27、悲鳴の正体誰だ

 夜特有の、湿った草の匂いが鼻を突いた。昼間よりも冷えた空気がさっきまでの自尊心処刑で火照った俺の頬を冷ます。風に揺れる木が黒く巨大な怪物のように影を落としていた。

 月明かりから隠れるようにしながら、俺はきょろきょろと辺りを見渡す。


「……っが、あ」

「しらばっくれてんじゃねえぞ。あいつの仲間で、オレらに探り入れてこいって言われたんだろ」

「ちがっ、違う! 仲間じゃねえ! 仲間じゃねえんだよぉ!」


 思っていたよりも近くで聞こえた声に、俺はさっと近くにあった石壁の陰に伏せた。やばいやばい。ここで俺が見つかったらもっと面倒なことになる。


「気い悪くさせたんなら謝る! だからっ……!」

「下手な嘘ついてんじゃねえぞこら!」


 苛立ったような声と、また殴打音。片方がずいぶん激しくやられているらしい。それにしてもさっきから痛めつけられている方、何だか聞き覚えがあるような。

 どうにも気になった俺は壁からそうっと片目だけを出すようにして、声がする方を覗く。


「あいつの名前出しておいて『知りませんでした、ごめんなさい』で済む問題じゃねーんだよ!」


 家と家の隙間、射しこむ月明かりに照らされて、喧嘩をしている奴らの毛並みが闇夜に浮かび上がる。


 殴られている方の見覚えのあるブチ模様に俺は思わず「あっ」と声を上げそうになった。昼間、俺を路地に追い詰めた猫っぽい獣族の姿があったからだ。


「悪かった! すまねえ! これ以上は勘弁してくれ!」

「毛を逆撫でるようなこと言いやがって。よっぽどおつむが足りないと見えるぜ」

「てめえ、そんなんで本当にあいつの仲間なのかよ」

「だから! 仲間じゃないんですって!」


 何か気に障ることでも言ったのか、複数人の獣族に取り囲まれた猫系は鼻から血を垂らしており、昼間の威勢の良さが嘘のように耳も尻尾も垂らしている。犬系は一緒じゃないのかと目を凝らせば、猫の後ろで蹲っている焦げ茶の塊が見えた。猫系よりも手酷くやられているように思える。


 あいつら一体何したんだ。

 生前も見ることのなかった生の喧嘩、というよりは一方的なリンチを前に、痛そうとは思っても手を貸すだとか止めに入るだとか、そんなドラマのような考えは一切出てこなかった。世の中にはああいったことに喜んで飛び込んでいく連中がいるらしいが、そんな奴らの気が知れない。痛い思いをするだけの何がいいのか。真正のマゾなのか。

 ライゼがマゾじゃありませんように。

 聞かれたら怒り狂いそうなことを願いつつ、俺は一向に姿の見えないライゼとカミラの姿を探す。見ていてあまり気分のいいものではないし、早くここから離れたい。


「どうします、ボス?」

「……どうしたも何も、こっちに『を知ってるか』なんて舐めた口きいた奴だ。本当に仲間でないにしろ、生かしておく道理もないだろうよ」


 しかし聞こえてきた内容に、そそくさと撤退の準備を始めていた俺の身体は固まった。


「本当に知らなかったんだ! ビノのやつが、バルツの旦那との間にそんな」

「ボスのことを気軽に呼んでんじゃねえよ三下野郎!」

「っひぃ! い、命だけは……」


 情けなく悲鳴を上げた猫系が命乞いを始めたが、その半分も俺の頭には入っていない。聞いた内容が頭の中をぐるぐると回る。

 バルツってなんだ。ビノは一体何に巻き込まれている?


「……知らねえってんならその役に立たねえ耳かっぽじってよく覚えておくんだな」


 囲んでいる連中の奥からのっそりと現れたのは大柄なクロヒョウの獣族だった。黒く長いコートのような上着を羽織り、その左目は三本の引っかき傷で潰れている。

隻眼のクロヒョウは、猫系の耳をスナックでも摘まむような気軽さで持ち上げた。


「ビノの野郎はな、獲物を奪ったんだよ。本選まで勝ち進んだオレ様を出し抜いてな」


 真冬の氷のような厚みのある冷たい声に、こっちに言われているわけでもないのに自然と震え出した腿を力づくで押さえつける。


 奴こそがボスで、例のバルツなのだろうというのは取り巻きの立ち姿を見てわかった。さっきまで好き勝手していた周りの連中が、クロヒョウが現れた瞬間、びしりと後ろで手を組んで整列しているのだ。


「あれがなきゃ今ごろ祝福はオレ様のもんだったつーのによ。笑えるだろ」


 笑えない。こんな空気感で笑えるわけがない。歯を鳴らさないように固定するのが精いっぱいだ。


 ビノの奴、一体どんな出し抜き方したんだよ。

 バルツと、その部下の詰め方はヤクザのそれとそう変わらない。あの態度ならいつかトラブルに巻き込まれるだろうとは思っていたが、それにしたってこんなヤバいのに目をつけられなくたっていいだろ、と俺は心の中で今日会ったばかりのキツネを詰る。とんだトラブルメーカーと知り合ってしまった。


「そ、そういう話なら、へへ、こっちも協力しますよ、兄さんたち。ビノの野郎には今日痛い目に遭わされてんだ。だから、一緒に」

「……あ? お前みたいな三下の手を借りる必要があると思ってんのか?」


 ビノとの因縁を聞いた途端、敵は一緒だと言いたげにすり寄る調子のいい猫系。しかしバルツはそんな下心が見え見えの協力要請を一蹴する。

 猫系はクロヒョウの尾を踏んでしまったらしかった。


「ビノの野郎はもちろんだがな、オレ様はお前みたいな何もかもが弱ぇ奴も反吐が出るほど嫌いなんだよ」

「っひ、ひいいっ!」


 そう言った瞬間、手を振り上げるクロヒョウ。青白い光に鋭い爪がギラリと凶悪な光を放っている。

悲惨なその先を見ていられなくて俺が思わず手で顔を覆った、そのとき。


「――っ!」


肩に何かが触れて、思いっきり身体が跳ねた。

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