初日に魔獣に襲われるようなことがあって散々説教をされたものの、レオンの同伴があれば森へ入ることも許されたため、ロザリアは毎日のようにせがんでは、二人で森へ出かけていた。


 公爵領の中でも大きな割合を占める、精霊の森と呼ばれる広大な森は、都会育ちの深窓の令嬢にとって、とても神秘的で刺激的な場所だった。

 レオンに連れられていたこともあり、精霊たちにもすぐに受け入れられ、人ならざる存在とも親しく過ごすことができた。


 森には善なる存在だけではなく、魔獣のような人や精霊に害を為す凶悪なるものも、ごくごく稀にだが出現するらしい。

 レオンは悪戯に怖がることではなく、それらへ対処する適切な方法や、獲物の追い詰め方、非力な少女でも可能な身を守る術、神聖力の使い方なども教えてくれた。


 最初に命を救われたこともあり、そんなレオンへ感謝の印として何か出来ないか、いろいろと考えてみた。

 結局、ロザリアは自分では思いつくことが何もないため、戯れていた精霊に相談したところ、護符を作ってみてはどうかと提案された。


 レオンをあらゆる負の力から護り、癒し、常に光ある神意へと導く護符──そんな提案にロザリアは一も二もなく飛びついた。大好きな叔父に自分の想いを込めて贈りたいと。


 それから精霊たちの手を借り、レオンに気づかれぬように必要な素材を集め、祖父にも手伝ってもらって、最後には自分の神聖力のありったけを籠めて護符を作り上げた。


 帝都へ帰る予定の数日前、ようやく完成させた護符を渡そうとレオンを探したが見当たらない。

 侍女らに聞いて回ったところ、両親と共に呼ばれて祖父の書斎に行っていることが判り、ロザリアは書斎近くの廊下で用が済むのを待っていた。


 自分にできる精一杯の贈り物。喜んでもらえるだろうかと小さな胸を高鳴らせながら、ブレスレットに仕立てた護符を忍ばせた、白いレースの包みを弄ぶことしばし──


 不意に大きな音を立てて書斎の扉が突き破られるように開き、只ならぬ様子でレオンが飛び出してきた。


「叔父……」


 呼び掛けた言葉を最後まで紡ぐこともできず、ロザリアは息を呑む。


 魔獣の爪に腕を裂かれた時でさえ見せなかった絶望的な表情、闇に囚われたかのような昏い瞳。

 全てを拒絶する気を発しながら、レオンはロザリアに気づくこともなく駆け去って行った。


「叔父様!?」


 離れていく背に、黒い靄のようなものが滲み出ているのが見えた気がした。認識するよりも早く、ロザリアは危機感に煽られてレオンを追って走り出していた。

 幼い足では到底追いつけない。だが、レオンが森へ向かっていることは分かった。

 

 必死に走ったせいで心臓は破れそうな痛みを訴えているが、気にする余裕すらない。ようやくにして森へと足を踏み入れたロザリアの耳に、苦鳴に満ちた絶叫が遠く聞こえてきた。


「叔父様!!」


 深い森の中、昏い闇のような波動が伝わってくる気がして、レオンがいるはずの場所へと迷わず進んでいく。道すがら、数多くの精霊たちが地に伏してもがいている様が目に入った。


「みんな……あれのせい?」


 先ほどレオンの背に見たのと同じような黒い靄が、渦を巻くように広範囲へ広がっていく。精霊たちはそれに中てられて苦しんでいるようだった。

 あんなものがレオンに纏わりついているのかと思うと余計に気が逸り、体力的な限界を覚えながらも足を早める。


 ようやく辿り着いた先で見たものは、跪いて絶望を吐き出すように絶叫しているレオンと、その身から吹き出す深淵のような昏い闇色の靄。闇は見る間に深みを増していく。


「叔父様、駄目!!」


 ロザリアは闇を掻き分けるようにしてレオンの傍へ走る。何故か闇はロザリアには届かない。身の内から滲み出る白銀の光に弾かれて、闇に囚われることも影響を受けることも無かった。


 レオンに取りすがって呼び掛けても、その耳には届かない。どうして良いか分からず途方に暮れて周りを見回すと、方々で伏している精霊たちが闇色に変色し始めているのが目に入った。


