58、上手に泣けました


「ぐぎゃっ?!」


 この行動はどうやら奴の想定の範囲外だったらしく、飛んでいったマニュアルに対しガネットは避けようだとか防ごうだとか、そんな素振りも見せなかった。結果、俺の手から離れた広辞苑ほどの大きさの本はガネットの顔にクリーンヒットし、間抜けな声があがる。


 前のめりだったガネットの体勢は顔面ストレートを受けたことで引っ張られ、そのまま頭から後ろへとひっくり返った。青年が「ひぇっ」という悲鳴と共に青い顔でガネットと俺の間で視線をさまよわせている。


「やるな」

「やかましい。不可抗力だ」


 ちっとも嬉しくないライゼの賛辞。こいつにはそんな気ないんだろうが、正直皮肉にしか聞こえない。女神が話し合いのために暴力とか、絶対子どもが泣く。

 溜息をついて、俺は青年へと視線を向ける。


「っ! ……っ!」

「あー、何にもしない。何にもしないから。な?」


 目が合った瞬間ぎゅっと目をつぶり、プルプル小動物のように震えながらも「やるなら俺からやれ」と言わんばかりに両手を広げて立ちはだかった青年に優しく声をかける。迷子に声をかけるのと同じ要領だ。

 が、俺が生まれ変わった女神スマイルで話しかけているにも関わらず青年は警戒を解かなかった。むしろ毛を逆立て威嚇する子猫のような表情でこちらを見つめている。


「ごっ、ごめっ、ごめん、なさい。でも、ガネットに、酷いこと、しないで……!」

「う、うん。ごめんな。もう何にもしない。なーんにもしない」

「見事な一撃だったぞ」

「お前今は黙っとけ」


 空気が読めないことを抜かすライゼをひと睨みしつつ、俺は両手を上げて無害アピールを試みる。


「……ひっ!」


 が、それで安心すると思った俺の考えとは逆に青年は自らの頭を庇うような姿勢をとった。腕を頭の上でクロスして、まるで上からくる衝撃に備えているかのような――


「……」

「ご、ごめん、ごめんなさい……ごめんなさい……」


 その様子に俺は黙って腕を下げる。すると、青年はあからさまにほっとした顔になった。

 青年の背は俺よりも高い。ライゼよりはさすがに低いが、それでも若者として年相応の伸長をしている。しかし、自分よりも小さい存在にすら怯える彼の表情は幼い子供のそれだった。


「許せないなら、お、俺、俺のことは殴っても、蹴っても、いい、から。だから、ガネットは……お願い」


 異常なほど怯えた表情に大きな痣。ガタガタと足は震え、だというのにガネットを庇ってその場に立ち尽くしている姿。ガネットは「死ねと言っているようなもの」と言い、青年は「救われた」と言ったことからも、まあおおよそ想像はつく。

 おそらく、彼は文字通り手を上げただけでような環境にいたのだ。


 青年に向かって一歩近づく。それだけで彼の震えは大きくなった。一歩進むたびにその顔は青ざめ、脂汗が浮かんでくる。今、青年の身体の中では酷く巨大な恐怖が暴れまわっているのだろう。


「……っ、ごめ、なさ……っ!」


 俺が一方的に近寄り続け、青年との距離はついに拳ひとつぶんほどになる。が、ついに青年がどくことはなかった。足は目に見えてガタガタと震えているし、叫んでいないのがおかしいほどの絶望しきった表情をしている。だがそれでも伸ばした両手をおろすことはない。


 青年としての身体に、それに見合わぬ幼い言葉。自分よりも小さな女神に怯え切った目。

 そんな彼を目の前にして、俺は――


「よしよし」

「……っぅ、ぇ?」

「だいじょーぶ、だいじょーぶ。落ち着いて……」


 真正面から青年を抱きしめていた。といっても俺よりも青年の方がずっと背が高いから、俺が一方的に腹に腕を回して抱き着いている感じになってはいるが。この際そんなことはどうでもいい。野郎に抱き着くなんて本来は御免だが、俺の目に彼はただ恐怖に怯える子供にしか見えなかった。


 回りきらない両手でゆっくりと彼の背中を撫でながら、俺は青年に語り掛ける。


「これ以上ガネットに手は出さないし、あんたのことも傷つけない。約束する」

「……ぇ、え?」

「それに俺だって鬼じゃない。そんなに嫌なら無理に元の世界に戻る必要だってないさ」


 戸惑っていた青年の声が俺の声に反応して大きく震える。潤んだ声が恐る恐るといった風に俺に尋ねる。


「……ほん、ほん、とに? ガネットも、俺も――」

「ああ、俺らにその気はない。だから、いい。もういいんだ」


 おずおずと伸ばされた手を受け入れ涙に濡れたしゃっくりを聞きながら、俺は出来得る限りの優しさをもって青年に言葉をかける。青年の姿をした、ボロボロの子供に向かって。


「怖いのに、よく頑張ったな」

「――――ぁ」


 ぽつん、と雫がひとつ、俺の頬に落ちる。初めは小さく小粒なそれは徐々に量を増し、大きな塊となって。また絞り出すような声は次第に叫ぶようなものへと変わり。

 気が付けば青年は俺の背中の服を力いっぱい握りしめ、泣きじゃくっていた。




「し、信じられん。まさか、転移者様が、あんな子供のように……」

「本当に、あの方は一体何者なんだ?」


 泣く青年の姿に国民たちがざわざわと騒ぎ始める。泣いたことがなかったのか、はたまた泣くところなど見せてこなかったのか。俺にしがみついて泣く青年の姿は物珍しいようだった。そしてその興味はもちろん俺へも向いている。


 さて、どうしたものか。そう考えながら背後で控えているライゼへ視線を送る。しかし黒いオオカミは特に助言をする様子もなく、「好きにしろ」とでも言いたげに肩をすくめるばかりだった。


「……えーと、俺、じゃなくて私は、」


 とにかく信用を得る為にも身の上を明かし、その上で一応は同じ女神であるガネットの横暴を詫びるのが一応の筋だろうか。本当は寝っ転がっている女神に謝らせられたら一番いいのだが、あいにく伸びてるし。


 まあ、とりあえずそうしてみよう。で、駄目そうだったらまた考えよう。

 そう考えを締めくくり、「考えるよりも行動」と、俺は口を開く。


「――よく聞け。その方こそ暗き闇夜を照らし、癒し、迷う我らを導く真の女神!」


 そのときだった。突然、凛としたコロシアム中に響き渡る。それはあまりに聞き覚えのある、のもの。

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