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「其方、どういうつもりだ!」
壇上へ礼を取っていた二人が姿勢を戻したところへ、皇子がツカツカと歩み寄り、声を荒げながらロザリアに掴みかかろうとする。
だが、その手は空を切った。流れるような所作でロザリアの腰を引き寄せて自分の陰に移動させ、レオンが立ちはだかって皇子と対峙する。
「他人のパートナーに手を出そうなどと、殿下こそどう言うおつもりで?」
長身のレオンから冷やかに見下ろされ、皇子は気圧されて僅かに身を引く。
「そっ、其方のパートナーだと? もっ、もともとは私の婚約者ではないかっ。そっ、其方こそ、ぶっ、無礼であろう!?」
声を上擦らせて吃りながら必死に喚く皇子の主張に、貴族たちが呆れ返った目を向ける。
「我が家門の掌中の珠たる大事な姫を辱めようとしたのは誰だ。どの口がそのような戯言を言う」
絶対零度の低い声が皇子に向けられる。もはやレオンは敬語すら使おうとしない。そんな皇族に対するにはあるまじき無礼な態度に、皇子が切れたように喚き散らす。
「皇子である私の婚約者でありながら、他の男をパートナーとして出席するなど何という不貞! こんなことが許されると思うのか!?」
くすりとロザリアが笑みを浮かべた。
「なっ、何が可笑しい!?」
「何を仰るかと思えば……不貞などと。この方はわたくしの叔父でございます。本日の午後、殿下が使者を介して仰ったのではありませんか。『顔も見たくないぐらい嫌いだが、義務で娶らなければならない其方とは、この先ずっとどんなに嫌でも一緒に居なければならないのだから、一生に一度の卒業の時くらい好きな女性と出席する。其方のエスコートなど絶対にお断りだ』と」
何でもないことのように、自分に向けられた言葉を一字一句違えることなく淡々と口にして、微笑を浮かべながらロザリアはついっと小首を傾げる。
「殿下のお言葉こそ、あからさまな不貞の宣言だと思うのですけれど?」
壇上も会場も驚愕に満ち満ちているが、気にするでもなく続けた。
「この舞踏会は、全生徒の参加が義務付けられております。他の女性を伴うからと、仮にも婚約者である方にエスコートを拒否されたならば、身内の者に付き添いを請うしかないではありませんか。わたくし、非難されるようなことはしておりませんわよね?」
敢えて、目の前の皇子ではなく、壇上の面々を見上げて問う。苦渋に満ちた顔でずっと俯いている皇帝以外、まず教皇が強く眉を顰めたまま大きく頷き、次いで他家の公爵たちが厳しい目で皇子を見据えながら、口々に同意した。
「当然だ。ロザリア嬢には何ら非はない」
「よくもまた、仮にも婚約者である令嬢に対して、厚かましくもそのような非道なことが言えたものだ」
「全く……恥知らずにも程がある。学院を卒業すると言うのに、未だそのような道理すら弁えてもいないとは」
一つ一つ頷きながら聞いていたブランシュ公爵が、最後に父親の心境を苦々しげに述べる。
「殿下の心ない言葉を娘と共に使者から聞かされて、父として私がどれだけ悲憤に駆られたか。この場におられる親の立場にある諸兄には、良くお分かり頂けよう」
会場中で老若問わず紳士たちが怒りを露わに頷く。
「だからこそ、教皇猊下にお許しを頂いて、護衛に就くはずだった我が弟レオンをお借りし、ロザリアのエスコートを依頼したのだ。父である私が、な」
壇上や会場を見回し、自分の分が悪いことにようやく気付いたらしい皇子が、忙しなく目線を動かしている。相当に狼狽えているらしい。
『でも……まだまだ足りませんわ。もっと足掻いて頂かないと。そうでなければ、これまで、わたくしが費やした時間にも努力にも見合いませんもの』
