深窓の令嬢として大切に育てられ、七歳になったばかりのロザリアは、年齢よりも格段に大人びていた。

 まだまだ幼い年齢ながらも奥ゆかしく物静かな質だったが、生まれて初めて帝都を出て旅をすることになり、珍しく浮かれていた。


 それまで、帝都を出るどころか、公爵邸から出ることすらほとんどなかった。

 だから、帝都の遥か北方、帝国の外縁に近い領地へと家族で向かうのが楽しみで、嬉しくて嬉しくて堪らなかった。


 広大なブランシュ公爵領、その領都にある壮大な城。到着して早々、自室として決められた瀟洒な部屋で旅装を解いたロザリアは、テラスにお茶の用意をしてもらい、そこから外の景色を一人眺めて楽しんでいた。


 室内では、侍女たちが慌ただしく荷物の整理や部屋を整えるために動き回っており、普段から大人しく聞き分けの良い幼い令嬢の動向を気にする者はいない。


 高い塀に囲まれた城の背後には深い森があり、それがテラスからは左手に望め、正面には美しく造成された庭園。その先の塀の彼方には、湖がきらきらと陽を反射して輝いているのが見える。


 帝都では見ることのない景色に、用意された茶や菓子には見向きもせず、ずっと取り憑かれたように眺めていた。


「なんて綺麗なのかしら……こんな素敵な場所ならきっと、精霊にも会えるに違いないわ」


 塀が巡らされていて城の外へ出られないのは分かっているが、ロザリアは夢見る気分で森の方を眺めた。


「え……?」


 森と城を隔てる、高く頑丈な塀に造られた扉が開いている――




 「お嬢様! どちらにいらっしゃいますか!? ロザリアお嬢様!!」


 城の中では大騒ぎになっていたが、外に出てしまったロザリアの耳には届かない。本当は、勝手に抜け出すつもりなど全くなかった。


 森への扉が気になってテラスの端に寄り、乗り出して良く見ようとしたが背が足りない。仕方なく柵に手をついて必死に背伸びをしていたら――


 必死になるあまり我知らず、最近になって強まってきていた神聖力が溢れ出し、偶々テラスの端にあった仕掛けが反応してしまったらしい。

 気づいたら庭園の一角にいた。


「あれって、何かあった時のための脱出用の仕掛けなのかしら」


 周りの者に心配をかけるかもと一瞬だけ躊躇ったが、これを逃せば森を見る機会はないのではとつい思い返してしまった。


「だって……以前、お祖父様が帝都にいらした時にお話しして下さった精霊の森って、あの森のことかもしれないんだもの……。精霊は、聖印のある者の前にしか現れないって仰ってたわ。それなら……」


 自分だけならば出会えるかも知れない。だが、侍女や護衛が一緒では会えないはずだ、そう思った。その考えに従って決意を固め、広大な庭園を抜け、森へと続く扉のあった方へと向かう。


