46、ガネットの祝福、その正体

 ダンスでも踊っているかのような軽やかな足取りで、バルツがガネットを助け起こす。その様子は場所が場所でなければまるで舞踏会のワンシーンのようで、ムカつくほど様になっていた。小脇に抱えられているこちらとは大違いだ、まったく。


「……ああ、悪いね。あたしとしたことがまた見誤った」


 しかし助け起こされているガネットは深窓の令嬢からは程遠い目つきだ。今にもこちらを睨み殺しそうな眼光を放っている。


「獲物をつい侮っていたぶっちまう。あたしの悪い癖だ」

「どうかお気になさらぬよう。逃げ回る子犬と小娘など、誰がどう見ようが弱者にしか見えません」


 誰が弱者だ、誰が。

 クスクスと笑うバルツに怒りがこみ上げるが、それもライゼの「挑発だ、耳を貸すな」の声に冷えて固まっていく。


 そうだ、怒りに飲まれている場合ではない。


「警戒しろ、何か仕掛けてくるかもしれん」

「……そうだな」


 警告に従い、俺はジッとバルツたちを観察する。カミラに不意打ちで重傷を負わせた奴だ。何をするつもりかわかったもんじゃない。


「どうかこの身をお使いください、我が女神よ」


 何をする気か、バルツが床に膝をつき、奴の黒い上着の裾がコロシアムの地面に触れる。上等そうなそ

れが土ぼこりで汚れることなど気にしていないようなうっとりとした表情で、隻眼のクロヒョウは赤い女神を見上げた。


「この身は血の一滴に至るまであなたの所有物なれば」

「……そうだね。あんたらは全員、あたしのものだ」

「ええ、その通り」


 差し出されたバルツの手をガネットが掴む。それは誰かの手を握る、というよりは何か物でも掴むかのように乱暴な手つきだった。

 その瞬間、雷にでも打たれたかのようにバルツの身体が震える。残された片方の目は、陶酔しきった眼差しでガネットを映し出していた。


「どうか、あなたの障害を打ち倒す栄誉を、この身にお与えください」

「……あたしの祝福がほしいってのかい」

「あなた様のために、お役に立ちたいのです」

 今にもとろけそうなバルツの声に、ガネットが頬を吊り上げる。

「――そうかい。そりゃあいい」


 腕を引いて、立ち上がらせたように見えた。前につんのめるようにしてバルツが立ち上がり、微笑みを浮かべる。


 ぞわ、と鳥肌が立った。


 やばい。

 俺の中の勘が、女神としての肉体が警鐘を鳴らす。

 やらせては駄目だ、と。


「ライゼっ!」


 気がつけば叫んでいた。弾かれたようにライゼが飛び出し、ガネットの元へと突進する。


「『女神ガネットの名において――汝に、祝福を与えん』」


 だが、ガネットの手の方が早かった。

 瞬間、パッと目の前に奴の髪以外の赤色が散る。


「……あ、が、ぁ?」


 それはまるで噴水のように、バルツの胸から噴き上げていた。

 命として流れていたものが飛び散り、コロシアムの地面をどす黒く染めていく。


「め、がみ、よ……な、ぜ」

「何故って? 欲しがったのはそっちじゃないか」


 バルツは何が起こっているのかわかっていない様子だった。隻眼の目を大きく見開き、自らの胸を貫くガネットの腕を見つめている。声を出すたびにごぷりと新たな赤が奴の口元からあふれ出た。

 静まり返ったコロシアムに、何でもないと言いたげなガネットの声が響く。


「おめでとう、あんたは今日からあたしの戦士だ。失う命なく戦い続ける、


 赤く染まった腕が引き抜かれ、その場にバルツが崩れ落ちる。流れ出る血が黒い毛並みをさらに黒く光らせ、血だまりに沈んだバルツはそこからピクリとも動かなくなる。

 死んだのだと、誰もが思ったに違いない。流れ出る血の量は、固まった身体は、初めて見た俺でもわかる、死体らしい死体だった。

 だが、次の瞬間。


「……ひっ!?」


 

 確かに俺の目の前で血だまりに沈んでいたはずのバルツの腕が動いたのだ。


「あ、いつ、生きてるのか!?」

「いや、鼓動の音が聞こえない。死んでいる。そのはずだ」

「で、でもっ、今動いたっ! 動いただろ!」


 胸を貫かれたのだから心臓の音なんて聞こえなくて当たり前だ。そんな当然のことを冷静な口調でライゼが言うが、動いたのは決して俺の見間違いなどではなかった。


「心臓を潰されて動くだと? あり得るのか、そんなことが――」

「俺が知るかよっ!」


 そうしている間にも、固まっていたはずの腕が身体を持ち上げ、胸から吊られているような挙動で上半身が起き上がる。その反動でがくんと前に頭が垂れたかと思うと、バルツの死体は俯いたままゆっくりと膝を起こし、血だまりの中に立ち上がる。

 そして、


「がぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 顔を上げ、吠える。

 まるで正真正銘、本物の獣になってしまったかのような咆哮が静まり返ったコロシアム全体をビリビリと震わせた。

 生き返ったのかと、一瞬思う。だが、それも奴の目を見るまでの話だった。


「あいつ……」


 それはついさっき見た、カミラの目に似ていた。白く濁り、焦点は合っておらず、どこか虚ろで。

 あれは死体だ。まぎれもなく、あいつは死んでいるのだ。


「新しい真の戦士の誕生だよ、お前たち」


 誰も何も言えない中で声高にガネットが言った。


「死なず、老いず、永遠に戦い続ける。お前たちが望み、求めた永遠の命さ!」


 永遠の命。バルツが、シュネが、国民が求め殺し合った果てに手に入れるはずだった景品。


「……これが、永遠の命の正体?」


 永遠の命なんてものはどこにもなく、俺の目にはただ死体を弄んでいるようにしか見えない。


「おかしいだろ、こんなの……」


 静けさが辺り一帯を包む中、吐き気がこみ上げるおぞましい光景に、俺は思わず口元を抑える。

 だけど、それもここで終わりだ。


 俺は勝利を確信し、気合で吐き気を堪えてガネットを睨みつける。

 信じていた女神のこんな真実を知ったからには、国の連中だって今まで通りというわけにはいかないだろう。

 女神は信仰心がなければ生きられない。

 俺がこの世界に来て最初に絶望した事実が、今は心強い味方となる。


「ライゼ、あいつが弱体化した瞬間を狙うぞ。今度こそあの髪留めを――」


 勝手に自爆してくれたようでなによりだ、とそう思いながら俺はライゼに耳打ちする。徐々に弱るのを待っていてもいいが、また妙なことを仕掛けられても困る。それにこんな隙を逃す手はない。


「破壊、して……?」


 が、しかし。そう考えることができたのも、がまるで雨のように降り注ぐまでのことだった。


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