ロザリアが十五の歳を迎えて教皇への謁見が行われた直後、皇室から皇子の将来の妃として婚約の打診が為された。
父ブランシュ公爵は、思案する素ぶりすら見せずに即答で断ったが、皇室は諦めなかった。断固として断り続ける公爵に業を煮やし、遂に皇帝は勅命まで出すに至った。
さすがに無下にもできなくなった父は、即座に聖卓会議を召集し、正式な婚約を結ぶための条件を付けて猶予をもぎ取ってくれた。
つまるところ、皇子とロザリアの婚約はあくまで仮であり、未だ正式なものではないのである。
もともと四大公爵家は、傲慢で怠惰で無分別な上に能力さえ怪しいジュリアス皇子が、皇太子として立つことを認めていない。
皇帝自身ですら、皇子が皇帝となり得るに相応しい器量があるとは思っていないようだった。
だからこそ――人々から敬愛される聖女を添わせて補佐をさせることで、何とか我が子をいずれは皇帝の座に着かせたい。
そんな思惑が透けて見えていた。
父が認めさせた条件は、そんな皇帝の思惑を真っ向から否定するものだった。皇子の学院卒業時に、聖卓会議にて皇太子として相応しいか否かを判断し、相応しいと判断されれば正式な婚約を受け入れると。
そうしてロザリアは、全くの不本意ではあったが仮の婚約をさせられた。
仮であるにも関わらず、直ちに厳しい后妃教育が始められ、過密なスケジュールを組まれて自由を奪われ、ひたすら努力を求められてきた。
妃となる側に苛烈な要求をしておきながら、肝心の皇子は義務も責任も放棄し、一向に努力する様子を見せなかった。
いつまで経っても傲慢で怠惰で無分別。温厚で慈悲深いと言われるロザリアですらも、さすがに耐えかねていた。
父や家門、他公爵たちの思惑。親しい友人たちの進言や協力。そして何よりも、自分自身の夢のために。
ロザリアは、欠片も尊敬できず嫌悪すら覚える相手から自由になるためには、手段は選ばないと心に決めた。例え、悪女と口汚く罵られようと――
目立たぬようにゆっくりと動き始めた協力者たちが、少しずつ自分の周りに近づいて来るのを認めて、ロザリアは微かな笑みを浮かべる。
『さて……殿下は相変わらず動きませんわね。どうしたら良いのか分からずに困っていらっしゃるのでしょうけれど、それではこちらの思惑通りにはいかないですし……何か、切っ掛けを作って差し上げないと駄目かしら』
そんなことを思いながら、皇子の陰に隠れて自分を睨んでくる男爵令嬢に目を向けた。黙ってじっと見つめ返し、わざと煽るようにぎこちないながら嘲笑らしきものを浮かべてみると、呆気ないほどにこちらの思い通りに動く。
憎々しげに目を眇めたシャロンは、いきなり男の庇護欲をそそるような弱々しい表情を浮かべて、小刻みに震えながら皇子の腕にしがみつく。
その耳元で何やら囁いたかと思うと、皇子がはっとしたようにロザリアを見やり、次いで獰猛で下卑た笑みを浮かべた。
「ふん、その悪辣な女のいかにも聖女ぶった外面に、皆は騙されているのだ!」
急に強気を取り戻した皇子は、居丈高に声を張り上げた。
『悪辣でございますか……。確かに、そうかも知れませんわね。わたくし、もう殿下に関わるのはご免被りたいので、この際ですから完膚なきまでに叩きのめさせていただきますわ。お覚悟召されませ』
ロザリアは自分にとって障害物でしかない目の前の暫定婚約者を見据え、完璧な淑女の笑みを浮かべて内心で密かに宣戦布告をする。
「確かに一見いかにも優しげで淑やかに見せているが、その実、中身はどれほど浅ましく醜く悪辣か! 聖女気取りの悪女などに騙されるな!」
そう訴える皇子の言葉に、誰もが微妙な顔となった。隣の者と目を合わせては首を傾げ、困惑を露わにしたまま、尚も捲し立てている皇子に目を戻す。
「なぜ、こんな悪辣な女が聖女に例えられているのか、私は不思議でならない! シャロンの方こそ、純粋で心根が優しく聖女と呼ばれるに相応しい女性だと言うのに!!」
