54、一方そのころ、黒と黒のぶつかり合い
※※※
まったくもって、見る影もない。
でたらめに繰り出されているように見えながらも、鋭い攻撃を放ってくる手足をかわしながら、ライゼはバルツの目をのぞき込む。行動の予備動作がわかりやすい視線は戦う上で最も重要な観察対象だからだ。
「うがあああああっ! ふーっ! ふーっ!」
が、彼はそんな観察はすぐに無駄だと判断した。
泡を吐き出し興奮したように鼻の穴を膨らませているバルツの視線はライゼを見ていない。両の目はそれぞれで左右にとっ散らかっており、見ている方向どころかどこに焦点を合わせているのかさえもわからない有様だ。
「ぐるるるるるるっ! うがぁっ……! かぁっ!」
半身になることすらせず打ち込まれた拳を避け、無防備にさらけ出された腹に向けて一撃を見舞う。メリメリと内部の肉を傷つけたであろう感触が伝わり、クロヒョウの口から唾液交まじりの赤がボタボタと零れ落ちる。
確実に入った、と思う。
「があああぁぁぁぁっ!」
「――っく!」
だがそう考えた次の瞬間、ライゼの顎すれすれをバルツのつま先が掠めていった。のけ反ったライゼにすかさず追撃の拳を叩きこもうとしてくる姿は痛みにうずくまるどころか、怯む様子すらない。
「……やはり、生きているように見えてもやはり死者というわけか」
恐らく、奴は痛みを感じていない。戦いの興奮だけでは片づけられないバルツの異様さにライゼはそう判断した。
骨は何本か折れている。内臓だって、とても立っていられる状態じゃないだろう。だというのに、バルツはライゼが傷を与えるたびに今が好機だと言わんばかりに攻撃を仕掛けてきた。自分の身体の状態など気にもせず。
だがそんな生き物としての欠陥が、ライゼからの致命傷を遠ざける形につながっていた。
肉弾戦という戦い方を選んでいる以上、攻撃を仕掛けるには近づかなければならない。痛みを感じない、怯まないというバルツの性質上、確実に仕留める為に近づけばかえって手酷いカウンターをくらいかねなかった。
「ぐるるるるっ……!」
「……真の戦士、か」
真の戦士。
痛みを感じず、死への恐怖を感じず、ただ目の前の敵を屠ることのみに集中する物。それがガネットの考える真の戦士なのだろう。どんな強者にも生者である限り痛みや死への恐怖はつきまとうもので、それを克服できるというのは確かに女神にしか起こし得ない奇跡に違いない。何にも恐れず突き進む戦士はきっとどの国も欲しがることだろう。
しかし、
「……魔物、いや魔物以下だな」
「かぁっ! がぁぁぁっ!」
「魔物であっても、己の命を守ることくらいするだろう」
その姿には何を守る理性もなく、何のために戦うのかという覚悟もなく、目的もなく、
「それが、真の戦士などと……」
そして何より、誇りがない。戦うことをやめ、子を守ることを選び死んでいった父のように。
「――まったく、どこまでもオレの神経を逆なでする!」
懐に飛び込む。人間とオオカミの混ざった黒色が地を滑る流星のように狂ったクロヒョウへと突っ込んでいく。
肩か、腹か。恐らく腹だろう。そう考え腹筋に力を入れる。とにかく胸と頭以外ならどこでもいい。それくらいくれてやる、と思う。
闇雲にも見える無茶な突進。しかしそれは、これ以上長引かせることはできないと考えた上での、覚悟からの行動であった。こうしている今も、あの女神は格上を相手に奮闘しているのだから。いくら弱者に隙を見せるあの女であっても、ただでやられることはないだろう。
戦いの最中、聞こえてきていた激しい殴打音と小柄な女神の悲鳴が耳の奥に蘇り、ライゼは唇を噛みちぎらんばかりに食いしばる。かろうじて立ってはいるが、あの女神の身体はもう限界だろう。
「お前には悪いが、あいつを殺させるわけには――っ!」
だが、次の一撃で仕留めようと拳を振りかぶったその瞬間であった。
「がぁっ、がぁぁぁっ、ぁ、あ――?」
向かってくる攻撃に敵意をむき出しにしていたバルツの表情が何故か呆けたようなものに変わり、顔が沈みかけている太陽へと向く。相変わらずどこを焦点のあっていない目ではあったが、その視線は確かに女神たちの方を向いていた。
「あ、あ、あ――」
バルツは虚ろな目で、夕日に照らされてひと際赤く輝くものを見つめながら手を伸ばす。自身を変えた女神でなく、立ち向かう青い女神の手元へと指先を向ける。その表情はまるで大切なものを盗られたことに気づいた子どものようで、
「がね、っと、さま――」
戦いの女神を思わせるきつく赤い輝きが微かな記憶を呼び起こしたのかもしれない。その手を伸ばした理由は愛する女神を守るためか、はたまた奪われたものにきづいたからか。それはライゼに知る由もない。
ただわかるのは、注意が向いたことでバルツに致命的な隙が生れたことだった。
「……運が悪かったんだな、お前」
信じた相手に裏切られ、殺されるのはどれだけ悔しかったことだろうか。生命としての尊厳を踏みにじられ、今まで積み上げてきたものをすべて奪われて、どれほど絶望しただろうか。
もしもこの国に生まれていなければ、戦いの女神を信じていなければ。――自分と同じように、先にあの女神と出会っていたのなら。もしかしたら。
しかしそんな「もしも」はもう訪れないということをライゼは知っている。そして自分にできることはただひとつだけだということも。
「眠れ、バルツ!」
何かを求めるようなバルツの横顔をライゼの拳が正確に打ち抜く。赤色が噴きあがった直後、潰れた自身のそれに気づいていないような足取りでバルツの足が二、三歩とよろめき、そして、倒れた。
瞬間、ライゼは駆け出す。事前に聞かされていた弱点が、高く放り投げられた髪留めが、何をすべきかをすぐに理解させた。
「――やっちまえ、ライゼ!」
ボロボロの、しかし決して弱弱しくない声援を受け、ライゼの口は本人も知らないうちに弧を描いていた。
「おおおおおおっ!」
拳に力をこめる。髪留めが破壊されまいと抵抗するが、それすらもまとめて殴りぬく。もう二度と、こんなことを起こさせないために。狂ったこの国を終わらせるために。
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