 かなりの時間を要してようやく辿り着いた時には、息も絶え絶えになっていた。何とか息を整え、逸る心と高鳴る胸を抑えて、そっと扉の向こうへと踏み出す。


 森の中とはいえ、それなりに整えられた小道があった。初めて見る森の様子に目を奪われながら進んでいくうち、かなり先に東屋のようなものが見えた。


「森の中の東屋なんて……精霊が遊びに来てたら素敵ね」


 嬉しくなって、浮かれた気分で東屋へと足を向ける。


「……歌?」


 向かう方向から、そよ風に乗って微かな歌声が聞こえてきた。華やいだ声や楽しげな声も混じっている気がする。

 不思議に思って足を進めると、東屋のベンチに誰かが座っており、その周りを人ではない者たちが取り囲むように侍っているのが遠目に見えた。


 とても、とても美しい光景だった――僅かな木漏れ日しか差さない森の中で、東屋の一角だけに燦々と陽が注ぎ、精霊たちが歌い、乱舞している。

 合わせるように色とりどりの小鳥たちが囀り、周りには様々な動物たちが集っていた。


 そんな輪の中心にいるのは、人離れして見えるほどの美しい少年だった。


『誰かしら……? 見たことのない人だけど、うちの一族……?』


 精霊に愛されているとしか思えない少年には、間違いなく聖印があるはずだ。だが、ブランシュ公爵家に、自分の他に未成年の者がいるなど聞いたことがない。

 不思議に思って、ずっと少年の方を見ていた。


 年は自分よりかなり上に見えた。自分と違って癖のないサラサラとした、だが、自分と同じ白に近い銀髪が緩やかな風になびいている。

 降り注ぐ陽がきらきらと反射して、先ほど見た湖のように輝いていた。


『綺麗……』


 うっとりと魅入っていたロザリアは気づかない。自分を目指し、禍々しいものが近づいて来ていたことに――




「ひっ!!」


 不意に生臭い異臭を感じて振り返ったロザリアは、すぐ傍まで迫ってきていた不気味な獣の姿にぎょっとした。


 犬に似ているが、明らかに普通の獣ではない。頭部は犬のようだが爛々と光る赤い目は四つあり、何より二足歩行で大人の男性の倍くらいの背がある。

 大きく裂けた口からは鋭い牙が覗いており、ダラダラと地面に垂れた涎は草や土を焼いて悪臭を放っていた。


 恐怖のあまり腰が抜けかけ、その場にへたり込んでしまいそうだった。ロザリアは、声を発することもできずにがくがくと震えながら、今にも振り下ろされんとする長く赤黒い爪を茫然と見ているしかなかった。


