74、ボコボコタイムに逃げ場なし
「ぁ、ち、ち、ちちちちち、ちが、ちが、ちが――っ!」
底の見えない黒々とした目が男を射抜き、三十路変質者が縮み上がる。その口は何度も「違う」と言おうと動くが、そのほとんどが失敗に終わっていた。恐怖に竦んだ喉は掠れた音を発するばかりで、はっきり否定するより先に空気に紛れて消えていく。
もっとも、あいつは男が何と言おうと対応は変えないと思う。多分。
「っひ、ひぃぃっ!? ご、ごめ、ゆる――っ」
男が言葉にしようとした否定と謝罪を無視し、ライゼは壊れた壁の間からぬっと手を突き出す。そして前世の俺よりずっと大きなそれは、男の頭を簡単にわし掴んだ。手の拘束から逃れようと男は必死にもがくが体格も力も勝っているライゼに叶うわけもなく、男は頭を固定されたまま、あっさりと宙づりの形になった。
「あっ……が、ぐ……!」
「……金銭目的の侵入、ではなさそうだな」
「が…………っ!」
「おい、目的はなんだ。お前が言う『奴隷』とやらに関係があるのか」
「っ、…………っ!」
男は無我夢中でライゼの丸太のような腕をタップしている。が、それも長くは続かなかった。顔面を力強く覆われているせいで呼吸もままならないのだろう。男の腕からだらりと力が抜ける。
その様子を見て、ライゼはフンと鼻を鳴らしながら言った。
「……話にならんな。その耳と口はただの飾りか?」
「いや、お前が頭ミシミシいわせてるから息できなくて話せないだけだって」
「……む」
いや「む」じゃねーから。誰がどう見たって酸欠で顔真っ赤だから。
思わず俺が素で指摘すれば「そういえばそうだな」くらいのテンションで男を見下ろすライゼ。どうやら本当に気づいていなかったらしい。ガネットも脳筋だが、こいつもこいつでフィジカル頼りが過ぎると思う。
これじゃ目的を聞くどころじゃないから放してやれ、と言うとライゼは文字通りの意味で手を離した。というか落とした。床に落下した男は必死に酸素を取り込むのと尻を強打した痛みで悶えるのに忙しそうだ。まあ、自業自得だから同情はしないが。
「まったく、何なんですかねこの人。勝手に入り込んできて……強盗、でもなさそうですし」
声にならない声を上げながらゴロゴロと床を転げまわる男を見下ろしながら、考える。突然の襲撃に、男たちの目的。わからないことも多いが、気づけたこともある。
「……それに、私たちのことを『奴隷』と言っていたのも気にかかります」
頭の中で再生される男の言葉。
――この国で見かけるガキが奴隷じゃなきゃ、なんだってんだんだよ。
あくまでも、俺の予想にすぎない。この男の意見が国の総意というわけでもないし、なんなら外れろとさえ思う。だが、子供が見えない国の状況と男の話を聞いて、こう思わずにはいられなかった。
この国の子供全員が奴隷として扱われているのではないか、と。
「……ライゼ、もしかしてこの国は」
「何もされてないか」
「へ?」
「……何もされてないか、と言っている」
そんな考えの途中、いきなり聞こえてきた予想外の言葉に俺は思わずきょとんとした顔を向けていた。目に映るその表情は相変わらず硬い。が、心なしかいつもよりも尻尾が垂れ下がっているようにも見える。
ライゼは戸惑っている俺から荒れた様子の部屋へと視線を移し、そしてまた俺へと目を合わせた。垂れた尾が力なく床を掃く。
「すまん。来るのが遅れた」
「えっ」
「音でわかっていたが……同室の馬鹿を放っておくわけにもいかなくてな」
どうやらライゼ自身もこちらで何かが起こっていることはわかっていたものの、眠ったサトルがなかなか起きず、かといって何者かの襲撃中に寝かせておくわけにもいかず、起こすのに手間取ったとのことだった。一時期は憎悪を向けるほどの関係だったというのに、こういうところの面倒見がいいのはらしいというかなんというか。
「呑気なやつだ。こんな音の中、平気で眠り込むとはな」
「ま、まあサトルは獣族じゃないですし――ん?」
馬車の旅も長かったし、それだけ疲れがたまっていたのだろう。そう言いかけたとき、俺の脳裏をよぎる男たちの「薬でぐっすり」という言葉。そして壁に穴が開いたにもかかわらず、まったく薄まる気配のない甘い匂い。
「この匂い……ひょっとして、そっちの部屋にも?」
「その様子だとこっちも同じ状況らしいな」
「え、ちょ……ライゼ、平気なんですか?」
「? ああ、この匂いで鼻が使い物にならんくらいだな」
咄嗟に口と鼻を覆った俺とは逆に、ライゼはなんのアクションも起こさなかった。甘い空気に顔を顰めながらも、普段通りの平然とした態度で俺を見下ろしている。本当に何ともないらしい。あのガネットが異常を訴えるレベルなのに。
何故ライゼは平気なのだろうと考えて、そこで俺はふと気づく。
