登り月 与謝野晶子はなぜ力道山を殺さなかったのか

@yoidoremjd

運命

 その日、練習生たちの指導を終えた力道山は数人の仲間たちを連れて街へ出ていた。道行く人々は大スターへ声をかけたり、握手を頼んだり、彼もそれに応じていた。「今度こいつがデビューするんだ。俺も闘うから見に来てくれ」「ありがとう!」などと営業を欠かさずにしばらく歩き、馴染みのキャバレーへと入って行った。彼は後の世にも言われる気性の荒さこそあるが羽振りは良く、気に入った弟子たちに高い酒を飲ませたり飯代を渡すなど面倒見の良さもあった。ただリングの大スターというだけでは彼に従う若者たちは少なかっただろう。道場では罵声に怒号、竹刀の一撃など日常茶飯だった。だがそれ以上に男として、人の上に立つ者としての器量や度量といった気風があったのだ。食うに困って弟子入りして来た若いのには必ず飯を食わせ、粗末であっても寝る場所を都合してやり、明日も来いよと声をかける。そんな荒削りな優しさのある男だった。


 この日はキャバレーに彼ら以外の客はおらず、店に入るとやっと仕事になるといった風に馴染みの顔が何人か出迎えてくれた。まぁまぁと席まで案内されて行き、いつものボトルと人数分のグラス、それにわざわざ頼まないまでも仲間たちへの酒も次々用意された。まずはと仲間の一人が乾杯の音頭を取り、その日の無事と次の興行への掛け声が入りグラスを合わせた。なんのかんの言っても汗を流した後の酒は美味い。綺麗どころも侍らせて仲間たちも自分も上機嫌、今日も良い一日だった。そんな風な気持ちが湧いた頃、ふと隣に座ったコンパニオンが彼にこんな話を始めた「近頃この辺で変な事件が続いている」最初は皆で笑い、何かの怪談か冗談だと囃し立てた。だが彼女は話を続けた。「ガタイの良い人や近くの道場有段者、それにほら、この前連れてきてくれたあの角刈りの人も」そういえば少し前に道場入りした若いのが一人いたなと思い出して周りに最近あいつは来ているかと聞くと誰もが見ていないと言う。練習が辛くなり道場から去る者は珍しくない。だが確かあいつは格闘技経験者で素質もあったはず、多少のシゴキで根を上げるような男では無かった。この時になり力道山の顔は少し険しくなったように見えたとその場にいた者が後に語った。そして話は続き「それでね、急にお客さんの入りも悪くなっておかしいなどうしたんだろうななんて話をしていたら顔を真っ青にした人が店に駆け込んで来たの。あの商店街にある酒屋の息子さん、知っているでしょう?高校だかで柔道県大会に出たあの」この辺では見知った顔だった。よく御用聞きや酒瓶を届けにも来た。何かやっていたのかと聞くと柔道を少しと言っていたのでそのうち道場の方にも顔を出せと声をかけた覚えがある。「そう、その息子さんがうちにも届けてくれるんだけどその日は配達日でもなくてどうしたんだろと駆け寄ってみんなで事情を聞いたの。そしたら和服を来た女性に立ち会いを……」ガン! と音がした。和服の女性、立ち会い、この言葉が揃った時に力道山は仁王像のような貌になっていた。彼は何かを知っている。その場にいた誰もがそう感じたが聞き出せるような状況ではなかった。何せ目の前にある酒瓶やグラスが置かれたテーブルが真っ二つに割れているのだ。グラスは割れて酒は溢れたまま、誰もが息を飲み動けなくなっていた。力道山はスゥと立ち上がり、一言「後を頼む。俺は行くところがある」と割れたテーブルの間を踏み締めるようにして店を出て行った。


 時刻は夕暮れをとうに過ぎ去り、日は暮れて月が登っていた。満月の夜、街灯が少ないこの辺りでもこの日の満月は足元から通りの奥までを柔らかく照らしていた。こんな晩に男が一人、人気のない方へ、人気のない方へと歩いて行く。まるで誰かを探すかのように、まるで自分はここにいるぞと示すかのように、そして周りに邪魔者はいないと誰かに誇示するかのように歩き続けて行った。時間がどれほど経ったかはわからない。月はてっぺんを過ぎ、草むらの虫たちがリー…… リー…… と鳴いていた。一歩、また一歩と無言で歩き続けると道の先に誰かが立っている。鋭い眼光が夜の闇を貫くようにその人影を射抜く。歩幅は一定、背筋はビッと伸ばし、肩から先は脱力したかのように、着実に迫って行く。すると月の光がふわっと増したような気がした。一瞬、極々の一瞬だけ力道山の眼が眩んだ瞬間に和服姿の女性が彼の間合いに立っていた。虫の音は、どこからも聞こえない。


 まさにその瞬間はこの世に二人だけだった。あれだけ鳴いていた虫たちはピタリと鳴き止み、気配すらさせず、遠くに聞こえる船の汽笛もせず、何一つ音の無い月夜の晩に月光に照らされた男が一人と和服姿の女性が一人。力道山といえばリングの上では怒ったり鬼のような顔で突進したりとそんなイメージがあるかも知れない。彼は確かにショービジネスとしての側面もしっかり考慮した上で観客の注目を集めるように顔も身体も作り上げてその上で本物の闘いをしていた。だがこの時の彼は観客のいない路上に立つ一人の男だった。顔は無表情、だが眼は瞬きせずに間合いに立ち入った一人の女性を見据えている。何か妙な動きをすれば即座に動くぞと腰をゆっくりと落とし始めていた。その時だった。口を開いたのは相手の方からだ。「君死にたまふことなかれ」


