが……つまりは名目が変わっただけで、実質は愛妾のままと言うことじゃ。皇子の母として体裁を整えただけのこと」

「それで、公式行事には一切顔を出すことはなかった──いや、出せなかったのですか」

「うむ、資格がないのだから当然じゃな」


 だから、正式な妃となるための教育に皇妃が関わることはなく、その立場となるはずのロザリアに干渉してくることもなかったのだろう。 

 仮とはいえ皇子の婚約者である者に、母である皇妃との目通りが全く無かった理由がようやく分かった。


「それにしても……叔父様は近衛として内宮の警備をされていたのに、一度も皇妃殿下に会われたことがないというのも不思議ですわね」

「皇妃の宮殿は内宮の最も奥まった外れにあって、皇帝の住まわれている本宮からは、かなり離れているからな」

「そうなんですの? わたくし、内宮のことは良く分からなくて。皇后宮と皇太子宮が本宮と回廊で繋がっているというのは、お父様からお聞きしたことがありますけれど。今は主がいないために閉鎖されているのでしたわよね?」

「ああ、そうだな。内宮には、その三宮殿とは格が下がる宮殿が他に四つあって、本宮に一番近い宮殿を皇子が使っている。一番遠い宮殿が皇妃の住まいで、他の宮殿は今も使われていないはずだ」


 そこまで聞いて、ロザリアは不思議でならなかった。


「何故……なのでしょう? 正式な皇族ではないとはいえ、皇妃殿下は陛下の妻というお立場なのですよね? 普通は、もっとお近くにおられるものではないのでしょうか?」

「多分だが……不仲なのではないだろうか」

「え?」


 レオンが言いにくそうに答える。両親の仲があまりにも良いために、ロザリアにはその発想は全くなく、予想外の言葉に虚を突かれてしまった。


「私は陛下の身辺警護をしていたこともあったが、本宮へ皇妃が訪問することも、ましてや陛下が皇妃の宮殿へ向かわれることも、私の知る限り一度も無かった。時折、皇妃の使いの者が本宮へ参ってくることはあったがな」

「そうなんですの?」

「当時の騎士団長から聞いた話では、皇子が幼少の頃までは本宮に一室を賜って、陛下と共に暮らしていたのだそうだ。それがある時を境に、まだ幼い皇子と引き離され、皇妃は外れの宮殿へと移された。特に何か事件めいたことがあったわけでもなく、理由は分からないと言っていたな」