 そうして振り下ろされた鋭い爪によって引き裂かれる寸前、いきなりロザリアの身体は後方へと押しやられた。

 尻もちを突いた自分と獣の間を遮るように、誰かが背を向けて立っている。その抜き放った剣を握る右腕は、袖が大きく裂けて血を滴らせていた。


「あ……」


 その流れる赤い血を見て、ようやくロザリアは我に返った。先ほど東屋にいた少年が、自分を庇って獣と対峙している。


『どうしよう……。どうしたら……このままじゃ……』


 どう考えても、少年の手に負える相手とは思えない。今度は腕だけではなく、自分の代わりに、その身までもが引き裂かれる未来しか見えなかった。


「逃げ……て……」


 それだけを必死に絞り出すように言うと、少年は微かに笑った。


「大丈夫だ」


 そう安心させるように言った途端、少年の身体から強い光が迸った。


『神聖力……?』


 その光を見て獣が僅かに後ずさる。次の瞬間、少年が手にした剣を一閃――長い爪のついた獣の腕が途中から切断され、黒い血飛沫を上げながらあらぬ方向へと飛んでいく。


「お前だろう? 私の友達の仲間を食べたのは」


 どこか怯えているように見える獣に、底冷えのするような低い声をかけ少年が詰め寄る。

 更に後ずさった獣に対し二閃目が飛んだと思うや、巨体は一気に霧散し、ごろりと大きな石が転がり落ちた。


『……もしかして魔石? あれが魔獣……?』


 赤黒く光る石を凝視しながら、知識として知っていただけの存在に目を瞠る。剣を鞘に戻した少年が徐に振り返った。

 自分とほぼ同じ色合いの白銀の髪と、青紫の瞳をした十代半ばくらいの少年は、驚くほど端正な顔をしていた。


 緩やかにうねるロザリアの長い髪と違い、真っ直ぐでサラサラとした短めの髪が、優しい風に靡いてきらきらと輝いている。

 きりっとした眉と意志の強そうな切れ長の目が、整った美しい顔を精悍に見せていた。


「怪我はないか? こんな所に勝手に入っちゃ駄目じゃないか。この森は、力のない者には危険なんだ」


 そう言って少年は屈んで右手を差し伸べようとして、魔獣に裂かれた腕に痛みが走ったらしく、小さく呻いて整った顔を歪めた。


「あっ、怪我!! 手当てをしないと!」


 ロザリアは慌てて腰が抜けかけていたことも忘れて身を乗り出し、少年の腕を掴んで引いた。

 痛そうに更に顔を歪めながらも身を離そうとするのを許さず、小さな手を傷口に押し当てる。


「君、何を……!」


 困惑する少年の顔も目に入らず、ロザリアは必死に神に祈った。


『神様、どうかこの傷が癒えますように……!』


 自分の左肩近くの背には聖印があり、神聖力を身に宿していることは父から教えられていたが、実際に使うのは初めてである。

 無意識のうちに祈っていたものの、自分に治癒の力があることさえ知らなかった。


 ロザリアの身体が金色に輝き、押し当てた小さな手の下の傷がみるみる塞がっていく。そんな光景を、少年は呆気に取られた様子で見つめていた。


「驚いたな……。君は、ロザリア?」


 完全に傷が癒えた後、大きく溜め息を吐いた少年は、自分の腕を凝視したまま動かない幼い少女に尋ねる。

 名を呼ばれて顔を上げ、間近で見つめてくる少年を見た途端、ロザリアの意識は霧に包まれるように途絶え、体から力が抜けていった。




 森で倒れたロザリアが目を覚ましたのは、自室として当てがわれたばかりの部屋の寝台の上だった。

 見慣れない天蓋を不思議な思いで見上げ、公爵夫妻の呼び掛けに目を横に向けて、ようやく自分が多勢に囲まれていることに気づいて驚いた。


「お父様、お母様……? わたくし……?」

「レオンがお前を連れ帰ってくれたんだ」

「レオン……?」


 知らない名に小首を傾げて問うと、父が壁際に立っている少年を目で示す。その姿を認めて、ようやく現状が理解できた。


「あ……わたくし、森で……」

「ああ、そうだ。全く! お前はなんで、一人で森などにいたのだ?」


 普段は自分には甘く優しいはずの父から、今までに見たこともないような厳しい顔で問い詰められ、ロザリアは項垂れてぼそぼそと魔獣に襲われるまでの経緯を話した。

 そうして散々父に説教された後で、ようやく少年を紹介してもらえた。


「彼はレオン、私の弟だ」

「弟……なのですか? お父様の?」

「ああ、かなり歳が離れているがな。今年で十五歳になる。先代の意向でずっとこちらで育ったが、帝国貴族学院に通うため、これから帝都の館で一緒に暮らすことになる。それもあって、領地の視察を兼ねてレオンを迎えがてら避暑に来たのだ」

「レオン叔父様……これから家族になるのですね、嬉しいです。ロザリアと申します、よろしくお願い致します」


 一人娘で寂しい思いをしていたロザリアは顔を輝かせたが、いきなり叔父様と呼ばれたレオンは、複雑そうな思いを露わにして眉を寄せた。




 初めての旅行、初めての公爵領での避暑、初めて出来た年若い叔父との親しい交流。ひと月ほどの間、ロザリアは数え切れないほどの初めての体験をし、かつてないほど楽しい日々を過ごした。


 公爵領を家族で訪れた目的は、これから学院に入学するレオンを迎えがてらの避暑の他に、当主の座を一人息子に引き継がせて隠居したのち、領地に引き篭もっていた祖父が体調を崩しがちになったことに対する見舞いもあった。


 偶に帝都に来た時に先代公爵である祖父は、たった一人の孫娘に様々なことを面白おかしく話してくれた。

 若い頃の冒険譚や失敗談、今は亡き祖母との出会いや共に過ごした大切な思い出、帝都の館の秘密や領地のあれこれ――だが、何故かレオンのことだけは一度も聞いたことが無かった。


 先代とレオンは、親子と言うよりは祖父と孫のような年周りだが、どちらかと言うと師と弟子のようでもあった。

 幼いながらもロザリアには、レオンが祖父に向ける目に込められたものが、肉親への愛情というよりは、尊敬とか敬愛のようなものに感じられた。


 実際、祖父は学究肌で、物語に出てくる老師や魔法使いのような、高い識見と深い叡智を感じさせる老人だった。

 そんな祖父が年若い息子を距離を取って注意深く見守り、それでいて細やかに導く様子を不思議に感じたが、それがこの二人の関係なのだと自然に受け入れてもいた。

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