 力道山の顔から生気がすとんと抜け落ちた。本当だ。本当にいた。相撲部屋時代に先輩力士が酔った時、ここだけの話だぞと聞かされたあの、与謝野晶子が目の前にいる。正直、キャバレーで話を聞いた時は率直に腹が立った。いくらなんでも"話の通り過ぎる"と。昔はあまりに絵に描いたような話だと思い、その場は別の話題へ変えたがあの時の先輩力士が一瞬だけ見せた「お前もいつか」という目、あの目だけが相撲部屋を出て新しい時代、プロレスの時代を拓いた今でも忘れられずに脳裏に焼き付いている。そんなバカな話があるか。だがその話にピタリと一致する話をちょうど記憶の果てにあの目が消え去ったかどうかの辺りで聞かされて怒りの余り気がつくと目の前のテーブルを真っ二つにしていた。あの話が本当であれ、出来の悪い与太話であれ、何か決して野放しにもできず胸の内に押し込めないものが湧き上がった。正体を見てやるとばかりに歩き続けて、ようやく話の真相を前にした。いる。確かに、あの与謝野晶子が自分の眼前、しかも間合いにいる。和服姿の彼女は月光の中に浮かび上がる虚像のような儚さとしかし地を踏み掴み、すぐにでも力道山を破壊する姿勢へ構えられるがただの一言を彼に差し向けた。「この意味を噛み締めよ」眼が姿が全てがそう語っていた。力道山とてこの闘いに身を投じて来た生涯を思い返すまでもなく、その意図と意図の意味する先を掴んでいた。唇から足先から全身の力が抜けそうになるのを無理矢理に堪えてなんとか、なんとか声を腹の底から押し上げた。

 「尋常に、」


 暗闇無音、スポットライトも無いリングで月明かりだけが二人を世界から隔絶させている。ついに与謝野晶子と力道山が立ち会ってしまった。与謝野晶子が懐から後世に殺人凶器と語られるあのヌンチャクを出すまでも無く、歴戦の力道山は自らの眼前に迫った危機に対して動いた。合図の無い、当然にゴングの音すらない孤独な戦いを始めた。むしろここがリングの上で無くて良かった。観客に楽しんで貰うにはリングの上にいる全員に見せ場が必要だった。だからこそ、いつしか実況席から聞こえる声や観客の声を気にして自分がどうするかではなく、場内を暖めながらの試合へと変貌していった。そして打てば歓声が湧き上がるこの手刀すらも、相手の見せ場作りや自分の勝ち方としてある頃から道具になっていた。闘うことで誰よりも上に立った時、自分の手が小さく見えたものだ。だが今、この瞬間に自分の腕先にこの手がいてくれて本当に良かったと思う。日本に新しい場所を作るため酷使し続けたこの手が、この日この瞬間まで自分の手で良かったと心の底から感謝が噴き上がった。だからこそ、今のこの一瞬だけを輝いてくれ。目の前、ただ一人の前に夢を奪われていった男たちの無念と悲哀を断ち切るために誰も観客のいないこの時に今一度、時代を切り拓いてくれ。力道山は自らが信じる渾身一撃を込めた空手チョップを与謝野晶子へ見舞う。如何なる相手でも迷いなく肉を裂き、骨を断つ手刀が振り下ろされた時に勝負は決まっていた。彼女の柔肌は数々の屈強な男たちが鍛え抜いてきた強靭な肌と筋肉すら一瞬にして断ち切るその鋒をしっとりと抑えていたのだ。己が手に伝わる感触は力道山の闘い抜いた人生の中で覚えがない、言葉を選ばずに述べるならば「殺された」ような感覚だった。目の前に老いたとはいえあの与謝野晶子がいる。そしてその眼は力道山の一撃に怯むことなく、彼の眼孔奥底を見ていた。


 この話を最初に聞かされたという梶原一騎氏は後にこう語る。「あの与謝野晶子が…… 現れたんですよ。あの場所がどうとか彼が酒を飲んでいたとかそういう話ではなく、私は本当に与謝野晶子が力道山と立ち会ったと確信している。根拠のない話ではないのだ。私はあの後に亡くなった彼の葬式へ行った時にふと気になって悪いとは思いつつ故人の、あの空手チョップを打ち続けた手を見せてもらった。最初こそあれだけの数を鍛え抜いたレスラーたちに見舞ってきた手が硬くゴツゴツとしているとすっかり思い込んでいたが実際に見てみると全く違っていたんだ。言うなればそう、大仏のような太く暖かい手だった。一つの傷も目立つような痕も無い、それは美しいとも表現できる手だった。私はごく少数の人々にこの話をして来たが皆一様に信じられないという顔をする。実際に見た私すら何かの見間違えだと思いたい。だが確かにそうだったのだ。何故かは分からない、知っての通りこの世界で闘いを志し生きてきた人々の手とは決まってその人生を表すかのようになっていく。だがあの手はなんだ、本当にあの力道山が新時代を切り拓いた伝説の手なのか。大仏、言い換えるならば全てから解放されたような手だった…… だがもし彼が最後にあの空手チョップを撃ち込んだ相手が与謝野晶子、本人であるならば、そう思うと私は納得してしまった。今でも不思議に思う、与謝野晶子はなぜ力道山を殺さなかったのか」

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