39、頼もしい仲間と違和感

 走る。息が切れ、口に粘度の高い唾液が生成され、呼吸の邪魔をする。嫌な味が広がる。

 だが、それでも走る。

 バルツファミリーはしつこかった。包囲網を抜けたというのにそれでも外側に残っていた連中が俺たちを足止めしようと飛び掛かって来た。

 ようやっと乾いた手に火を灯し、突き付ける。それを何度も繰り返した。


「――っライゼ!」


 際限がなかった。巣穴から出てくる蟻の如く、バルツの連中は数を減らす気配を見せない。ひとり押しのけたらまたひとりと、別の下っ端が追ってくる。

 だからその黒い毛並みが見えた瞬間、俺は酷く安堵したのだ。


 ライゼは俺の叫びに何も発さなかった。ただその瞬間、俺の周囲をつむじ風のようなものが通り過ぎたかと思うと、周りに群がってきていたバルツファミリーの連中は皆腹を出して地面に寝転がっていた。

 そして、いつの間にか傍に立っていたライゼが黒い目で俺を見下ろしている。


「よくやった」


 ようやく返って来たのはそのひと言だけで、けれどそれは俺に「もう大丈夫だ」と感じさせるのに十分な効力を持っていた。

 俺はビノの手を握ったまま、その場にへたり込む。

 繋いだ手の間に手汗が溜まって、ちょっと気持ち悪かった。


「……お姉さん、今のって」

「……仲間、です。私の、頼もしい」


 呆然としたようなビノの声に、息を切らした俺は切れ切れに答える。

 もう連中が飛び掛かってくることはないだろう。


「アオイ様!」


 俺がへたり込んだとき、カミラはちょうど何十人目かの獣族を堀へと蹴落とすところだった。


 カミラは縋り付いてくる獣族を容赦なく鎧を着た足で蹴り上げると、急いで、ビノの顔を見た瞬間に鬼の形相でこちらへと駆けてくる。その表情ときたらカミラの傍目に見たら華奢な身体を狙って舌なめずりをしていた獣族たちが、揃って道を開けるほどだった。

 ビノの身体が硬直し、俺の手を振りほどこうとした。

 もちろん放してなんかやらない。


「ビノ!」


 怒りに空気が震える、というのはこういうことを指すのだろう。カミラは残りの数歩を大股で省略しながらずんずんとビノへと近づく。その声は俺に向けるものよりはるかに低い。


「か、カミラ……? なんでいるの……?」

「……お前がバルツファミリーの厄介ごとに首を突っ込んだと聞いたからな」


 さっきまでの生意気な態度はどこへやら。ビノは明らかにカミラに怯えていた。


「いっ――!」

「……まったく! お前という奴は!」


 ごちん、とカミラの拳がビノの頭蓋に衝突する。

 とんでもなく痛そうなげんこつであった。

 カミラが息巻いた様子で、


「どうしてそう危険なことをするんだ!」

「……痛ったいなあ! どうしてそうすぐに暴力振るうんだよ!」

「そうするだけのことをやったからだろうが!」


 痛むのだろう。両手で頭を抱えるようにしながらビノが目の前の女騎士を睨みつける。が、それもカミラの威圧感の前にすぐ屈してしまった。


 その様子にカミラはため息を吐き、少し落ち着いた口調で、


「率直に言うぞ。ビノ。今回の試合からは降りろ」

「っ!」

「……わかっただろう。お前はバルツファミリーから狙われている」


 ビノの肩から背中にかけての傷にちらりと目を落とす。


「お前がいくら腕に自信があろうとこれ以上は危険だ」


 すぐにでも首根っこを掴んで堀まで引きずっていけるだろうに、それをしないのはカミラなりの優しさなのかもしれない。


「だから、もうこれ以上戦うことは、」

「っ嫌だ!」


 しかし穏やかなその提案をビノが拒絶した。


「絶対、絶対に嫌だ! 諦められるもんか!」

「ビノ――」


 どうして、と言いたげなカミラの視線がビノに向けられる。

 ビノの態度は頑なだった。聞き入れたくない。これ以上理解したくないと言いたげに小さなキツネは首を横に振る。


「ボクはまだ戦える! 戦えるんだ! 諦めたりなんか絶対しない!」

「お前、どうしてそこまで……」

「だって――」


 ビノは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。赤い目を潤ませ、歯を食いしばり、喉からこみ上げてくる嗚咽を必死にかみ殺している。


「だって、祝福を手に入れなきゃ!」


 強烈な違和感に空気が固まった。

 カミラは目を丸くし、ビノを凝視している。


 おかしな話だった。俺たちの目の前にいるのはビノで、少なくともカミラのげんこつが致命傷で死にかけているようには見えない。だというのに、その必死さはまるで嘘に見えなくて。

 何か思い当たることがあったのか、カミラが口を開く。


「お前、まさか」


 そのときだった。

 じゃらり、と鎖が鳴る音と、何か重たいものが勢いよく風を切る音がした。

 見なくてもわかる。

 モーニングスター。


「だらしがないわねえ、あんたたち」


 ここにいる全員の目が声のした方を向く。

 視線の先、声の中心地では鉄球がぐるんぐるんと雌ライオンの周囲を回り、近くの獣族たちを遠ざけていた。


 鎖の先の鉄球がありとあらゆる生き物を遠ざけ、逃げ遅れた者を巻き込んでいく。巻き込まれたそいつらがバルツファミリーなのかそうでないのか、俺には見分けがつかない。

 わかるのはタイミングを見計らうかの如く、ライゼがあの雌ライオンと相対しているということだけだった。

 モーニングスターを唸らせながら雌ライオンが、


「こんなひとりにやられちゃうなんて、甘くし過ぎたかしら」


 弾き飛ばされた獣族に目を向けながらライゼが、


「いいのか、家族ファミリーなんだろう?」


 それを聞いて雌ライオンがニタリと笑う。


「うち、弱い子はいらない主義なの」


 仕掛ける、とその場にいる誰もが思った。そのはずだ。

 雌ライオンは鎖を回していた腕を下ろすと、鎖を掴みなおし、野球のピッチャーが大きく振り被るようなポーズをとった。手の中には鎖、そして鉄球。視線の先にはライゼの姿。


 投げつける気だ、と思った。


 鉄球がめり込む様を想像して俺は声をあげそうになる。

 その瞬間だった。


「あんたも、今すぐに潰ひ、て、ぇ――っ?」


 呂律がおかしくなったかと思うと、雌ライオンの足がよろめき、投球フォームが崩れる。そして雌ライオンが膝をつくのと同時に、勢いをなくした鉄球が明後日の方向へと飛んでいく。


「――やっと効いた」


 ビノがホッとしたようにそう呟くのと、雌ライオンが倒れ込むのはほぼ同時。

 ざわざわとするコロシアムの中で誰かが「終了」と言った。

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