第二章 聖女の初恋

 アーカンシェル神聖帝国本土のほぼ中心に、標高は低いが周囲を高い崖状の岩壁に囲まれた巨大なカルデラ湖がある。

 その湖の中ほどには、島のような白い平坦な大地が広がっているが、その地こそが、古から崇められる聖地であった。


 そこには壮麗な伽藍が幾つも立ち並ぶ神聖教会の総本山があり、聖地の中核を為す“神樹”と呼ばれる巨大樹を千年以上も前から護り続けてきた。

 この神樹の“枝”である聖樹と呼ばれる大樹が大陸の方々にあり、その最も大きなものが広大な皇宮の敷地内にあって、代々の皇帝が護っている。


 他の“枝”のうち、帝国の四隅にある聖樹もまた特別で、その地を公爵領として治めつつ、四大公爵家がそれぞれ護っていた。それ以外の“枝”のある地には聖堂が建てられており、全て神聖教会が管理している。


 何故か――それは“枝”である聖樹を守護するためには、神聖力が必要不可欠だからである。聖樹に神聖力が満ちて清浄であれば、聖なる結界となって地を潤し、邪悪なものを退けることができる。

 そのために聖印を宿す者は、それぞれがそれぞれに割り当てられた聖樹へと、神聖力を注ぐ使命を生まれながらに帯びているのだった。


 帝国の領土内と言っても、聖地を護る神聖教会には世情の理は一切及ばない。そこでは皇帝の権威すらも意味を為さなかった。


 徳の高い聖職者の中から神が自ら選び、代理人としての権限と力を与えた唯一が教皇である。

 形式上は皇帝と教皇の権威は同等とされているが、皇族や貴族、ほとんどの臣民が神聖教会に帰依している現状では、実際には教皇の立場の方が上と言えた。


 教皇の役割は神樹を護り、神の代理人として神意を人々に伝え導くことである。世俗には一切関わらず、聖地から出ることはほとんどない。

 聖地を出る数少ない機会が、皇宮で行われる正式な聖卓会議への出席と、帝都で行われる建国記念祭での幾つかの祭祀の施行だった。


 聖印ある者が十五歳になる年、その数少ない機会に合わせて教皇への謁見の場が設けられる。帝都にある大聖堂で皇帝立会いのもと、教皇はその者の真実の姿を見極め、場合によっては二つ名を授ける。

 それによって、その者の神から与えられた使命が明確にされた。


 筆頭公爵家令嬢ロザリア・ブランシュが十五歳になって教皇に初めて謁見したのは、ちょうど千年紀に当たる建国祭のさなか。

 そうして与えられた二つ名は、帝国の長い歴史の中でも僅かに三人目となる“聖女”だった。


 聖女の役割は癒し浄めること。かつての聖女の出現は、いずれも長年に渡って人々の負の思念が滞って澱んだことにより、神樹や枝が闇の力の影響を受け、聖なる結界が極端に弱まった時期だった。

 今回もまた、枝への負の影響が取り沙汰され始め、各地で魔物や魔獣が発生し始めていたため、聖女の出現はある程度予測されており、当然のことながら歓迎された。


 筆頭公爵家令嬢ロザリア・ブランシュが聖女であると言う事実は、教会側も皇室側も隠す気はないらしく、神聖教会内はもちろんのこと、貴族社会でもある程度広まっている。

 だが、学院を卒業していない未成年であることを理由に、未だ正式に公表はされていない。


 また、そこまで情勢が逼迫していないこともあって、聖女としての役目を果たしたこともなく、皇室の意向で将来の后妃として立つための教育が優先されていた。


 ロザリアが聖女と認定された頃、帝国騎士団のエリート部隊である近衛騎士隊に所属していたレオンは、教皇からの直接の勧誘を受け、神聖教会に所属する聖騎士団へと移籍した。