「……そう、ですね。これ。特に、何ともない……」
そうだ。俺にも、何も起こっていない。
思えば薬と聞いたから「吸いこんではいけない」と考えただけで、俺自身にガネットの言うような異常は何も出ていなかった。あるとしたら眠りから覚めたときの倦怠感くらいで、それも感情の高ぶりのせいかきれいさっぱり消え去っている。俺の方がガネットより遅く目覚めているから、あいつよりもこの部屋の空気を吸っているはずなのに。
俺は恐る恐る手を口元から離す。けれどやはり甘いばかりの空気はなんの害も及ぼさなかった。
どうことなのだろう。ガネットとサトルの様子、そしてこの状況で声をあげていないカミラの反応からして、薬は確かに効果があるはずなのに、何故か俺とライゼだけが何ともない。女神にはそういった薬の類が効かないのかとも考えたが、そうなるとガネットに効果があるのはおかしい。
何故俺たちには効かないのか。どうして俺たちだけなのか。
「……それで、何ともないか」
「えっ、あ、はい。怪我とかは別に」
と、そこまで考えたところでライゼの声に思考を戻され、俺は慌てて頷いた。ちょうどいいタイミングで目が覚めたのは本当に不幸中の幸いだった。あと少し遅かったら麻袋を被せられて縛り上げられていたかもしれない。
「そうか。それなら何より――」
「正直、目が覚めたら跨られててどうなるかと思ったんですけど、訓練は裏切りませんね!」
「――」
そう言った瞬間、ささやかながらも安心したように緩んでいたライゼの表情筋がスン、と真顔に戻る。そして顔の向きはそのままに、目だけがぐりんと下へと向いた。正確には俺たちの足元で伸びてしまった三十路変質者へと。
心配をかけまいと思ったが故の発言だった。だったのだが、その目に漲っている明らかな怒りを見て、思う。
あ、俺余計なこと言ったかもしんない、と。
「――なるほど。そうか。眠るお前に跨って、そうか」
「わー! ストップ! ストップ! それ以外何もされてないですし! 何なら私の方が酷いことしてますし!」
「お前は害されたから反撃した。当然だろう」
「いやそうかもだけどそれはそうなんだけど! ……というかその人じゃないし! 別の人だから! 腕振り上げんな! ストップ!」
こんな無防備なところにライゼの本気パンチでも落とそうもんならきっと無事じゃいられないだろう。女神といえど俺の倫理観は普通の成人男性のままだ。目の前で身内が誰かを手にかける光景なんて御免被る。
間に入って必死に止めに入れば、なんとかライゼは拳を下ろしてくれた。が、ホッとするも束の間、
「なら、今逃げ出そうとしてるあいつか?」
逃げ出そうとしている。その言葉を聞いて俺は咄嗟に寝ていたベッドへと視線を走らせる。だが、そこに白目を剥いて悶えていた若い男の姿はない。まさかと思いライゼの視線を辿れば暗い部屋の中、ドアノブまであと数ミリのところにその姿はあった。
若い男は俺たちの視線に気づき、しかし「もう遅い」とでも言いたげな顔でニヤッと笑う。
「へ、へへっ、覚えてろ、覚えてろよ、どうせ数分だけだろうがな、この宿ぁうちの連中の管轄なんだ。連中呼んで囲んで、ヒヒっ、奴隷らしく大人しくしときゃよかったのによ!」
仲間を呼ぶ気だと、俺でもわかった。止めなければならない。ガネット、サトル、そして恐らくカミラは薬の影響下にある。動けるのは俺とライゼだけ。囲まれたらひとたまりもない。
扉へと駆け寄ろうとする。だが、間に合わない。俺の一歩とほぼ同時に、若い男の手がドアノブへとかかった。
「ヒヒっ、ヒヒヒっ! 後悔させてやるよ、特にそこの青髪! 『奴隷にしてくださいお願いします』って頭こすりつけさせてやる! へへ、へひゃはははは!」
若い男がドアノブをひねる。ドアが開く。
そして俺は、そこでようやく理解した。
俺よりも早いあいつが、どうしてライゼが一歩も動いていないのか、その理由を。
「逃げようとすることくらい想定内だ。だから――出入り口は適任に任せてある」
俺の目は開いた扉の向こう側、宙に浮かんでいる椅子をとらえた。
「……へ、ひゃ?」
目の前の状況が呑み込めないのだろう。若い男は部屋から出ることも忘れてほんの数秒、椅子を凝視する。そしてそのたった数秒の間に椅子が若い男めがけて振り下ろされた。バキャッという紛れもなく痛そうな音と共に不法侵入者は濁った悲鳴をあげ、床へと崩れ落ちる。
「…………あ、あー、や、やった? やりました? 俺」
そして瞬きをした瞬間、目に飛び込んできたのは両手で椅子を持ち、何故か頬を赤く腫らしたサトルがへなへなと床に座り込むところだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます