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「聖印とは、私の胸にある印のことだろう? 間違いなく、ここにあるぞ!」
我が意を得たりとばかりに、皇帝に同意を求める。
「私は間違いなく、皇帝の血を引く皇子だ! 此奴の無礼な発言は極刑に値する不敬だ!! 父上、違いますか!?」
調子を取り戻した皇子が勢い込んで訴えたのを、全く意に介した風もなく、レオンは淡々と続けた。
「聖印がある者に、神聖力が顕れないことはあり得ない。かつて、神に神聖力を与えられた英雄が大陸を平定してこの国を建て皇帝となった。以降、皇帝の直系子孫には聖印が刻まれ、成長後に神聖力が発現する……この国の世襲貴族ならば誰でも知っている事実だ」
「事実だと? ただの神話ではないか!」
周りが一斉に眉を顰めていることにも気づかず、皇子のみが一人、本気で反論している。
傍らに寄り添っていたはずのシャロンは、流石に空気を読んだらしく、いつの間にかそこから離れて観衆に紛れようとしていた。
「呆れたな……。仮にも皇族の立場にありながら、自国の正史を神話と思い込んでいるとは……」
「う、煩いっ!! 頭がおかしいのは、貴様の方だ!」
皇子は唾を飛ばさんばかりの勢いで喚くと、必死な様子で回りを見回した。
「近衛騎士!! さっさと、この反逆者を捕らえぬかっ!!」
皇子の命にも、皇帝を護衛している近衛騎士は誰一人として動かない。どの顔にも、皇子への不審と反感が満ちていた。
「何故、動かない! この男はお前たちの主を愚弄したのだぞ!!」
いくら命じても動く気配が全くないのを見て取るや、皇子は、苦々し気な顔で一言も発さない皇帝に詰め寄った。
「父上! 父上っ!! 近衛に命じて下さいっ! 何故、黙っておられるのですか!?」
やがて、大きく溜め息を吐いた後、教皇が億劫そうに命じた。
「時間の無駄じゃ。聖騎士団長、ことの真偽を確かめよ」
レオンは立ったまま胸に手を当て軽く頭を下げると、一気に間を詰めて皇子の上衣を引き裂いた。
先ほど皇子が示した左胸には、確かに紋様のような印があった。その印を見て、周りの貴族たちが戸惑いを露わに騒めき出す。
「初めて見るが、あれが聖印……なのか?」
「……確かに紋章らしき印があるが」
「流石に、皇帝陛下の血を引かれていないなどと言うのは、あまりにも……」
そんな騒ぎを無視して、ゆったりと近づいた教皇は皇子の胸を覗き込んだ。髭を撫でながら、ややしばらく眺めていたかと思うとポツリと呟く。
「確かに、神の紋章じゃな――」
「ほっ、ほらっ、見ろ! 私が正統な皇子である証拠ではないか!」
鬼の首を取ったかのように主張する皇子に、またそっと戻ってきたシャロンが何事も無かったかのように寄り添っている。
「――だが……これは皇帝陛下の聖印じゃ」
「は? だから何だと言うのだ。聖印なら問題ないではないか」
そんな反論に、教皇は思わずと言った素ぶりで皇帝に目を向けた。
皇帝は皇帝で、愕然とした顔で言葉を失っている。今にも崩れ落ちそうなほどに衝撃を受けたようだった。
「確かに聖印は全て同じ形をしておるが、刻まれた神聖文字は与えられた者によってそれぞれ違う。同じものが存在するはずがないのじゃ。つまり……その聖印は、神が授けたものではないということじゃのう」
教皇の言葉を受けて、レオンがロザリアに振り返る。
「ロゼ、癒しを」
「はい、叔父様」
レオンの指示に即答したロザリアは、一歩前に出て皇子の胸に向けて左手をかざした。
ロザリアの全身が金色に光り出す。
銀色の髪がふわりと浮き上がったかと思うと、白魚のような左手から溢れ出た光の奔流が、驚きに目を瞠った皇子の左胸へと注がれる。
全身を包んでいた光が少しずつ収まり、最後にその華奢な背から翼が生えているかのような光の残滓を人々の目に焼き付けて、ロザリアはゆっくりと手を下ろした。
「聖女様……」