 本能で危険を感じ、ロザリアは咄嗟にレオンから習ったばかりの神聖力による結界──“神域”を展開した。

 闇が広がる範囲を全て覆い尽くすように神域は広がり、中を白銀の光が満たし、闇色に染まりつつあった精霊たちが神気に洗われ、浄められていく。


 次から次へと浄化されていく中でも、レオンから噴き出す昏い闇は未だ収まらない。どれだけの絶望なのか、何がこうまで彼を苦しめているのかとロザリアの心が強く痛む。


 だが、ずっと大切にしてきた森や幼い頃からの友であった精霊たちを損なうことは、レオンの本意ではないはずだ。正気に戻れば更に苦しむことになると思えた。


「叔父様! わたくしを見て下さい!」


 レオンの正面に立って両肩を掴んで強く揺さぶり、声を張り上げて呼びかけた。だが、やはり反応はない。

 苦悶に歪むその顔を間近で見つめながら、ロザリアは悲痛な思いで唇を噛む。なんとか自分に意識を向けさせようと、在らん限りの力を振り絞ってその頬を平手で打った。


「……」


 昏い瞳がようやく自分に向けられ、僅かに目を見開いたのを認めて、ロザリアはそのままレオンを強く抱き締め、身の内にある神聖力の全てを浄化と癒しに変えて全力で叩き付けた。


『神様……叔父様を助けて……』


 どのくらい経ったのか。やがて光を取り戻したレオンの瞳が大きく見開かれ、その身に纏わり付いていた闇の靄が内から跡形もなく吹き飛ばされていく。

 漏れ出した靄の全てが浄化により消え去った頃には、二人ともに力を失ってその場に崩れ落ちていた。




 この地に来て再び倒れ、ロザリアが目覚めた時に目に入ったのは、やはり見慣れない天蓋だった。ひと月近くの間、見上げてきた自室の寝台ではない。


『……どこ?』


 何だか身体に力が入らない、と言うよりは身動きが取れない。意識が戻ったばかりでぼんやりした思考の中、小さく首を動かし目を彷徨わせて、自分が何故動けないのかを悟った。


『えっ……!?』


 一緒に横になっているレオンにしっかりと抱き締められていた。一気に目が覚めた気がする。

 はっきりした頭で現状を把握し直してみると、どこかあどけない顔をして寝入っているレオンが、自分に抱きついている──と言うよりは、しがみ付いているように思えた。


『叔父様……あの時みたいな怖い顔じゃない……。良かった……』


 あの時、レオンは闇に呑み込まれかけていたのだと思う。それも、レオン自身の中の深淵の闇に。

 そんな時に自分が為したことは本能的なもので、考えるより先に咄嗟に身体が動いていた。


 あれほど深い闇に突っ込んでいくなど、冷静に考えれば無謀としか言いようはないが、今の寝顔を見る限り、幼いながらもロザリアは自分がしたことは最善だったのだと思えた。

 あのまま放置していたら、間違いなくロザリアの大好きな“レオン”は喪われてしまっていたと思うから──


「大好きな叔父様が無事で良かった……」


 慈愛に溢れた笑みを無意識のうちに浮かべ、間近にある頬をそっと撫でる。思わず自分が漏らした呟きと、指先から伝わる生々しい感触で、ロザリアは唐突に悟った。

 倍ほど年上であるものの、叔父と言うには若過ぎる少年に抱いている感情が何であるかを。


 そして、これが“恋”と名のつく感情であることすら未だよく分かってはいないながらも、幼いからこその純粋さで、大好きな童話にあった『王子様とお姫様の幸せな結婚』が、この感情と直接結びついてしまったのである。