 幼い子と引き離してまでと言うのは尋常ではない。ロザリアが小首を傾げていると、教皇が笑みをこらえた表情で、悪戯っぽく言った。


「大変失礼ながら……それは聖女様のせい、でございますな」


 全く意味が分からない。皇妃が外れの宮殿に追いやられたことなのか、それとも皇帝と皇妃の不仲のことなのか。

 何を指して言っているのか、それが自分のせいだとはどう言うことなのか。


 不穏な言葉にも関わらず、その内容に全く不似合いな教皇の茶目っ気のある表情に、ロザリアは戸惑うしかない。

 レオンもまた、あからさまに怪訝な顔をしている。


「あの……猊下? 何故……いえ、何がわたくしのせいなのでございましょう?」

「皇帝陛下が皇妃を遠ざけるに至ったこと、でございますな」

「お待ち下さいませ。十数年前のお話でございますよね? そんな幼い頃のわたくしが原因って……」

「まぁ、私も人づてに耳にした話ではあるのですがな──」




 ロザリアの三歳の誕生日、皇帝臨席のもと、四大公爵家の一族を集めた正式な披露目が、帝都にある神聖教会の大聖堂で行われた。

 参席者は全員が直系の者、つまりは聖印を有する者である。


 父レナートに抱き上げられて、ロザリアは参席者の前に連れて行かれた。この日は左肩近くの背にある聖印が見えるよう、オフショルダーのドレスを着せられていた。

 羽織っていたケープが外され、参席者たちに聖印を検めさせる。  


 その後で主席神官による祭祀が厳かに行われ、最後に直会となった。当然ながら、披露目を済ませていない者は参席できない。

 そのため、この場にはロザリアより幼い者はいなかった。


 半年ほど先に生まれたヴァネッサとは、この日初めて顔を合わせたのだが、すぐに仲良くなった。

 二人でじゃれ合って遊んでいるうち、少し年上のレベッカを見つけて懐き、三人でずっと一緒にいた。


 大人たちが会食をしている中、三人だけで固まって菓子を食べていると、ふらりと皇帝が近づいてきた。


「私には皇子しかいないが、女の子も良いものだな。なんとも華やかで、場が明るくなるようだ」


 やたらと陽気に大笑いしているのを、レベッカが嫌そうに見やって、そっと距離を取っている。

 気の強いヴァネッサは関心を示す様子もなく、黙って菓子に手を伸ばしていた。


 幼いロザリアは、とても偉そうな初めて会う大人を不思議な思いで見上げていた。

 浮かれたように、やたらと笑っているのが何故なのか良く分からない。理解はできないが、自分の父親や他の大人たちとは何かが違う。


 そんな物怖じせず、じっと見上げてくるあどけない幼女に気を引かれたのか、皇帝は徐に歩み寄ると、いきなりロザリアを抱え上げた。


「これはまた、ずいぶんと可愛らしい姫ではないか!」


 知らない大人に突然抱き上げられ、嬉しそうに頬ずりされたロザリアは、びっくりして硬直してしまった。

 間近に見えた目が澱んでいて、怖くてたまらない。接している肌から悍ましいものが移ってくるような気がした。


「……やぁっ!」


 恐怖のあまり頭が真っ白になり──目を焼くような強い白銀の光が、室内を埋め尽くすように迸る。


 やがて光が収まった後には、気を失ってぐったりとした幼女を抱えたまま、呆然と立ち尽くす皇帝がいた。

 しばらくの間、呆然としていた皇帝が我に返った後は、前代未聞の騒動となった。本当の意味で皇帝が我に返ったからである。


 皇帝の要請で四人の公爵が別室に移った。そこで皇帝が語り出したのは──


 数年前からの記憶があやふやであること。朦朧としていた中にも断片的に残っていた記憶から、何か薬物のようなものを使われ、思考を誘導されていたらしいこと、という衝撃的なものであった。


 すぐさまブランシュ公爵の指示で本宮内の一斉捜索が秘密裏に行われ、麻薬や媚薬のような怪しげな薬物やら呪具、先帝の愛妾である叔母からの皇妃宛の手紙などが押収された。

 また、侍従や侍女の中にも薬物で洗脳されていたらしい者が見つかった。


 結局、皇妃は本宮から出され、外れの宮殿に追いやられることになった。

 処罰に至らなかったのは、悪質ではあるものの、皇帝を篭絡して愛妾となるための手練手管の一環と見做す程度の証拠しか見つからなかったためである。


 今に至るまで、その経緯どころか、皇妃が遠ざけられたという事実すらも公にはされていない。帝国で唯一の皇子の生母であるがため、なのであろう。


 だが、その甘い対処とは裏腹に、皇帝は皇妃に対し怖ろしいほどに冷淡だった。

 元々は敬虔な信徒であった皇帝は、己の意に反して愛妾などに耽溺させられたことが許せなかったらしく、面会を請う皇妃の申し出をことごとく一蹴した。




 事態の収拾を指揮したブランシュ公爵が、教皇へ内密に報告してきたという、自分に関わる重大な内容を聞かされて、ロザリアは困惑していた。

 幼かったからなのか、恐怖のあまり記憶が飛んでしまったのか、三歳のお披露目自体を良く覚えていない。


「やはり、わたくしのせい……なのでしょうか?」

「そうですな……私が思いまするに、幼かった聖女様が皇帝陛下の異常を無意識に感知して、これまた無意識のうちに拒絶されたのではないかと」

「拒絶……でございますか?」

「相当に怯えられていたとのことでございますからな。異常を拒絶されるあまり、無意識に浄化のお力を使われたのでございましょう。迸った光の色は白銀だったそうですからな」


 皇帝の精神を冒していた悪しき薬効を、神聖力で浄化したと言うことらしい。


「聖女の浄化とは、闇の力や呪力による穢れだけではなく、薬物のような人の心身を蝕む悪しきものすらも消し去れるのか……」

 

 レオンが感嘆混じりに呟いた。

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