59、女騎士が空を飛び、戦いは終わる


「か――」


 それは聞こえるはずがないものだった。だってその声の主が今どうなっているのかを、俺は見ているから。

 けれど聞こえてきたのは紛れもなく彼女のもので、俺は喜びと驚愕が入り混じった目を上へと向ける。


「アオイ様だ! 国を救いし女神の名を魂に刻み込め!」


 崩れたコロシアムの壁から身を乗り出すようにして立っている女騎士の、灰の髪がさらりと揺れる。凛とした横顔には生気が宿り、濁りかけていた目には光があった。


「カミラっ!」

「ああ、アオイ様! よくぞ、よくぞご無事で!」


 名を呼ぶとぱっと花が咲くような彼女の笑みがこちらへと向けられる。その瞬間、周囲から「あの騎士隊長が笑顔を?!」なんて声が聞こえた気がしたが、その内容はカミラが立っているという状況を前に早々に頭からすっぽ抜けていった。


 死の淵にいたカミラと、今立っている生き生きとしたカミラ。そのふたつがうまく結びつかず、俺は壁の淵ギリギリにも限らず堂々と仁王立ちしている彼女の足を確認する。

 大丈夫だ。透けてないし、足もある。


「へ、平気なのか? だってさっきまで――」

「少々お待ちを。今そちらへ参ります」

「参りますって、お前、怪我は、」


 この世界の幽霊が俺の知っているものと同じかは知らないが、少なくとも俺以外にも見えているようだし霊の類ではないはずだ。そう結論付け、声をかけたそのときだった。

 俺の問いに返事をするよりも先に、カミラは突然その場からダイブした。

 止めきれなかったのだろう「駄目ですって隊長ぉ!」という情けないケインの叫びを背に受けながら、カミラの身体は大空を舞った。そして器用にも空中でくるくると二回転を披露し、軽やかにコロシアムの大地へと着地する。

 これが体操競技の審査であったなら、俺は間違いなく満点の札を掲げていただろう。


「アオイ様! 申し訳ありません。このような事態に意識を失ってしまうとは……!」


 あっけにとられた俺に近づき、開口一番に悔し気に語るカミラ。いや、一時的でも腹に穴が開いていたわけだし、気絶してて当たり前なんだが。そこでピンピンされて動き回られたら人間判定するべきか怪しくなってくる。

 だが当のカミラ本人にとっては俺が泡を吹いて倒れるような大怪我でも「これくらいで」扱いらしい。騎士の思考回路というのは体育会系を煮詰めたようなものなのかもしれない。


「いや、大丈夫なの――なのですか? 傷が痛んだりとかは」

「ご安心を。この通り、無事です」


 俺が聞けばカミラはニッと笑って腹のあたりを軽くさすってみせる。その部分の鎧にはぽっかりと穴が開いていたが、下に見える肌には傷ひとつない。どうやら無事に塞がったらしい。


「遠のく意識の中で、アオイ様の声が聞こえました。『死ぬな』という声が」

「……カミラ」

「その声を追いかけて、気が付いたら目が覚めていました」


 カミラの指先が腹の中央でくるりと回る。ちょうど穴が開いていた部分だ。もう何もないことを確かめるかのように、その指先がもう存在しない傷跡を辿る。


「――今一度、あなた様に感謝を」


 そして彼女はごく自然に、その場に膝をついた。そしてまるで絵本に出てくる騎士のように恭しく、俺の手を取る。真っすぐな視線に射抜かれて、思わずドキリと心臓がはねた。


「一度ならず二度までも、あなた様は私を救ってくださった。どんなに言葉を尽くしたところで足りないことはわかっています。ですが、改めて言わせてほしいのです。……あなた様に心からの感謝を」

「そ、そんな、私はただ無我夢中だっただけで」

「いいえ、どうかそんなことをおっしゃらないでください」


 そんな、膝をついてまで感謝をされるようなことはしていないと、向けられる眼差しがむず痒くて恥ずかしくて、俺は必至に首を振る。けれどカミラはしっかりと手を握って離さず、それどころか握る力を強めながら俺にはっきりと言い放った。


「ここに誓いを。私のこの身、そして魂の一片まですべてをアオイ様のために使い、尽くすことを」

「――――っ!」

「あなた様に救われた身。いかようにも、お使いください」


 その瞬間だった。


「ぁ、ぇ?」

「……アオイ様?」

「い、いや、大丈夫。だいじょうぶ、なんだけど……」


 突然、手の先から身体じゅうに熱がまわる感覚。目の前がチカチカと瞬き、思わず片手で顔を押さえる。まるで度数の高いアルコールを一気に飲み干したかのような感覚に足元がふらつき、カミラに支えられる。

 なんだろうか、これは。

 悪いものではない、というのは何となく、感覚的にわかった。いやむしろ腹の底から――


「……ところでアオイ様」

「んえ、あ……なんですか?」

 

 唐突な変化に目を白黒させていたときだった。いきなりカミラが俺の肩を掴む。


「ずいぶんと、お怪我をされているようですね」

「え? ああ、まあ……」


 指摘されて、俺は自分の身体に視線を落とす。赤黒い痣が点々とする腕、足は擦り傷だらけで、着ている服もボロボロだ。バッサリいかれたライゼに比べたら軽傷だし、ガネットと戦ってこの程度の怪我というのは幸運にも思える。

 が、それでも痛いもんは痛い。

 指摘されて、俺の身体はようやく痛めつけられたことを思い出したのだろう。無我夢中のうちに無意識で抑え込んでいた身体の悲鳴を自覚し、俺は顔をしかめる。


「――アオイ様」

「は、はい?」


 瞬間、カミラはゆっくりと伸びているガネットの方を向き、それからぽかんとしたまま固まっている転移者の青年の方を向いた。そして再び俺へと視線を合わせ、彼女は口を開く。心なしか、肩に食い込む指の力が強い。


「切り捨てます。しばしお待ちを」

「待って?」


 音もなく剣を抜いたかと思うとカミラは迷うことなくそれをガネットへと向けた。よく見ると目がまったく笑ってない。


「あ、あ、あの、ガネットには、手を」

「黙れ転移者次は貴様だ」

「ぴぃっ?!」


 果敢にも青年が止めようと立ちふさがるが悲しいかな、それは足止めにすらならなかった。ライオンに吠えられた子猫のように身を跳ねさせ、腰を抜かしてしまっている。今にも切りかかりそうな彼女の腕に咄嗟にしがみつくが、とてつもない力だ。


「まっ、まーまー、お、落ち着いてくださいよ! ねっ、ね?」

「アオイ様を傷つけた奴……処す……」

「あっ駄目だこれ聞いてないやつだ」


 肩をすくめるライゼに鼻息の荒いカミラ。ざわめく観客にぴいぴいと泣く転移者にひっくり返ったままのガネット。

 混沌を極めた様相のコロシアム。その中でひとり、痛くて眠くて頭がぼーっとしてさっさと横になりたくてハッキリ言ってもう面倒くさくなってしまった俺は叫ぶ。


「っもう、終わりだ終わり! 試合も女神のことも、なんもかんも! もう終わり! とにかく解散っ!」


 こうして、長い長いガネットとの戦いはようやく幕を下ろすことになったのだった。


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