 この瞬間、唐突に、本当に唐突にロザリアはレオンとの結婚を心に決めてしまったのだった。自分にとっての“王子様”が誰であるか確定した上で。

 わずか七歳の少女にとって、長い長い道のりの始まりの日であった。


「──で、何があったのだ?」


 すやすやと安らかに眠る少年を、にこにこと幸せそうに愛でている幼い少女を見遣って、真っ白な髭を撫でおろしながら老紳士が声をかけてくる。


「お、お祖父様?」


 人の気配に全く気づいていなかったロザリアは、慌てて起き上がろうとしたが、当然のことながら、がっちりとしがみ付かれていて果たせない。


「ああ、良い、良い。動くと、レオンが起きてしまうからな。いろいろと限界だったのだろう。もう少し寝かせておいてやってくれ」


 寝台傍に置かれた一人掛け椅子に腰掛け、体の前に立てた杖に両手をかけたまま、先代のブランシュ公爵が心配そうに言う。


「それにしても……あの大人ぶったレオンが、まるで幼な子のようだな。リア、お前より幼く見えるくらいだぞ」

「お祖父様ったら……それは、さすがに失礼だと思います」


 自分にしがみついている姿に苦笑しつつも、一応レオンの名誉のために反論しておく。


「まぁ、それは良い。それで?」


 軽く肩を竦めて、祖父は先ほどの問いを繰り返した。


「……あのブレスレットが出来たので、叔父様に早く渡したくて……お祖父様の書斎の前でお話が終わるのを待ってたんです。侍女から聞いて……」

「それで、急に飛び出して行ったレオンを追いかけたと?」


 どこか気遣わしげに祖父が尋ね、ロザリアは小さく頷く。


「絶対、一人にしちゃいけないって……放っておいちゃダメだって思って……叔父様の背中に黒いものが見えたから……」

「お前にはあれが見えたのか……」


 険しい眼差しを向けられて、思わず目を逸らしながら僅かに頷くと、祖父は眉を強く顰めて続けた。


「お前を責めている訳じゃあない……。本当なら、儂が追いかけるべきだったのだ。だが、この老いた足ではな……。代わりにレナートに、城の者全てを動員して探すよう命じるしかなかった。一刻を争う事態だったと言うのに──」


 身を寄りかからせていた杖を強く握り締め、祖父は苦々しげに息を吐く。


「お前はまだ幼いから詳しくは言えんが……レオンにな、産んですぐに死んだ母親の話を伝えたのだ。もう十五になって、直に学院にも入るのだから、話しておかねばならぬと思うたのだ。常々大人びて物の道理を弁えている子だから、大丈夫だと思うたのだが……」

「叔父様にはとても……とても辛いお話だったんですね」


 森で一人絶望に捉われ、闇に覆われながら絶叫する少年の姿が、まざまざと蘇る。ロザリアの幼い胸が、酷く傷んだ。


「そう……だな。年よりしっかりしているから、油断してしもうた。途中からずっと俯いていたレオンから、闇の気配を感じた時には遅かった。一気に呪力が膨れ上がって、そのまま飛び出して行きおった」

「闇の気配……あれが呪力? 黒いモヤみたいで……とても悪いものに見えたんです。あれが大きくなったら、叔父様が叔父様じゃなくなりそうで、だから……」


 ロザリアは思い出し思い出し、森での出来事を全てつぶさに祖父に話した。


「お前は、そんな小さな身体で、まだ七歳でしかないと言うに、レオンを闇堕ちから救い、穢された森を浄化したと言うのか……なんという……」


 目を強く瞠って、おののくように祖父が呟く。杖に重心を預けて、ゆっくりと立ち上がり寝台へと近づいてきたと思うと、レオンにしがみ付かれたままのロザリアに手を伸ばし、頭を優しく撫でた。


「ありがとうな、リア……。お前がいてくれて、本当に良かった」

「お祖父様……」


 面映い思いで笑みを返すと、祖父は未だ熟睡しているレオンの頭にも手を置いた。


「こんなにもあどけない顔は久々に見るな……。ずっと背のびしていたのかも知れん……。可哀想なことをした。だが、この子の中にはもう悪いものは欠片も残っとらんようだ。本当にリアのお陰だな……」


 皺の多い顔を緩めて微笑んだ後、またロザリアの頭を撫でながら、独り言のような言葉は続く。


「それにしても……森で倒れている二人を見つけたレナートが言うには、浄化の範囲は凄まじいものだったそうだ。それほどの規模を一度に癒せるのは聖女くらいのものだが、よもやリアがそうなのか……? もしそうならば、これから世が荒れる前兆ということに……いや、逆か。もう各地で前兆は出始めとるのだったな。何より、既に英雄は──」


 持てる神聖力を一気に放出したせいか、やはり消耗は激しかったらしい。

 祖父のつらつらとした独り言を聞きながら、よく意味が分からないまま、ロザリアは耐えがたい眠気に襲われて、いつしかまた寝入ってしまった。

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