56、めでたしの直後、群青の乱入者


「どうか、落ち着いて下さい!」


 周囲をぐるりと囲む壁に向かって、俺は声を張り上げる。女になった俺の声は細く高く空気を震わせて、そして国民たちの視線を一気にこちらへと向けさせた。


 何百、何千からの視線に思わずくらりとする。こちとら生まれてこの方表彰台には縁がなく、良くも悪くも注目されるような経験などない。壇上に上がったのはそれこそ卒業式くらいなものだ。

 「誰だ、あいつ」と誰かが言った気がする。だが、それに答える声はない。


「……今までを思い出して、きっと酷く驚いていることでしょう」


 今までの喧騒が嘘のように静まり返り、皆が俺の声に耳を傾けているのがわかる。

 一言区切るたびに飛び込んでくる静寂が耳に痛い。妙な緊張感のある空気感に、空っぽの胃の中がぐるりと回る。

 俺は無意識のうちに腹の上をさすりながら、言葉を続けた。


「皆さまの争いは、なかったことにはなりません。戦ってきた傷は痛むでしょうし、武器を振るい、隣人を襲った記憶はなくならない」


 そう言うと静けさの中に、すすり泣くような声が混ざり始めた。何人かが顔を押さえ、「なんでこんなことのために戦っていたんだ?」と嘆いているのが見える。誰もがついさっきまで殺し合いに興奮し、歓声を上げていた住人ばかりだった。中には一番最初の戦いで俺に襲い掛かってきた連中も何人かいた。


 彼らもまた被害者なのだろう、と思う。戦うことこそが生きる意味だと、そう思わされて、争う。国民それぞれに考えがあるはずなのに、それを統制されて。命を奪う祝福をこれ以上ない名誉だと、そう思わされて。

 「どうして戦わなければいけないのか」。戦いの女神が倒れたことによってようやく持つことを許された疑問は後悔を伴って緩やかにコロシアムを包んでいく。


「――ですが」


 戦いでガネットに叩きのめされたことを思い出したかのように傷が痛み、足元がふらついた。だが前のめりに倒れる前に、ライゼがさっと手を出して俺の身体を支えてくれる。

 低い声に「平気か」と囁かれ、それに首を縦に振って答えた。


「これからを変えていくことはできます。女神が倒れたことで悪夢は去り、意味のない戦いに身を投じる必要も、もうありません」


 コロシアムにいる誰もが傷ついた顔をしていた。戦いで傷つき、そしてそれ以上に誰かを無意味に傷つけたという後悔に痛めつけられていた。目に見えない傷は、きっと今の俺以上の苦しみを彼らに与えているのだろう。

 だがその苦しみはガネットによってつけられた傷によるものだ。国民たちがこれ以上後悔に苦しむ必要なんて、ない。


「必要以上に自分を責めないで。後悔ばかりに目を向けていては、できることもできなくなってしまいます」


 気づけば、俺の顔は笑みを作っていた。こちらを見る彼らを安心させたいという思いがそうさせたのか、口角が自然と上がり、柔らかな声を作り出す。


「支配は終わり、皆さまはもう自由の身。大丈夫、もう怖いことはありませんよ」


 そう締めくくった後、しばらくの間はしんとしていた。誰も何も言わずこちらを見ていて「ひょっとして余計なこと言った?」と俺は内心焦る。

 落ち着いてほしくて、もう終わったことに気づいてほしくてらしくもなく長々と語ってしまったが、逆効果だっただろうか。もし「余所者が、オレたちの何がわかる!」なんて激昂されたら――