 聖騎士は聖地と聖人を護るためにある。当然、聖地で過ごすことが多く、教皇の供奉以外で帝都に戻ることは滅多にない。




 「叔父様は、いつまで帝都にいらっしゃれますの?」


 他公爵家の令息令嬢たちを見送った後、再びサロンに戻ったロザリアは、まだ同じ時間を共有してくれるつもりでいるらしいレオンに尋ねた。


「私自身の休暇は明日までだが、その後は猊下の今後の状況によるだろうな」

「聖卓会議の進捗次第と言うことでしょうか?」

「そう言うことだ」


 淹れ直した茶を勧め、ロザリアは考え込む。明日の休暇が終われば、レオンは聖騎士団長としての職務に戻る。

 教皇が聖地を出ている限り、その護衛責任者として常に同行しなくてはならない。


「猊下は、皇宮以外にご逗留されることはありませんの?」

「ロゼ?」

「例えば、その……我が家においで頂く、とか」

「何のために?」


 訝しげに問われ、ロザリアは落ち着かない気分で、持ち上げたままのカップの中の液体を見つめた。何のために――決まっている。少しでもレオンと一緒にいたいからだった。


 教皇が皇宮に一日中滞在するのであれば、レオンもまた皇宮に詰めることになる。そうなれば、せっかく同じ帝都にいると言うのに姿を見ることすら叶わない。


「……猊下に伺ってみたいことが沢山あるのです、その……聖女について、とか」


 本当の理由など言えるわけがなかった。ロザリアは必死に考えて、それらしい理由を口にする。そんな乙女心には全く気づいた風もなく、レオンは笑って言った。


「わかった。滞在が長引きそうなら、猊下に申し上げてみるよ。聖女のお願いなら、間違いなく二つ返事だろうな」


 少々気が咎めるが、全くの嘘でもない。聖女とされて以来、常々神の代理人に聞きたいことは沢山あったのだから。


 ロザリアが教皇から聖女として認定された後、すぐさま皇室からジュリアス皇子との婚約を持ちかけられた。

 父であるブランシュ公爵がにべもなく断ったため、最初の頃はロザリアも、そんな話が出ていること自体知らなかった。


 門前払いされ続けて業を煮やした皇帝は、慣習的にあり得ないにも関わらず、公爵の留守を狙って、まだ十五にしかならない少女に使者を直接送りつけてきた。

 今から思えば、皇子の体たらくにそれほど焦っていたのだろうが、ロザリアの衝撃たるや口では言い表せないほどだった。


『殿下も嫌だったけど、それよりも……わたくしには、ずっと想っていた方がいたのだもの』


 数年前の追い詰められた心境がつぶさに蘇り、ロザリアは衝動的に立ち上がった。テーブルを回って、レオンの隣に黙って座り、俯いたままその袖を掴む。


「ロゼ?」

「…………」


 あの日、まだ幼かった自分にはあまりにも強圧的に感じられた使者の奏上に、目の前が真っ暗になった心地がした。

 そのまま倒れてしまい、目覚めた時には自室の寝台に横たえられていて、騎士団の勤務を終えて帰宅していたレオンが付き添ってくれていた。


 その心配げに覗き込む顔を見た途端、ぶわっと涙が溢れてしまった。取り縋って延々泣き続けるのを、レオンは何も言わずにただ抱き締めてくれていた。


 あれから、仮とはいえ結局は皇子の婚約者にされてしまい、レオンが聖騎士になって公爵家を出てしまった中、ヴァネッサらに支えられながら、失った自由を取り戻すために必死で抗ってきた。


 その二年以上もの間のあれこれが、どれほど辛かったか。どれほど自分が頑張ってきたか。それもこれも――


『叔父様のせい……全部、叔父様のため……』


 ロザリアはレオンの袖を掴んだまま、その腕にそっと頭を押し付ける。


「やっと……自由になれました。とても……とても長かった……」

「そうだな。よく頑張った」


 優しげな低い声が頭上から響き、ぽんぽんと軽く頭を叩かれる。胸が詰まるような想いに駆られ、衝動に身を任せて抱きつく。

 あの時と同じように涙が溢れてきた。そして、あの時と同じように抱き締められる。あの時には言えなかったことが、今なら言える。そう思った。


「叔父様、わたくし……ずっと叔父様のことをお慕いしておりました。初めて会った時から、ずっと……。わたくしの初恋なのです」


 ロザリアの背を撫でていた手が止まっていた。




  ――心優しく清らかで、とても美しい姫君がいました。

  姫君は歌が大好きで、いつも美しい声で歌っていました。

  そんな歌声を、恐ろしい魔物が聞きつけました。

  魔物は姫君を浚い、城に連れ帰ってしまいます。

  姫君は大きな鳥かごに閉じ込められてしまいました。

  そうして、魔物のために歌うよう命じられました。

  無理やり歌わされても、ちっとも楽しくありません。

  来る日も来る日も鳥かごの中で歌うだけ。

  姫君は辛くて悲しくて帰りたいと泣きました。

  ある日、隣国の王子様が魔物の城にやってきました。

  王子様は鳥かごの中の姫君に一目で恋をします。

  勇敢な王子様は魔物と戦い、姫君を助け出しました。

  姫君も命がけで助けてくれた王子様に恋をします。

  やがて二人は国中の祝福を受けて結婚し、

  末長く愛し合って幸せに暮らしました――


 三歳くらいの小さな頃、ロザリアは母が読み聞かせてくれた童話の絵本が好きだった。

 王子様は強くて格好よく、お姫様は綺麗で可愛くて、怖い魔物から助けられたお姫様の、王子様に向ける笑顔がとても嬉しそうで、絵を見るたび胸がどきどきした。


「ねぇ、おかあさま……リアにもおうじさまきてくれる?」

「そうね……リアが素敵なレディになったら、きっと来てくれるわよ」

「すてきなれでぃ?」

「ええ、王子様が大好きになっちゃうような、お作法やお勉強なんかもちゃんと頑張る、綺麗で優しいお姫様みたいな女の子のことよ」

「おうじさまがきてくれるなら、リアがんばる」

「うふふ、リアはお利巧ねぇ」


 そう言って母にぎゅっと抱き締められ、優しく頭を撫でられて、幼いロザリアはとても幸せだった――

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