その様子を見つめていた貴族たちは、それぞれ感動したように手を合わせて膝を突く。こんな風に崇められるのは、あまり好きではない。
思わず微かな苦笑を浮かべて、ロザリアは気を取り直し、レオンに目を向けた。
「消えましたわね……」
「ああ、癒しで消えたのだから傷ということになる。つまりは刺青だろうな」
レオンの視線に倣って、周りの目が一斉に集中する。
「なっ……!?」
同じように自分の胸に視線を向けて、皇子が慌てふためく。そこに聖印は跡形も無かった。
「刺青……? 罪人に入れると言う?」
「いやいや、先ほどの印はもっと繊細なものだったぞ」
「そう言えば……皇妃殿下のお国には、そんな文化があると聞いたことがありましたな」
現皇帝が、皇子の生母である皇妃を迎えるに至った経緯は複雑である。神聖帝国アーカンシェルは本来、一夫一婦制であり、それは皇室も変わらない。
それが、神の意志を受けての決まりだからだった。
もともと皇帝には、皇太子時代に連れ添った妃がいた。四大公爵家とは異なる傍系皇族の姫であり、夫婦仲は睦まじく、何も問題はないと思われていた。
皇帝の即位前、先帝がまだ在位していた頃、帝国が治める大陸のはるか東の海の彼方から、ある王国の親善の使者が訪れた。
異国の王は親善の証として、異母妹と末の王女を、それぞれ皇帝と皇太子の愛妾にと献上してきた。
愛妾は正式な妻ではないが、神の意志に反するとして皇室は退けた。それでも名目が親善であったため追い返すわけにもいかず、仕方なく使者として一定の期間、帝国に滞在することを許したのだった。
だが、歓待の宴などが開かれるうち、いつしか老いた先帝が異国の姫の手管に篭絡された。それまで特に不行状など無かった先帝は、箍が外れたように女色に耽り出し、皇宮の風紀は乱れていった。
当然のことながら、神聖教会や臣下の反発を招き、神にも見放されたのか、先帝の神聖力も目に見えて弱まっていく。
そんなさ中に皇太子妃が懐妊し、帝国は慶びに沸いた。相変わらず先帝の乱行は続いていたが、表面上はしばらく平穏だった。
やがて、臨月近くになった頃、唐突に皇太子妃の不義密通が取り沙汰された。最初は噂に過ぎず、取り合う者も限られていたが、状況証拠や証人が次々と現れ始めた。
皇太子は妃を庇ったが、密通相手とされた者が遺書を遺して自害するに至り、先帝が堕胎を命じて妃は幽閉された。
そうして、傷心の皇太子を慰めたのが異国の王女だった。皇太子の即位後、王女は愛妾となり、やがて皇子を産んだ。
その功により、愛妾から妃に引き上げられたが、国教である神聖教会に帰依することを拒んだため、立后には至っていない。
その後、帝国貴族の子女や某系皇族から皇后を立てようとする動きも何度かあったが、皇帝自身が消極的なこともあり、いつの間にか立ち消えとなってしまっている。
皇太子妃の密通については、未だに疑問視する向きも多く、臨月間際での堕胎には当時から眉を顰める者も多かった。何故、出産を待たなかったのか。生まれた子を検分するべきではなかったのか――と。
ジュリアス皇子の無能さが論われる度に、臣下は同じ問いを何度も繰り返すに至った。
皇子の誕生には、そんな複雑な事情があったがために、余計に貴族たちは混乱していた。
今回、皇子の聖印が偽物だったことで、堕胎された子は正統な皇嗣だったのではないかと貴族たちは疑い始めている。
神が聖印を与えた者を殺す――それは、神聖力によって国を保っている帝国では、有り得べからざる所業である。
今後、皇室に聖印が授けられることはなくなるかも知れない。そんな不安が、密かに囁かれ始めていた。
がっくりと座り込んでしまった皇子は、しばらく呆然としていた。
やがて、今現在この場を混乱に陥れている、新たに判明した事実を心が拒否しているのか、虚ろな目でぼそぼそとロザリアへの恨み言を言い出した。