「……すげえ」


 しかし、しばらくの沈黙の後に降ってきたのは罵倒でもゴミでもなかった。


「なんて慈愛に満ちた言葉だろう……」

「あいつ、ガネット様を倒したっつーことだよ、な? じゃ、ガネット様より強えーってこと?」

「アホ! 今は強いとか強くないとか、そういう問題じゃないだろ」


 ぽつりぽつりと降ってきた言葉は量を増し、歓声となって俺たちへと降り注ぐ。はじめは呆然としたような声が徐々に熱を帯び、感情が乗っていくのが聞いていてわかった。


「あの方が戦いを終わらせてくれたのか?」

「そうだ、の奴を倒して終わらせたんだ!」

「すげえっ! すげえよ!」

「もうこんなことしなくていいんだ! 殺されるために戦わなくていいんだ!」


 敬称を使う必要もないと判断したのだろう。ガネットを呼び捨てにしながら国民たちの歓喜の声は高まっていく。

 俺はといえばそんな彼らの姿をポカンと、我ながらアホ面で見上げていた。正直なところ、落ち着いてくれればいいと考えていただけで、ここまでの反応が返ってくるなんて考えもしていなかったのだ。


 落ち着いてくれたのはいいけど、どうしよう、これの収束。

 どんどん膨れ上がっていく声に俺の脳がようやくぼんやりと考え始めたときだった。


「――いやあ、お見事」


 正面から聞こえてきたのはまるで緊迫感のない、間延びした声。思わず声のした方へと目を向ければ、俺の目はこちらへ真っすぐに歩いてくる青年の影をとらえた。


「まさかガネットを倒してしまうなんて、すごい女神もいたものだね」

「……」

「ガネットはすごく、すごく強いはずなんだけど」


 ライゼが警戒を隠さず、無言のまま俺の前に立つ。だが青年はライゼの警戒などまるで目に入っていないかのような態度でこちらへと近づいてきた。


 群青の髪は背中の真ん中までの長さで、青白い顔にはまだ子供らしさが残っている。年は高校生か、それより少し上か。肩から足首までをすっぽりと覆う白いローブが風に揺れている。


「まさか、負けるなんて」


 口元はにやけた笑みを浮かべているのに、目元はまったく笑っていない。親の仇を睨みつけるような鋭い目の下にはどす黒いクマがあり、青年の顔に迫力を加えていた。


「アオイ、あいつは」

「……ああ。転移者だ」


 周囲から聞こえてくる小さな「転移者様」という声を俺は聞き逃さなかった。それはライゼも同じだろう。青年はまだ何もしていないというのに、ライゼは敵意を剥き出しにしている。

 青年から目を離さないようにしながら俺は思考を巡らせる。江利瀬の件もある。転移者は女神の配下、ガネットの味方と考えていいだろう。

 状況は最悪に思えた。


「動けそうか、ライゼ」

「お前は自分の心配だけしてろ」


 ライゼも俺も、バルツやガネットの戦いでボロボロだ。俺は殴られたり蹴られたりした傷が熱をもってジクジク痛むし、ライゼは口調こそ威勢がいいがガネットにつけられた傷からの出血が止まっていない。

 自分の背中を、冷や汗が流れていくのがわかった。

 もし、戦いになったとして、俺たちの勝ち目は――


「――っ、アオイ!」

「……えっ?」


 一瞬だけ、傷の痛みと熱に集中力が途切れたほんの一瞬。瞬きをした瞬間に青年はもう、目の前から


「こんなことになるなんて、ね」


 見えるのは、ライゼの焦りに見開いた顔。そして後ろから、間近に聞こえてきたのは、あの青年の声。


「――――!」


 回り込まれた? いつの間に? この一瞬で、どうやって?

 後ろにいると気づいた瞬間にいくつもの疑問が頭に浮かび、そして俺の身体に命令を下す。「早く離れろ」と。「そいつから距離をとれ」と。

 だが、俺の身体は不測の事態を前に凍り付いたように動かなかった。脳の命令が空回りし、喉からは悲鳴すらでてこない。

 この転移者が何の力を持っているのか、何をするつもりかはわからない。ただ理解できるのは、もし攻撃されたら避けることができないということだけ。

 やばい。

 今度こそ、死ぬ。


 少しでも距離をとろうと、俺の身体はようやく前のめりに動き始める。だがそれが数歩もいかぬうちに青年は俺の後ろで両腕を大きく上に振り上げ、そしてそれを容赦なく振り下ろし、


「ごめんなさぁぁいっ! お願いします! いいい命っ、命だけはっ! 助けてくださいぃぃぃぃぃっ!」


 何故か俺の後ろで見事な土下座をきめた。

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