50、任された背中、見えた勝ち筋

「……ふん、ずいぶん余裕じゃないか。そんなズタボロのくせして」


 腹を殴られた衝撃からもう立ち直ったのか、ガネットがライゼを睨みつけながら立ち上がる。眉は痛みに顰められていたが、まだまだ余裕がありそうだ。


「手負いの獣一匹と足手まといひとり。それであたしとこいつをどう痛めつける気だい?」

「が、う、ぅぅぅぅ……」


 ガネットの言葉に相槌を打つようにバルツが唸る。もはやその表情は野生の獣と変わらず、興奮しているのか食いしばった歯の隙間からよだれがボタボタと落ちているのが見えた。


 あちらはほぼ無傷。それに対し、こちらは唯一の戦力が傷を負っているし、俺はお世辞にも戦闘で役に立つとは言えない。差は大きい。これが賭けであるのなら、俺はガネットの方に大金をつぎ込むことだろう。


 しかし、と俺はライゼの方にちらりと目を向けてから口を開く。


「……せいぜい今の内に余裕ぶってろクソ女神」

「クソ女神なんてご挨拶じゃないか」

「うるせー、散々好き放題やってくれやがって」

「は、威勢だけはいっちょ前かい」


 恐らくだが、ライゼは何か策を思いついたのだろう。だから俺をわざわざ逃がしたのだ。

 震えそうになる足を叱咤して、俺はガネットに向き合う。怖くないと言えば嘘になるが、ライゼからの信頼に答えたいという気持ちが俺の身体を動かす。


「ライゼ!」

「……ああ、お前は――」


 どうするんだ、の意味を込めて叫ぶ。するとライゼは手負いとは思えない頼もしい表情で、俺に向かって言った。


「ガネットを


 空気が固まる。

 ちょっと待ってくれ。俺は耳が悪くなったのかもしれない。

 誰が、何を止めるって?


「その間に、オレはこっちを片づける」

「え!? は、いやいやいや、おい、ちょっと、待て!」


 悲しいかな、聞き間違いではなかったらしい。

 ライゼは実に短い作戦を俺に告げると、よだれを振りまいて飛び掛かったバルツに組み付いた。

 残されたのは黙ったままのガネットと、唖然とする俺。

 おいおいおいおい、待て待て待て。何かありそうな空気だしといて丸投げとか冗談じゃねえぞ!


「ぷっ……あっはっは! 威勢よく言っておいてこれかい」


 一瞬の静けさを破ったのはガネットの弾けるような笑い声だった。奴はおかしくてたまらないようで、出てもいな涙を人差し指で拭う真似をしてみせる。

 言い返したいがぐうの音も出ない。こっちだってこんな作戦だとは思わなかったのだ。


「哀れなもんだ。女神が、囮になるなんてね」

「……囮?」

「馬鹿だねぇわかんないのかい? 見捨てられたんだよ、あんたは」


 囮という言葉に首を傾げればガネットが斧を出現させ、ドスンと地面に突きたてる。表情はニヤニヤとして、俺の反応を楽しんているかのようだ。


「ま、正しい判断さ。あんたみたいな役立たず、それくらいしか使えなさそうだからね」


 激しくぶつかり合うライゼとバルツの方に視線を向けながらガネットは言う。俺を敵としてすら認識していないような立ち振る舞いだった。


「だがそんなわかりやすい策、乗る意味もない」


 わざとらしくゆっくりと斧を持ち上げながら、ガネットは俺に背を向ける。囮としての価値すらないと言いたげに。


「あいつを殺してからでも、あんたを始末できる時間はたっぷりある……あんたは特等席で眺めてるといいさ。あんたの大事な信仰者が惨たらしく死んでいくさまをね」


 そのとき、ああなるほどな、と思う。

 ライゼは、俺にこいつを任せたのだ。


「いまのうちに死に顔でも考えて――」


 べちゃり。


「………………あ?」

「お、当たった」


 粘着質な音が余裕綽々なガネットの声を遮った。

 身体の不快感に気づいたらしいガネットは、立ち止まって自身の身体を見下ろす。そして背中にへばりついた茶色の塊を見た途端、顰めていた眉をみるみるうちに吊り上げさせた。


「悪い悪い。あんまりにも無防備に背中向けてくれるもんだからさ」


 俺が放った泥の塊は見事にガネットの背中のど真ん中に命中した。わかりやすく怒りを露わにするガネットに俺は笑ってみせる。


「いやーそれにしても俺よりずーっと強い女神に、俺のへなちょこボールが当たるなんて思わなかったなあ」

「お前ッ……!」

「あ、あとさ。お前、戦士だのなんだの言ってる割に、あいつのことなーんにもわかってねえみたいだから教えとくけど」


 泥玉ひとつであっという間にこちらに殺気を飛ばすものの、すぐには何もしてこないガネットに確信を深めながら、俺は言ってやる。


「あのクソ真面目な責任感の塊はな、自分だけが助かるために囮なんか使わねーんだよ」


 むしろ皆を助けるために、自分が率先して犠牲になるようなタイプなのだ、あいつは。


「俺より女神歴長いくせに、そんなこともわかんねえの」

「……あんた、よっぽど死に急ぎたいらしいね!」


 その言葉を最後に怒りの形相でガネットが斧を振りかぶる。

 さあ、ここからが本番だ。なんとかしてライゼの言う通りにしなければならない。相手は歴戦の女神で、こちらには勝ち目などないように思える

 だが、俺の頭に恐怖こそあれど絶望はない。細くはあるが確かな勝ち筋が見えたからだ。

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