「……まさか、其方が本物の聖女だなどと夢にも思わなかった……。其方が聖女、聖女と讃えられる度に……私は、周りから自分と其方の出来が違うと……其方に比べて自分が出来損ないであると、誰もが糾弾しているような気がして、辛くて苦しくて……其方を憎むようになっていた……。何故、私の婚約者が其方なのかと、筆頭公爵家が威光を傘にきて婚約などと言い出さなければと……」
ぽつりぽつりと言い募る皇子に、ロザリアは淑女らしくないとは思いながらも、つい心の底から溢れるような思いで盛大な溜め息を吐いた。
「本当に……貴方は何も見ようとせず、何も聞こうとせず、何も識ろうともしない方でしたのね。そもそも婚約を言い出したのは、我がブランシュ家ではございませんのに」
「え……」
「皇室からのお申し出でございます。父はその場でお断り申し上げました。にも関わらず、再三再四にわたってお申し出は続き、父が断固として受け入れないと判るや、陛下は勅命を出されてまで婚約を強行されようとなさいました。流石に勅命を拒否はできませんでしたので、父は聖卓会議にかけ、殿下のご卒業――つまりは今日までの猶予をもぎ取り、あくまで“仮”婚約としたのです」
「な、何故……そこまでして父上は……」
「それこそ何で分からない? ロザリアが十五歳を迎えた時の猊下への謁見で、聖女と神託を受けたからに決まっている」
露骨に不快げな顔で、レオンが切って捨てるように言う。
「勉学も武勇も劣り、かと言って何一つ努力すらしない。更には異教徒である妃所生。臣下からあまりにも不適格と看做されていた皇子には、聖女を伴侶として当てがいでもしない限り、立太子は不可能だったからだ」
「そ、そんな……」
「ですから、この場に教皇猊下まで含めた聖卓会議の資格者が全て揃っておられたのです。聖卓会議で決められた、わたくしとの婚約を正式なものとする条件は、学院卒業時に殿下が皇太子として立つに相応しいお方であると認められること――でございましたので」
にっこりと微笑む聖女に、レオンは呆れたように首を振る。
「全く兄上も人が悪い……どうにもならない無能だから聖女との婚約が必要なのに、聖女と婚約したければ出来損ないでないことを二年で証明しろとは」
「それは、まぁ……お父様ですもの」
ロザリアはようやく、屈託なく笑うことができていた。だが、聖女といえども人間である。二年もの間、ずっと不愉快な思いをさせられてきたことへ、ささやかでも意趣返しをしたい気持ちを抑えることは出来なかった。
そっと皇子に近づき、声を顰めて本音を告げる。
「殿下はわたくしを嫌っておられたようですが、わたくしも殿下のことを好もしいと思うことは、どんなに頑張っても無理でございました。ですから、わたくし……それはもう物凄く努力しましたの。あらゆることを完璧以上に熟せるように、それこそ寝る間も惜しむくらいに」
「……何故だ……?」
「殿下との差が誰の目にも明らかになるように、でございますわ。そうすることで、殿下はますますわたくしを厭うようになりましたでしょう? まさか、さすがにこの肝心肝要な場で別の女性をエスコートされるような、愚かな真似までなさるとは思ってもみませんでしたけれど。わたくし、この日を心待ちにしておりましたのよ。やっと……苦痛でしかなかったお役目から解放されるのですもの」
身を引いて、詰めた距離を元に戻したロザリアは、心からの笑みを浮かべ、優雅に淑女の礼を取る。
「ごきげんよう、ジュリアス皇子殿下。どうぞ、お好きな方とお幸せに」
そのシャロンの姿は、とうに大ホールから消えていた。
皇帝の血脈の正当性が疑われる事態に、当然の如く舞踏会どころではなくなった。筆頭のブランシュ公爵が、直ちに皇宮へ移って正式な聖卓会議を開くことを宣言。
教皇をはじめとする資格者たちは、呆然としたままの皇帝と皇子を伴い、大ホールを後にした。
残された貴族たちの動揺は激しく、一向に騒めきは収まるところを知らない。ようやく動き始めた学院の運営側が散会を宣言したが、国を揺るがす事態にほとんどの者が立ち去ろうとはしなかった。
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