しんと静まり返った会場の中、皇子の陶酔したような声だけが響く。どんどん熱が篭っていく訴えに比例して、怪訝な表情を浮かべる者が増えていった。
「その聖女面した悪魔のような女は、私の目が届かないのを良いことに、シャロンを陰で虐げ、口汚く罵り、ありとあらゆる嫌がらせを続けてきた! だと言うのに、どんなに酷い目に遭わされても、シャロンは気丈にも涙を堪えながら、自分の存在がロザリアを苦しめてしまって申し訳ない、いつかはロザリアも判ってくれると健気に耐え続けてきたのだ! このような女性こそが、まさに聖女と例えられるべきではないか!!」
そんな弁舌を聞き流しながら、ロザリアが盛大に溜め息を吐きたいのを何とか堪えていると、そっと長身を屈めたレオンが眉を顰めて耳元で囁いた。
「なんなのだ、この三文芝居は……」
「物語でいうところの、悲劇のヒロインを守る王子様気取りで、ご自分に酔っていらっしゃるんでしょ」
すぐ後ろから、小声だが辛辣な返答があった。いつの間にか背後に控えていた、ヴィオレ公爵令嬢のレベッカである。
とうに学院を卒業しているが、今年入学している弟のパートナーとして出席していたらしい。
皮肉屋ではあるものの、ロザリアにとっては何でも相談できる頼もしい姉のような存在だった。
「レベッカ姉様、来ていらしたのね」
心強い味方のシニカルな笑みに、ロザリアも笑みで応える。
「わたくしだけではないわ。帝都にいる四大公爵家の直系は全員参加と、各当主から通達が回って来ているのよ」
言われてそっと窺ってみると、四大公爵家の嫡流の者たちが老いも若きも関わりなく出席していた。
目の届く近場にいる者だけでなく、そのつもりで注意を向けてみると、神聖力を持つ者の存在が大ホールのそこかしこに感じられる。
「本当に……全然気づいていませんでしたわ」
「リアったら……確かに帝国最強の聖騎士団長様が隣にいれば、瑣末な神聖力なんて意識しなければ感じられないだろうけど」
全くその通りなので、ロザリアは僅かに引き攣った笑みを浮かべた。その気になりさえすれば、どんなに微々たる神聖力でも感じられる。
だが、レオンのように強い力を持つ者が側にいれば、格段に劣る力はどうしても霞んでしまうのだから仕方がない。幼い時から、そんな強大な力に馴染んできてしまった弊害とも言えた。
「ねぇ、レベッカ姉様……貴女はあの方の力、感じられまして?」
「ないわね、ただの一度も」
常々疑問に思ってきたことを小声で尋ねると、レベッカはにべもなく返してきた。視線の先には、顔を歪めて自分を糾弾し続ける仮の婚約者がいる。
「そうですわよねぇ……。聖印があるはずなのに、どうしてなのかしら」
聖印は母親の胎内にいる時に神から授かるものと言われている。唯一の例外は、聖職者の中から後天的に授けられる教皇のみ。
同時に複数人が存在することはない。天寿を全うした直後に、新たな教皇が神によって選ばれるのである。
一方の世俗では、聖印を持つ者の誕生は聖卓会議で報告され、三歳の誕生日に皇帝と四大公爵家の直系を集めて正式な披露目を行う。
そして、その者の本質を見抜く目を持つ神の代理人たる教皇へ、十五歳になって初めて謁見するのが通例であった。
だが、ジュリアス皇子の生母である異国出身の皇妃は、異教徒であることを理由に教皇への謁見を強く拒んだ。
それ故、皇妃に対する臣下からの印象は悪く、唯一の皇子でありながら、帝国民の中でのジュリアスの人気も低い。
「教皇猊下がどのようにご覧になっていらっしゃるのか、とても興味深いわね」
嘲りを宿した目で皇子を見据えながら、レベッカは冷やかな笑みを浮かべた。
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